78.暴風と煉獄の出会い
―――ヒュォォッ……
「………」
何かが耳元で鳴る。それは心地よい微風の囁き。
その声を、あたしはどこで聞いてる? 目の前は真っ暗。音も光もない世界。何も無い、真っ黒の世界。
……なんでこんなところにいる?
……なんでこんなに真っ暗で、何も聞こえないんだろう?
―――ああ、そうだった。
……起きないと。
あたしは今、心を閉じていたんだった。
「……ん」
心を開いて、目を開ける。ぼんやりと見えてくるのは月明りの眩い、夜の世界。視線の先には置かれた杖と背負い袋。
―――段々と思考が現実に戻ってくる。今は夜、ここは外。あたしは結界を敷いて瞑想をしていた。今は夜、ここは外―――結界を踏み入って来た者の、印が聞こえた。
……何者かが、結界を破って入ってきた?
辺りを見回す。結界は狭い範囲でしか展開させていない。破いたものが何者だろうと、あたしは既に視認されているはず。
その何者かというのは、ルイナか、カリーナか。あるいは獣や魔物の類か……
―――ガサッ……
「―――これはこれは……」
その声は後方より聞こえる。微かに足音も聞こえてくる。
聞きなれない声だった。男の声―――それも、少し若そうな声だ。
この時点で、近づいてくるのが自分の知る者でないことを悟る。こんな辺鄙なところをうろついてそうな男の知り合いなんて、いない。
言葉を語っているが、知能の高い魔物は人間種の言葉を操る。未だどのくらいの脅威が近づいてきてるのか全く分からない。
だから警戒は緩めず、その姿を確認するべく首を回す。
「……まだとんだ小娘ではないか。楽しめそうにないな」
不穏な言葉が聞こえてくる―――敵だ、間違いない。
そいつは後ろ、林の奥から姿を現す。全身を黒いローブで覆い、目深にフードを被っていて外見的特徴が全く掴めない―――魔物か、ヒトか。分からないけど多分人間種だろう。魔物にしてはあまりに文化的な恰好をし過ぎている。
だけど、人間種だからといって安心はしない。あたしの目が寝惚けていなければ、フードの裾から覗ける口が下卑た笑いを浮かべてるように見える。
間違いなく、敵だ―――それもきっと、女の敵の部類だ。
「……何がどう楽しめないのかは分からないけど、今は喧嘩を買うつもりにはなれないの。とっとと失せなさい」
杖を持ち、立ち上がる。突きつけながら、啖呵を切る。
今は心の居所が悪いし、覚醒直後で頭が少しぼんやりする―――なかなか自分で闘争に火をつけられない気持ちだ。お帰り頂けるならお帰り頂きたい。でなければ、さっさと向こうからかかってきて欲しい。
―――って、あぁ、しまった。帽子被るの忘れてた……ちらと横目に背負い袋に被せている三角帽子を眺める。
あの帽子被らないとあたしってば、小さくて恰好がつかないんだけど……まあ、いいか。啖呵を切った手前、今から直す方が恰好がつかない。
仕方がないから、そのまま睨んでみる―――どうだ。
「ほう、威勢はいいな。うむ、良いぞ。やはり戦いは張り合いがなくてはつまらないからな!」
……あら、おかしいな。予想してた反応とだいぶ違う。小馬鹿にしてくるか、逆上してくるかと思ったのに。
感心深げにうんうんと頷く相手は、ローブから手を出す。
その手に握られているのは、1本の短杖。
あたしと同じ、魔術師か―――彼はその短杖をあたしの方に突きつけると、言った。
「貴様に決闘を申し込む! 俺の名はソーライ、魔術に覇を唱える者! 俺が勝利した暁には貴様を奴隷とする! 異議は認めん!」
……………はあ?
「……ど、奴隷?」
意味が分からない。なにこれ、意味が分からない。
……察した。どうやらあたしは、とんでもなく変態なやつに目をつけられてしまったみたいだ……
「原初の炎よ、空に爆ぜよ―――<炎爆>!」
「ちょっ、待っ…っ、風よ―――風盾!」
制止の声は聞き届けられず。朗々と詠唱を唱えてくる相手に対し、ミチは舌を打ちながら防御魔術を唱える。
―――ボオオォンッ!!
『炎爆』の魔術がミチの眼前にて炸裂する。魔術師界隈において、最も良く使われる魔術のうちの1つである。
起爆地点を任意に定めることができ、爆風によって相手を攻撃、牽制する魔術―――しかしそれは、ミチが生み出した圧縮空気の盾により散らされ、彼女の下に爆風が届くことはなかった。
「ヒヒィンッ!!」
だが、近くで成り行きを見守っていたテトは驚き、嘶く。爆風は防がれたが、空気が燃える臭いと爆発音、それらは獣である彼を怯えさせるのに十分であった。
恐怖からその場で細かく足踏みをし、不安げな眼差しで主人たるミチの様子を見る―――そして彼女が振り返らず、後ろ手を振って指示を出すのを見て、彼はその場で反転し、林の奥へと駆けて行くのであった。
「ふむ、なるほど!」
そして一方、自身の放った魔術が往なされた敵たる彼は、何故か喜色の表情を浮かべ頷く。
対して、最初の一撃を凌いだミチはげんなりとした表情で呻く。
「あんた、奴隷ってどういう―――」
「穿て―――<岩雨>!」
「……っ、聞きなさいよっ! …って、はぁ?!」
抗議の声を上げるミチの声は、またもや聞き届けられず。対峙する彼は極限にまで詠唱短縮を図った攻撃魔術『岩雨』を行使する。
彼の頭上に、こぶし大の石礫が形成される。その数は二十を超える―――ミチは一瞬呆けたようにその石群を眺め、はっと我に返り慌てて詠唱を始める。
「っ、大きく渦巻け―――<水流>!」
『岩雨』が彼女に向かって降り注ぐ。その直前に詠唱を唱え終えた彼女は『水流』を『岩雨』に向かって行使する。
―――ドバァァァッ!
追加詠唱により増大効果が付与された『水流』は大きく渦巻き、『岩雨』の礫を絡めとりながら勢いそのままに中空へと伸びていく。
あらぬ方向へと飛んで行った『水流』と『岩雨』は、やがて林の天井を抜け出た空にて上昇する勢いを失い、どこへともなく落下していった。
「なるほど、いいぞ!」
再び自身の攻撃魔術が無効化されたにもかかわらず、やはり彼の表情は曇らない。むしろその喜色を更に満面のものにし、鼻息荒く興奮の表情を見せていた。
「っ……」
一方、ミチは苦り切った表情を見せる。
気味の悪い宣言、わけ分からずの言動―――それらから察せられる人格形成の未熟さ、対人関係の未熟さ。察するに、およそ大したことのない小悪党くらいかと思っていたが―――とんでもない。彼の実力が相当に高いことが、この短い攻防の間で分かってしまったのである。
土初級魔術『岩雨』―――元々防御魔術に特化している土系統の、それも初級の攻撃魔術である。殺傷能力は低く、当たっても打ち身程度で済む魔術である。
更に言えば、石礫を形成してからそれを射出するまでの時間が長い―――つまり、土系統の攻撃魔術にありがちな欠点であるのだが、魔術を行使してから攻撃に至るまでが長いのである。その間に降り注ぐ位置を見定められてしまえば容易に防がれ、容易に避けられる。故に、滅多に使われることのない不人気な魔術なのであった。
―――しかし、それもあの物量であれば認識は変わる。一般的な魔術師が『岩雨』を行使したところで、形成される石礫は2、3個程度である。わざわざ魔素と詠唱に費やす時間を消費するより、よっぽどそのあたりに落ちている礫を投げた方が効率的であろう。(これも不人気の由縁である)
だが―――ミチがざっと見たところで、石礫の数は二十は超えていた。あるいは夜間の視界不良もあり、実はもっと多くあったのかもしれない。そんな数の石礫がまとめて降って来たら、逃げ場はない。防ぎようも限られてくる。
『岩雨』のように多数の物質を同時に形成する魔術において、その数は行使する術者によって増減する。それは魔術学的な理解や魔術行使の練度、そもそもの素質―――様々な要因によって変化するが、今言えることは1つである。
それだけの『岩雨』を行使できる奴が、単なる小悪党であるはずがない。
ミチは未だ覚醒直後で弛緩していた思考に、檄を飛ばす。油断して良い相手ではない、持てる力を振り絞らなければ負けて、奴隷とやらにさせられてしまう。そのような事態、何としても避けなければならない。
それに―――それだけの実力を持った魔術師なのである。自身の触れられたくないもののうち、どれかを探り当てられてしまうことも考えられる。
慎重に、しかし決して油断をしない。ミチは確と彼に対して、初めて敵意の視線を見せたのである。
「いいぞ、その眼。気概がある! 張り合いがある! 今回はもっと、楽しませてくれよ!」
―――何を指して『今回』であるのか、ミチには分からない。
ただ次からはより苛烈に、より高度な魔術が飛んでくる。その予感に彼女は危機感と焦燥感のそれぞれを抱いて、杖を握る手を僅かに強張らせるのであった。




