73.見失った救い主
乾いた大地に大きな裂け目、地の奥へと穿たれた大渓谷の底に更なる深奥へと続く洞穴がある。そこは決して陽光の届かぬ地。まるで空より逃れるように地底へと伸びる巌窟の先に吸血鬼の楽園、ナトラサはある。
そこを目指し、ここまでやって来た。主の病を治せる者を引き連れ、ここまで帰って来た。
逸る気持ちはあった、沸き立つ不安に押しつぶされそうにもなった。それでも、無事にこの地へ戻れたことに安堵を覚えたのも確かである。
しかし―――今、その気持ちは冷めている。彼女の心は警戒と疑心に満ちている。歩く先、いつ出てくるとも知れない敵を探し、この身に代えても背を歩く者を主のもとへ届ける意思を固める。
カリーナは、前を歩く吸血鬼―――グーネル公爵の腹心ハヴァラの背を睨みながら、にじり寄るようにその道を歩くのであった。
『お帰りなさいませ、御帰郷は一年ぶりでございましょうか―――ルイナ様』
その言を語った者は、その言を語れるはずのない者であった。
ハヴァラ―――アリスを『異端』と認定したグーネル公爵の配下。齢150を超え、ヒトの身に換えれば60に足る老体である。
白みがかった銀の髪を後ろに流し、漆黒の燕尾服を纏った痩躯の彼は、振る舞いをまるで執事然とさせている。しかしその実、未だ現役として公爵の右腕に収まる暗殺者。それが、カリーナの知る彼の全貌であった。
『ご案内致します』の一言だけを告げ、彼は大渓谷を底の方へと歩き始めた。その言葉が、自分とアリスにかけられているものだと知り、仕方なくそれに従った。武において、彼に抗えるほどの力を自分が有しているとも思えず、また自身の目的地は彼の行く先と同じであった。カリーナは背にアリスを隠すようにして歩き、彼を追った。
ナトラサへ至るまでの道のりは長い。渓谷を裾合い沿いに伸びる峠道を伝い、底まで下りるのに3時間。そこから地下へと伸びる洞窟へ入り、更に2時間。その間、彼から語りかけられる言葉は皆無であった。
問えば応える。何故、アリスを人間種の言っていた偽の名で呼べたのか。何故、全身の特徴を隠した彼女をアリスと断じることが出来たのか。何故、タイミング良くあの場に現れたのか。何故、『異端』であり吸血鬼にとって恐怖の存在でしかないアリスを迎え入れようとするのか―――それらカリーナの問いに対し、彼は同一の言葉にて応える、『知っているからでございます』と。
―――莫迦にしている…っ! その答えだけでは彼が何故、あるいは何を『知っている』のか杳として知らず、またそれを明確に答えるつもりが彼にないことを悟り、彼女は苛立ちに奥歯を軋ませた。
「はて―――それでは……」
そうした彼女の様子を見かねたように、彼は顎に手をかけ思案気に天を眺める。その視線の先には、暗闇を浮かべる洞窟の天井しかない。
彼が考えているのは何であるのか、彼女は量れない。彼が言葉を悩んでいる間も足は止まらず、洞窟内には3人分の足音が遠くに響く。
「そうですな、それでしたらこのような答えではお気に召しませんかな?」
やがて意を得たりと手を打ち、彼は振り返り言った。
「針に刺されて以来、余計な御怪我はございませんでしたかな、カリーナ嬢?」
確かにその答えは、彼女の『何故』、そして『何を』に対しての答えであった。
位相魔術の中に『追跡魔術』というものがある。成人の儀における闘争の儀の最中、新成人たるアリス達にも仕掛けられた魔術である。それは行使することによって、対象の言動を盗み見、盗み聞くことが出来る魔術である。
遠くの町にて起こった出来事を目の前の吸血鬼が知っている矛盾に対し、カリーナはまずそれを仕掛けられた可能性を考えたが―――しかし、思考の中でそれを否定する。
暗殺者を生業としていたこともあり、彼女もその魔術を行使できる。しかし、術者と被術者の距離が離れれば離れるほどその効力は弱まり、恐らく、街の中から『大地の割れ目』の入り口ほどまで離れてしまえば魔術は解かれてしまうだろう。
魔術師の質によって多少距離は伸びるが―――それでも、片道徒歩5時間の間が10時間に増される程度である。その何十倍にもなるあの人間種の町との距離を繋ぐことは不可能である。
故に追跡魔術ではない……だとすると、考えられるのは彼女、あるいはアリスが物理的に尾けられていたという可能性だ。
―――まともに考えれば、陽光降り注ぐ外の世界において吸血鬼が尾行とは現実可能と思えない。何故なら日中、彼らは身を置く場所が極度に限定されるからだ。
彼女もアリスを追跡する中で陽光遮る場所が見つからず、仕方なく前日過ごした洞穴まで戻ることがあった。木のうろに身を寄せ、魔物や獣に襲われても身動き取れない状況に怯えながら過ごした昼もあった。
そんな中、彼女が無事に役目を果たせたのは、アリスの位置が分かる魔道具『結びの指輪』があったのと、その役目があくまで合流を目的とした追跡であったからだ。それがもし魔道具無し、且つ相手へ気づかれず見失わない距離を保っての尾行という条件であったのなら、確実に役目を果たせない。
困難さを考えればとても正気の沙汰と思えない……が、どうやらそれは現実であるらしい。方法は分からないが少なくとも自身が魔素欠乏によって死にかけたあの出来事に、彼が密かに立ち会っていたと認めざるを得ない。
「………」
そして彼女はふと思い出す。あるいは、自身を襲ったあの針でさえも、彼の手によるものではないかという疑いが芽生える。彼は暗殺者であり、針は暗殺者もよく使う道具であった。
……そう考えると、彼が今もってどのような意図でもって自分達を先導しているのか、嫌な予感を覚えずにはいられない。
このまま彼についていって良いのだろうか。多くの吸血鬼より忌敵として恐れられているアリスを抵抗なく受け入れたのは、その先にある罠に陥れる為の悪意ではないのか。抗わず、ついていくのは正しいことなのだろうか。
「………」
しかし、彼女の思考は行き詰まる。この状況において、彼女に出来ることは少ない。武によって抗えず、行く先が同じであるのなら、彼の後を大人しくついて歩くしか術がない。例え今の窮地を脱せたとしても、行く道は1つしかないのだから、逃げても単なる一時しのぎにしかならない。だから―――行くしかないのだ。
―――だが、背を歩く彼女は別であるのではないかと、ふと思う。
彼女には抗える力がある。もし彼女に抗う意志があるのであれば、自分はそれに応じて追従の覚悟を決めておく必要がある。カリーナは歩きながら後ろを振り向き、アリスの顔を見る。
「お嬢様……?」
彼女の顔は、下を向いていた。俯かれ、影の差した彼女の顔は、しかし背の低いカリーナより見上げることが出来た。
地を眺める彼女の瞳に力はなく、唇は小さく開かれたまま何も言葉を発しない。ただ、思い出したようにたまに荒くため息が吐き出される。
その様子を見て、カリーナは戸惑う。その表情が、どんな感情から来ているものなのか分からなかった―――ちなみにその表情は、今宵合流した後ずっと保たれているものである。ため息も吐かれ続けている。
しかし、それに気づかず今までいた。彼女は今日、初めてアリスの顔を確と直視したのであった―――故に後ろを歩く者の感情を量れず、混乱の中、再び声をかけたのであった。
「……お嬢様?」
「……、何?」
返された答えは、黒い苛立ちに塗りつぶされたものであった。目尻は常より歪に吊り上げられ、言葉を発した唇が引き攣りながらも歪む。実に醜悪な、負の表情であった。
「ど、どうされたのですか、お嬢様。何か御加減でも―――」
「……、なんでもない…」
「なんでも―――いえ、そんなこと。何かございましたら、カリーナに―――」
「っ、なんでもないったら!!!」
静寂であった洞窟に、1人の少女の怒声が響き渡る。
その声に、びくりと身体を震わしたのは2人―――その声を浴びせられたカリーナと、その声を発した本人であるルイナであった。
「お、お嬢、様……?」
「っ……」
カリーナは、戸惑う。彼女の感情が、分からない。心の動きが、掴めない。自分の認識と今の状況に大きな齟齬が生まれているのを悟る―――何かが、おかしい。自分の知っている彼女であれば、この場でこんな表情、こんな感情にはならないはず。
おかしい。なんで、おかしい……
目の前の見知った顔が、まるで別の者の顔に見える……この時、カリーナはようやく彼女の内奥に対面することが出来たのである。そこにいる者は、最早十数年来付き従ったアリスではない―――心を砕かれ、前世の記憶に縋り、継ぎはぎだらけで歪に仕上がったルイナという心である。それを剥がし、その奥にいるのは気高き姫ではない。傷だらけの少女である。
過去、タンザハッタの町にて彼女は聞かされていた。彼女の知るアリスは、もういないということを。
それに納得もしていた。母の死の責が自分にあると知り、意識を手放してしまうほどに儚い存在になってしまったことを。
しかし、理解していなかった。正しくは、今初めて理解することが出来たのだ。
彼女の中で築かれてきたアリスという少女の像は今、崩壊した。今、目の前にいる―――自身の感情を抑制できず、曝け出した声と裏腹に怯えを瞳に映している少女が、アリスであるはずがない。
「……っ」
視線が交錯する。しかし、決して交わらない。2人の探るような視線は噛み合うことなくすれ違う。
そして堪え兼ね、先に歩き出したのはルイナであった。彼女はカリーナを追い抜き、歩き始める。
「おやおや」
そんな2人を見比べ、顎を掻く者がいた。
彼はその場に呆然と立つ者を一瞥し、先に行った者の後を歩き始めた。
―――彼にとって、街へ招待すべきは一人である。彼女さえ先に進めば、あとはどうなろうと構わない。彼はカリーナへかける言葉もなく、ふらふらと歩くルイナの前を行き、再び先導を始めた。
「………」
カリーナも、やがて歩き始める。洞窟の暗がりに2人の姿が溶け込むよりも前に、彼女はその背を追い始めた。
その心は、ぐらつく。これまで決して揺るぐことのなかった決意が、支えを無くす。
彼女の深奥に根付く思いはただ1つ―――このまま、彼女を主へ合わせて良いのだろうか。
その答えは見つからない。彼女はこの洞窟において―――あるいはずっと前から、救いを見失ってしまっていたのだった。




