72.『おかえりなさい』
「………」
「………」
見渡す限りの荒野へ、夜は冷たい風を吹きつける。
動くものはほとんどない。禿げかかった木がぽつり、ぽつりと生えただけのその荒れ地に、歩く2人の姿があった。
ルイナと、カリーナ―――故郷までの道を歩く2人に、会話はない。
片やの心は、荒む。
己の内に芽生えた希望と恐怖。その2つの感情に心は磨り潰され、傷む。
傷んだ心は見えない涙と血を流し、しかし表面に決して現れず、内より徐々に腐りつつある―――ルイナの心は、荒む。
片やの心は、焦る。
己の不在の間に、主の身と心に何かあったらと想像するだけで、その心は沸き立ち、逸る。
逸った心はただ前を見やり、隣を歩く者の心に盲目になる―――カリーナの心は、焦る。
2人の間に会話はない。それと同様、今この場において互いの心情が交わされることはなく、その身は着々と故郷へと近づいていくのであった。
―――風にのって、微かに何者かの気配が零れてくる。
とうとう、『大地の割れ目』と呼ばれる大渓谷が目前に迫ったところで、カリーナは第三者の視線を浴びていることを察する。
その視線に乗せられている感情は―――警戒と殺気。
「―――カリーナです。アーデルセン様にお仕えする、召使いです」
今は夜。夜目の利く吸血鬼であるが、渓谷へ近づく者の前にわざわざ身を晒す哨戒はいない。岩場の影に潜む監視者であろう気配に対し、カリーナは名と所属を明かす。
その声は決して大きくない。しかし、哨戒にあたる監視者の多くは、聴力向上の『遠耳』のスキルを所持している。彼女の名乗りは確かに彼らの耳に聞こえ、人間種でないことを悟った彼らより、弛緩した気配がカリーナのもとへと届く。
そして潜んでいた岩場より身を晒し、彼女の前に現れたのは哨戒任務にあたる監視者の長であった。
「長旅ご苦労。たしか出立したのは―――半年ほど前だったか?」
出てきた彼に対し、カリーナは給仕服の裾を摘まみ、礼を為す。
「御無沙汰しております。はい、半年ほど離れておりました―――その間、御変わりはなかったでしょうか?」
「ああ、俺自身はおかげさまで。この渓谷に近づく奴も2,3人くらいいたが、まあ、どうってことはない」
「そうですか。それは何よりでございます」
彼女は慇懃に答えつつも、その心は逸る。今の彼女にとって、目の前の彼の近況など、どうでも良い。ただ、主の様子を早く知りたい、その一心である。
しかし主の召使いとして、下手な振る舞いを己に許していない。彼女はその顔に華やかな笑みを浮かべ、彼へと応ずるのであった。
対する彼は、カリーナと一通りの挨拶を交わした後、隣に立つルイナに目をやり、口を開く。
「―――その者は?」
「旅の間に捕らえた、家畜でございます」
「ほう」
そう答えられ、彼はますます興味深げな目でルイナを見る。
―――全身を覆う白いワンピース、その顔は目深に被られたフードにより多くが隠されてしまっているが細い顎と華奢な身なりから女であることが伺える。どう見ても非力な形であるが、両手に握られた白杖には大粒の魔石が嵌め込まれている。
身なりから察するに冒険者の魔術師、あるいは神術士であろう。『輝ける陽光』の使えるそれらは吸血鬼にとっては天敵である。手に握られた魔道具の質から見るに駆け出しではなかろうそれを、よく1人で捕まえたものだと、彼は感心したのであった。
「魅了は?」
「しておりません。主に捧げるつもりでございます」
ここまで連れてこられた以上、その者が洗脳を受けていることは明白である。行動を縛り、操ることが出来る洗脳の呪いが、吸血鬼の眼には備わっている。
それとは別に、魅了の呪いが吸血鬼の接吻には備わっている。それは魂を縛り、抵抗の心を削ぐ―――と同時に、主と定めた者の為に洗脳や命令されたこと以外にも、主の為に喜び勇み行動するようになる、完全隷属の烙印である。
洗脳は、より上位の者による上書きが容易であるが、魅了はそうではない。身や心の表層に刻まれた呪いを記し直すのと違い、深層たる魂にまで及ぶ呪いを解くには抵抗呪術と被術者による抵抗の意思が必要となってくる。
過去、カリーナが身をもって経験した通り、魅了より解かれる条件とそれに至る苦難は長く辛いものである。抵抗呪術を施したところで、意志の弱い者であればそのまま呪いに殺されてしまうか―――あるいは心を殺され、廃人と化してしまうこともある。
そうなれば、自ら働き、主に捧げる血の為に健康を維持しようとする家畜が、たちまち自力の食事すらままならない、汚物をまき散らすだけの害獣と化す。
それは誰も良しとしない。家畜は吸血鬼にとって貴重な財産なのである。故に魅了は1人に対して1度きりが原則となっている。彼女をアーデルセンに捧げる為、魅了を施していないことは誰にも納得できることであった。
「……、そうだったか…」
しかし、カリーナの言に対する彼の反応は歯切れが悪い。まるで、彼女が語った言葉が叶わぬと知っているような素振りである。
「―――まさか、アーデルセン様に、何か?」
そしてそれを察せぬカリーナではなかった。己が注視するものに対して鋭敏に働く彼女の頭脳が、彼の返した言葉や間からその答えを導き出したのである。
主の身に、何かが起こった―――予想はしていた、覚悟もしていた可能性が、しかし今、彼女に現実として突きつけられようとしていた。
「いや、うむ……」
「っ……!」
彼は答えない。ますます顔を渋面にし、応も判然としない―――彼女はその反応に短く息を呑み、彼より視線を外して一歩を前に踏み進める。
「―――ナトラサへ、アーデルセン様のもとへ向かいます」
何かがあった。間違いなく、主の身に何かが起こった。それを知ったカリーナの足は地を蹴り、駆け始めんとする。しかし、監視者たる彼は慌てて彼女の行く先へ身体を割り込ませ、帰郷を阻んだ。
「ま、待てっ、待ってくれ! まず、ライドン様のところへ行ってくれないか?」
「……何故です?」
「お前が帰ってきたら、まず来させるようにと指示があったんだ」
「……ですから、何故です? 私はアーデルセン様の召使い。街へ戻ったならば、一番に報告しなければならない方はアーデルセン様をおいて他にいません。それを何故、ライドン男爵閣下へ先にお目通りしなくてはならないのです?」
「そ、それは、恐らく……アーデルセン様が―――」
「お二方。立ち話は、そこまでにして頂きましょうか」
―――押し問答を繰り返す2人の間に、割って入る第三者の声があった。
2人は驚き、振り返る。その声は、彼らの近くから上がった。しかし、脇に呆と立つ人間種の女から上がったものではない。
その声は、夜の荒野に静かに響く―――低くしゃがれた、男の声であった。
「っ、貴方はっ……!」
「カリーナ嬢、お久しぶりですな」
彼女は彼の出現に、呻き声を上げる―――対する彼は、闇夜の荒野にただ佇み、優雅に辞儀を為す。何もおかしなことはない、ただその場にいたから声をかけただけ。その柔和な微笑は、そう語っているようであった。
しかし、哨戒任務の長たる彼も、前世に於いて暗殺者を生業としていた彼女も、声をかけられるまで彼の存在に気が付かなかった―――それも当然である。彼はその生業につき、二百年を超える。前世においても、また今生においても、永く身を闇に抱かせてきた男である。
「―――ハヴァラ、老…っ!」
カリーナがその者の名を、呻くように喉元で叫ぶ。
その者もまた、暗殺者―――アリスを『異端』としたグーネル公爵の腹心、武と知における右腕、ハヴァラ。
アリスを連れて来たこの場において、絶対にいてはならない者の名であった。
「カリーナ嬢、長旅ご苦労でございました。与えられたお役目を無事に果たされたようで、私も嬉しく思っております」
「っ―――」
カリーナは労いの言葉を語る彼を、注視する。彼が何をどこまで知っているのか、いつから話を聞いていたのか。隣に立つのがアリスであることに気づいているのか、疑っている段階であるのか。それとも偶然この場に居合わせ、単に話しかけてきただけなのか―――様々な可能性と憶測が、彼女の脳裏を過ぎる。
しかし、どれにしても窮地である。『異端』であり、吸血鬼にとって忌敵であるアリスが街へ連れ込まれようとしている現場を見て、ハヴァラが―――その後ろにいるグーネル公爵が、どのような判断を下すだろうか。
王の為とはいえ、それは街へ危険をもたらす行為である。下手をすればカリーナも平穏と秩序を乱した者として、『異端』の誹りは免れない。そして、アリスの帰郷をも認められない、追い返されてしまう可能性も考えられる。
―――絶対に、彼女がアリスであると知られてはならない。カリーナは短く息を吐き出し、来たる問いかけに応じるべく、胸中にて構えを取る。
「さて―――」
しかし、そんな彼女の様子を彼は見送り、視線を横にずらす。
そして彼女の隣に立つ者に向かって、丁重に辞儀を為した―――それは先にカリーナへ向けたものとは違い、腰が深く曲げられ、胸に手を当てられ、最上級に礼を尽くされたものであった。
「ようこそナトラサへ―――いや、失礼。私としたことが言葉を間違えましたかな。貴方様にはこう申し上げた方が適切でございました」
彼は柔和な微笑を浮かべたまま、フードを目深に被る少女に向かい、やがてこう言葉を改めた。
「お帰りなさいませ、御帰郷は一年ぶりでございましょうか―――ルイナ様」
―――朗らかに語られたその言葉に、カリーナは全てが手遅れであることを悟ったのであった。




