86.だって、私は―――(前編)
―――目の前で父様が、知らない女と話している。
「生まれてくる子供は、どんな子がいいかしら?」
「子供……子供か。そうだな、私は―――」
―――どんな子がいいのか、どんな娘を望むのか。
……私は知っている。父様がどんな娘を望んでいたのか、知っている。
「よく笑う子がいいかしら? それとも、よく泣く子がいいかしら?」
「―――笑う方が良いな」
―――知っている。父様は泣く娘なんて嫌いだった。
……私は、よく泣く娘だった。
「それなら、元気に外で遊ぶ子の方がいいかしら? それとも、部屋で大人しくしている子の方がいいかしら?」
「―――元気な方が良いな」
―――知っている。父様は外に出してもよい、皆に自慢できる娘を望んでいた。
……私は、隠さなければならない娘だった。
「それなら、それならね―――血は飲める子がいいかしら? それとも、飲むのが嫌いな子でもいいかしら?」
「―――嫌がらず、血は飲んで欲しいな」
―――知っている。知っている!
そんなこと……言われなくても、知っている。
父様は、血が飲める普通の娘を欲していた。
私は……私は、血が飲めない、娘だった。
『ひぐっ、ぅっ、うぅっ……ぅ……』
―――それは涙の向こうの記憶。
近くて遠い、錆色の思い出。
『ひっ、ぐ、う、うえぇぇ……う……』
―――あの時、私は、泣いていた。そう、泣いていたんだ。
目の前の血を飲みたくなくて―――臭くて、気持ち悪くて、嫌で嫌で仕方が無かった。
……嫌だった。血を飲まされようとしていることも、味がしない料理を食べ続けることも、家にずっと閉じ込められていることも。
―――全部、全部嫌だった。
嫌だ。飲みたくない。食べたくない。お外に出たい。お友達が欲しい……そんな風に自分の気持ちを伝えられるほど私は素直じゃなくて。かしこくもなくて。言葉もうまくなくて……
だからいつも泣いていた。どうしたらいいのか分からなくて、どうしたらこんなつらい目にあわなくて済むのか分からなくて。私はいつも、泣いていたんだ。
『―――アリスちゃん』
そんな時、いつも慰めてくれるひとがいた。
お母さん―――優しくて、温かくて、綺麗で。大好きなお母さん。
『うっ、ぅぅ、おかあ、さん……』
私は、私を呼んでくれるお母さんのところに向かう。
涙を拭きながら、それでも裾から涙を零しながら、お母さんのところに行く。
『アリス』
だけど、その日は―――
私を呼ぶ声が2つになった。
『ぅ、えぅっ、……お、おとう、さん……?』
私の目の前に、お父さんがいた。
強くて、かっこよくて、優しくて。大好きなお父さん。
だけど、その日のお父さんは、すごい―――冷たい顔をしていた。
『―――アリス。お前ももうすぐ6歳になる。この歳まで血が飲めない子など、他にいない。3歳―――嫌がっても4歳になるまでには、誰もが血を飲み始めるのだ』
話を聞かされている私は、ちっとも話の内容なんて理解していなかった。
何かを言われているのは分かっていたけど、それを正しく理解するだけの力がなかった。
―――ただ、お父さんの表情から、声の出し方から、自分が叱られていることだけは分かったんだ。
『ぅ、ぅぅ、おどう、ざん……?』
私は、自分の心というものもまだしっかりと理解出来ていなかった。
だけど、理解していなくても。やっぱり小さな私にも心はあって、叱られた時、私はどうしたらいいか分からなくて、泣いていた。
痛みが、苦しみが、悲しみが愛を求めて―――私は涙を流していたんだ。
『泣くな、アリス』
―――だけどその時、お父さんは、泣く私を否定した。
『お前は姫なのだ。このナトラサの未来を背負う、姫なのだ。強くなくてはならない。強くならなくてはならない。その為には、血を飲めるようにならなくてはならないのだ』
『ぅっ―――ぅっ―――』
私は、泣けなかった。いや、やっぱり涙は出て行ったけど、泣くことが出来なかった。出来たのは、息を引きつらせることだけ。
だって、お父さんが『泣くな』って言うから―――だけど一緒に、私は言葉を失った。
『成人を迎えるまで、あと半分を切ったのだ―――今までは機を見て飲ませようとしてきたが、これより毎週、週初めの日はお前にも血を飲んでもらう』
『ひっ、ぅっ―――ぅっ―――』
何を言われているのか、その細かいところは私に理解できなかった。
だけど、今までの優しいお父さんの顔は、そこにはなかった。あったのは―――冷たい、冷たい、冷たさだけ。
『お前が血を飲みたがらないのも、失われた前世の記憶に起因するのかもしれない―――だが、血の飲まず嫌いだけは直さなくてはならない。それを直せば、お前も外で遊べるようになる。食べたがらない食事も無理をして摂る必要もなくなる。我慢するのだ』
『ぅっ―――っ―――』
私は、その時、お母さんの顔を見た。
冷たい顔をした、お父さんが、怖くて。
冷たい声で話す、お父さんが、怖くて。
『……アリスちゃん』
お母さんのその時の表情を、私はうまく覚えていない。
笑っていたような気がする、困っていたような気もする。幼心では理解できない表情だったことだけは覚えている。
何を考えているんだろう、私をどんな風に見ているんだろう。そんな、よく分からない、大人な表情だったと思う。
『……辛いかもしれないけれど、一緒に頑張りましょうね』
『ぅっ―――ぅぅ、う、うん。おかあ、さん』
聞こえてくる優しい声に、その時の私は素直に頷けた。
怖い顔ではない、冷たい言葉でない、その声の内容だけは理解できたんだ――――




