83.偽りのリリスフィー
「……ふぅ」
ことりと、音が鳴る。
飲み干した『赤ワイン』。それが注がれていたグラスを小卓に置いた後、彼は気だるげに、しかし甘心の熱を持って息を吐く。
彼の心を占めるのは、充足感。長く穴の開いていた心が埋まり、己の本能が満たされていく悦び。甘く、痺れる、幸福の余韻である。
「―――有難うございました、あなた」
そんな彼の腰へ、しな垂れかかる女がいた。雪のように白い肌、存在感のある双丘、そしてそこから腰へと連なる魅惑的な稜線。それらが彼の前に曝け出され、密に重なる。
しっとりと汗ばんだ肌は離れがたく、彼を滾らせる。生の熱を感じさせるそれは、性の歓びに変わる。
「………」
「あっ、ん―――」
彼は女の顎に手をかけ、優しく口づけを交わす。性の衝動も過ぎるが、今は彼女が愛おしくてたまらない。
甘い吐息を間近に交わし、やがて2人の瞳は蕩けて交わる。
―――2人でともに、息を吐く。唇が離れ、顔が離れると距離を埋めるように抱きしめ合った。
「あぁ―――」
彼は喘ぐ。熱情に、愛おしさに、幸せに浮かされて。
もはや我が身が至福の絶頂に至れるとは思ってもいなかった。あのまま1人で生き、このまま1人で死ぬものと、ずっと考えていた。
長く、彼の心を射止める者はいなかった。
それまで、彼に幸せを与えられる者はいなかった。
今まで、彼の心の奥底を癒せる者は誰一人としていなかった。
このまま、彼女と暮らしていく未来に希望が見える。
自分という存在を深奥まで認めてくれる相手がいて―――
自分という存在を丸ごと重ねられる相手がいて―――
自分という存在を無垢なまでに求めてくれる相手がいて―――
―――幸せである。まさしく、絶頂の時であった。
「………」
そして彼は女の髪を掻き上げ、耳元に頬を近づけ、愛おし気に囁く。
「―――愛している、リリスフィー……」
それは、愛する妻の名。
名を囁かれ、腕の中の者は恥じらうように身を捩るのであった。
「―――ねえ、あなた」
「……なんだ、リリスフィー」
睦言交わす2人。女は愛する者へと問いかける。
「私達の間に生まれてくる子供は、どんな子になるかしら?」
「子供―――子供か。そうだな、私は―――」
感慨深げに宙を眺める彼は、しかし、答えるよりも前に愛する者の言葉に思考を遮られる。
「よく笑う子がいいかしら? それとも、よく泣く子がいいかしら?」
「―――笑う方が良いな」
「それなら、元気に外で遊ぶ子の方がいいかしら? それとも、部屋で大人しくしている子の方がいいかしら?」
「―――元気な方が良いな」
「それなら、それならね―――」
そして女は、にたりと嗤う。
彼から顔を逸らし、決してその表情を見せず、見えないはずの扉の向こう側を見て、嘲笑う。
「血は飲める子がいいかしら? それとも、飲むのが嫌いな子でもいいかしら?」
それに対して、彼は答える。
「―――嫌がらず、血は飲んで欲しいな」
彼の眼は、目の前の女しか映さない。
女は顔を変え、喜びの顔を映して彼を見る。
「そうよね。あなた―――」
そして女は彼の首へしな垂れかかる。
「私達の子供はきっと、貴方に似て気高く、私に似て美しく、吸血姫らしい子供が生まれてきますわ」
「―――ああ、そうだな……」
「楽しみに、していて下さいね……あなた」
口づけを交わす2人。そこは幸せに溢れる空間。
―――それを見る者達の存在を知っているのは、ただ片方だけであった。
「な……に、が―――」
カリーナは、絶句する。疑問―――否、そのような優しい言葉では済まされない。
『嘘』が目の前に蔓延っている。信じられない『嘘』、信じたくない『嘘』―――『嘘』が、彼女の瞳を激しく貫く。
主の居室にいたのは、やはり主であった。しかし、その顔は最後に見た一年ほど前よりも相当にやつれ、覇気に溢れた吸血王の見る影もない。
髪は依れ、不精に髭が伸び、あの時彼女を力強く抱いてくれた腕も細まり、強い意志に溢れた目元も萎え切り、その姿は―――成れの果ての、残酷な姿であった。
―――だが。
それは理解できる。まだ、解る。食事も摂らず血も飲まずに泣き腫らし、奥方と子の2人を失くした主の嘆きを思えば、その痛ましい姿にも理解が及ぶ。己のことを顧みず、ひたすらに悲しみに暮れていた主の心を思えば、驚愕には値するが嘘であるとは思えない。
しかし―――だけど、でも!
あいつだけは解せない!
誰だ、あいつは―――主を誑かし、主に愛され、主に『リリスフィー』と囁かれているあいつは、誰だ!!
カリーナは見る。白銀の髪に水色の双眸―――およそ、リリスフィーと共通する点はそれだけの、見知らぬ女。身の美しさに劣り、声の可憐さに劣り、顔の造形に劣り、醜悪に言葉を重ね、何をもって彼と睦言を交わす立場に立つ!
主が―――彼が、妻として愛した者はただ1人。絶世の美と可憐な声音、慈愛に満ちた清らかな淑女、リリスフィー。ただ彼女だけである。
それを――あいつは……あいつはっ!!!
「―――どうだ、ルイナよ」
心中、怒りが渦巻く彼女の耳に、冷ややかな声が聞こえてくる。
「アーデルセン様をこうさせてしまった原因に心当たりはないか?」
はっと、振り向く。カリーナは対峙するグーネルとアリスを見比べ、彼の目的を悟ったのであった。
「私も心苦しいのだ―――アーデルセン様の、このようなお姿を晒すことは大変に遺憾である。しかし、見せなければならない。分からせねばならない。貴様に、犯した罪の深さを。
―――そうだ。アーデルセン様がここまで御心を病まれてしまったのは、全て貴様のせいなのだ、ルイナよ」
「…………」
彼は断罪に言葉を紡ぐ。全ての罪、全ての業はルイナにあると。
―――ルイナは、扉の向こうを震える瞳でもって見つめ続ける。その眼に、その唇に、感情の刺が芽吹き始めたことを、正しく知る者はいない。




