81.暴風の神髄
「――――――!」
大きな、渦の中に、閉じ込められている―――
息が、吸えない。
眼も、開けられない。
風が、突風が、暴風が外へ内へと縦横無尽に渦巻き、空を切り裂き、木々を散らし、地を削り取っていく。全ての空気が暴れまわり、口を開けば肺が押しつぶされそうになる。瞼を開ければ目玉が飛び出していきそうになる。
頭上を落ちてくる岩も、鎌風に当てられ先端より削り取られていく。岩は、吹き飛ばない。四方を真空の檻に囲まれ衝撃を外へ逃がせず、破壊の力は内へと罅入っていく。
やがて、岩は砕かれ、真空の檻から零れた破片が周囲に散らばる。その音は、周囲を渦巻く竜巻の音に掻き消され、彼女の耳まで届かない。
「――――――!!!」
彼女は膝を折り、その場で屈み、身を掻き抱く。
……止まれ。
声は出せない。真空渦巻く空間の中、彼女に出来ることは吹き飛ばされぬよう地にしがみつく他、ない。
……止まれ。
故に彼女は念じる。荒れ狂う真空の刃が無差別に服を、肌を、髪を切り裂いていっても、彼女はただひたすらに祈り続ける。
……止まれ。止まれ。止まれ。
この暴風、起こしているのは彼女自身である。魔術として行使されたこの風は、彼女の制御下に置かれて然るべきであった。
―――しかし今、彼女が収まることを祈りながらも、風はそれに抗う。
……止まれ。止まれ。止まれ。
それは荒ぶる。詠唱によってではなく、法陣によってでもなく、恐怖によって形成されたこの現象は、彼女の身体が死への恐怖に震える限り、収まることはない。
―――新たに風が舞う度、新たに真空が生まれる度、彼女の魂から魔素が流れていく。その量は、甚大。今まで行使したどんな魔術よりも、大量に魔素を喰っていく。
その流出を、抑えることは出来ない―――魔素の流出に伴い、暴れる髪の中にちらちらと金の輝きが混じり始めるのだが、眼を閉じた彼女にそれを知る術は無い。
だが、感覚で悟るものがある―――既に、魔素の限界が近い。
……止まれ。止まれ。止まれ。
杖は、手放さない。新たな魔素も込められない。
今ですら、暴風の余波が身を襲うのだ。風の制御を完全に手放したが最後、魔素へと還る僅かな間に暴風は彼女の全身をズタズタに引き裂くであろう。
絶対に、離してはいけない。彼女は力を籠めて杖を抱き、閉ざした唇と瞼の向こうで念じ続ける。
……止まれ。止まれ。止まれ―――
―――やがて、身体の震えは収まっていく。それに伴い、風もその激情の矛を収めていく。真空は解かれ、暴風は和らぎ、そよ風となってその場を去った。
「っ……はぁっ、はぁっ、ん、っ、はぁっ……!」
そうして彼女は長らく止めていた息を吐きだす。彼女は絶体絶命の窮地より、生き延びることが出来たのだ―――その代償は、限りなく魔素枯渇に近い魔素欠乏。視界は赤黒く明滅を繰り返し、起き上がろうにも肩から先、膝から先に力が入らずその場で四つ這いに地を睨む。
気を緩めてしまえば、すぐにでも意識が暗く塗り潰されそうな状態であった。
「……何が、起こった―――」
しかし霞みゆく意識の中でかろうじて、耳に入ってきたその声を認識する。
それは敵の声であった。
……立て、起き上がれ。まだ寝るな……!
萎えそうになる胸の内を縛り上げ、彼女は気力を絞って敵を睨み上げる―――戦いはまだ、続いているのである。
「はぁっ、はぁっ……!」
耳鳴りが五月蠅い……それと、気持ち悪い。くらくらする。もう何もしたくない……吐き気、頭痛、眩暈、倦怠感―――およそ、ありとあらゆる負の感覚が身を襲う中、彼女は頭を押さえ、目障りなものが視界を邪魔し始めた片目を瞑る。
魔素欠乏―――久方ぶりに陥るその状態に、彼女はしかし、負けていられない。
今は戦闘中、容赦なく必殺の一撃を放ってくる敵を前に、挫けてはいられない。
生きる為、死なない為、彼女は込み上げてくる酸っぱい唾を飲み込み、唇の裏を噛んで身を奮い立たせる。
今の彼女の神経は、一時的に機能が凍結している。手足の先の感覚はなく、骨の芯を氷に漬けられたように凍えが走る。
膝から先が震え、足に力が入らない―――それでも杖を不格好に握りながら支えにし、歯を食いしばって立ち上がる。
「っ、ぐっ、はぁっ、はぁっ…!」
そして敵に向かって杖を突きつける。その眼に映る感情は、苦だけである。常は吊り上げられた目尻も今は萎え、弱音と弱気を今にも吐き出さんと暗く沈む。
「ぐ、ふ、ふふっ、はぁっ、ふ、ふっ……」
だが、唇だけは嗤う。強情にも、豪胆にも。
その強気は姿勢において全く成り立っていないにも関わらず、彼女は大胆不敵に笑ってのけるのであった。
ただ1つ、諦めたら生が遠のき死が近づくのを知っているからである。
気力を振り絞らねば、内から挫けて地に崩れてしまうのを知っているからである。
彼女は砕けそうになる足を見ず、また視界の端をちらちら舞う金の髪を認めず、杖を突きつける。
―――まだ、負けていない。
―――まだ、死ねない。
―――まだ、この世に、未練があるっ!
「―――――!!」
体裁も外聞も気にしない。最早、気にする余裕がないし、気にする必要もない。
彼女は詠唱も呪文も唱えず、杖の先端より風の刃を生み出す。
空気を切り裂く甲高い音を立てながら、圧縮空気の刃は敵へと奔る。
下級魔術『風斬刃』にも似たその刃、その数11枚―――最早、全力。知られた相手に、そしてそもそも本気で殺しにかかってきた悪に、慈悲などない。必殺の意思を込めた攻撃の、第一陣である。
「なっ、くっ―――! 岩よ、聳え―――ぐぁっ!」
慌てて防御魔術を唱え始める敵であったが、それは間に合わない。先陣切った風の刃が、その肩を薙ぐ。
「ぐっ、立て―――<岩防壁>!」
しかし2枚目、3枚目の刃は身を捩られ、躱される。そうして詠唱が完成し、敵の眼前に岩の壁が聳え立つ。
そこに残りの風の刃が次々と突き刺さる。そしてどれも貫けず、その場で霧散する。
鉄壁を誇る『岩防壁』は崩れない。攻撃を弾き、敵を守る盾としてその場に依然として聳え立つ。
―――だが、それは同時に視界を遮る壁にもなる。
「―――!」
彼女は杖を掲げる。無言にして無表情―――否、その顔は苦悶の表情を浮かべ、滝のように玉の汗を滴らせる。最早肩で息をすることも忘れ、その呼吸は止まってより長い。次に息を吐き出してしまえば―――意識を保つ手綱が緩み、すとんと気を失ってしまいそうだ。彼女には、その予感がある。
そして―――髪である。その赤は徐々に数を少なくしていき、金の割合が増えていく。
今もまた、杖の先に宿る風の力と引き換えに、髪の多くが金色に染まっていく―――それでも彼女は、無視して魔素を込めていく。
杖の先端に収束した風は拳大の礫となり、圧縮を繰り返され小指の先ほどの球となる。球の内と外との気圧差に、空気が甲高く悲鳴を上げながら渦を巻く。彼女の周囲に旋風が巻き起こり、地に敷かれた枝葉が舞い踊る。
その間、敵に動きはない。聳え立つ『岩防壁』の裏に隠れ、今起こった事象の不可解さに驚き、混乱し、しかし頭を振って次の魔術行使の準備へ移ろうとした、未だその段階である。
僅か数秒のことである―――その合間、『岩防壁』によって視界を遮り、彼女が何をしているのか把握できなかったが為に、彼は逃れるチャンスを失ったのである。
「――――!!」
彼女は無声にて解き放つ。必殺の意思を込めた攻撃の、第二陣である。
尋常ならざる圧により弾き飛ばされた風の球は渦巻く弾と化し、音を置き去りにして宙を跳ぶ。『岩防壁』を易々と貫き、敵の脇腹を掠って背へ抜ける。
その間、無音。刹那の間、彼には何が起きたか理解は出来ず、そもそも何かが起こっていることすら理解できていなかった。
―――ッッッ、ゴオォォォンッ!!!
「ぐあああぁぁっ!!」
そして轟く轟音と悲鳴。
風の弾が通り過ぎた後の道に、遅れて衝撃波が巻き起こる。鉄壁を誇るはずの『岩防壁』は内を通り抜けてきた衝撃波に耐えきれず、瓦解し、爆発。その後ろに潜んでいた敵も衝撃波と『岩防壁』の爆散に巻き込まれ、吹き飛ばされる。
「ご、ふぅっ、ぐっ……!」
宙を飛び、地に転がされた敵は苦悶の息を漏らす―――息がある。先の攻撃が直撃しなかったらしいことを彼女は悟る。
「―――!」
まだ、生きている―――故に彼女は、萎えそうになる腕を肩から無理矢理振り上げ、なおも杖を掲げて魔素を練る。体を休める暇も、息を整える余裕も、彼女にはない。
今も、視界が暗く閉じていこうとしている。片目しか開けていない視界の端が、どんどんと闇に縁どられていく。中心も、霧がかったように霞んでいく。頭痛と眩暈が酷くて、まともに思考が立たない。吐き気と寒気が酷くて、今すぐにでも倒れ込みたい。そしてそれら負の感覚は、段々と強さを増していく。
髪の状態から察しても、魔素の量は残り少ない―――だから、ここで、確実な止めを刺すっ―――!
彼女が天に掲げた杖の先に、真空渦巻く風の塊が生まれる。それは先に生み出した風の礫の上位互換―――他の者が詠唱に頼っても行使出来ない、魔術であって魔術でないもの。
必殺の意思と死の願いを込めた、止めの一撃である。
彼女は杖の先端を敵に向け、風の塊の圧縮を開始する。
これより刹那の後、風の力は解き放たれる。それは音速を越えて突き進み、先より広範囲に破壊をもたらし、敵を確実に仕留めるだろう。
「ぐ、ふっ、ごふっ、ごほっ―――!」
敵は未だ、先の衝撃より立ち直っていない。腹這いに倒れ、咳き込み、避けることも魔術を唱えることも出来ない状況。全身を覆っていた外套がめくれ、その素顔が晒されているが、これから殺す相手の顔に興味などない。そもそも、視界がぼやけて定かに見られない。
それでも、勝つ…! 彼女は勝利を求め、最後の一撃を放つ。
「―――時間切れだよ、ソーライ」
しかしその間際、彼女の背より声が上がる。
それは再び、彼女にとって聞き覚えのない声であった。
「っ! ぁがっ…!」
彼女がその声の方へ振り返るよりも前、背中を襲う重たい衝撃―――彼女はその場を吹き飛ばされ、地に叩きつけられる。
彼女の杖も弾き飛ばされ、先端の風は期せずして放たれ、見当違いの空へと飛んでいくのであった。
「ぐっ、ふぁっ……!!」
さらに、地に落ちた彼女の胸を強烈に押さえつける、何かがいた―――それは黒い毛で覆われた、何かであった。
霞んだ視界ではそれが何であるかは杳として知れず。しかし、何か鋭利なものが月明りを照らし返しているのが彼女には見えた。それは間違いなく、凶器であった。
「ぐっ、あ、ぁっ……」
そして地面に押さえつけられた彼女には、落ちた枝葉を踏み鳴らしながら歩いてくる者達の姿が見えた。
……仲間がいたのだ、その影は2人―――なけなしの魔素を使い切り、抗う手段が残されていない彼女の瞳に、それは絶望として映る。
「ぁ、……―――」
そうして彼女は静かに、息を漏らす。
最早、気力は砕かれた―――ふっと視界が暗く沈み、彼女の意識は闇へと溶け込んでいくのであった。




