71.そして彼女は愛を知る(後編)
彼の邸宅が燃えたあの日より、数日の時が流れる―――
彼の家は焼け落ち、家具家財の多くは燃えてなくなった。住む家のなくなった彼は、しばらくその身を父たる王の邸宅へ移した。
彼はひとまず、家の者達へ、家を建て直した際に改めて力になって欲しいことを告げ、ひとまずの暇を出したのであった。今後しばらく、彼の世話を焼くのは父に仕える者達。彼にとっては、親元を離れるまで共にいた懐かしの顔ぶれの者達となる―――はずだった。
『お待たせしました』
しかし今、彼へ夕餉を持ってくる者は大き目の給仕服を身に纏った齢8歳の吸血鬼の、彼女である。
―――心を得た彼女に対し、彼はそれまでの一切の罪を不問にし、自由の身を与えると定めた。民に『責任をもって預かる』といった手前、成人の儀を迎える12歳までは養い育てるが、その後は好きに生きるよう評定を下した。
彼女はその寛大なる裁を受け入れた。受け入れたが―――ただ何もせず、12歳まで一方的に養われるというのも居心地が悪い。
そうして彼女は彼の召使いという役目を続行しつつ、成人後にやりたいことを探すという暮らしを得たのであった。
『うむ』
彼は夕餉の支度を済ませた彼女へ、鷹揚に頷く。彼なりの、感謝の意である。
それを受け取り、彼女は給仕服の裾を慎ましくつまみ、首を垂れる。今はもう、仕事をこなしたところで血は与えられない。
彼も血を与えない。最早、彼女へ仕込むべきものは何もない。目の前に並んだ料理を眺め、彼は顎に手をかけ彼女へ語りかける。
『ふむ、今日の料理には茶毛のものが合いそうだ―――カリーナ、茶毛の血を持ってきてくれ。10から20年物のもので雄雌は問わぬ』
『かしこまりました』
『うむ』
そうして彼女は部屋を出る。その背を見送って彼は、棚より2つのグラスを取り出すのであった。
最早、餌は必要ない―――しかし、共に血を飲む友はあっても良い。
歳の違い、身分の違い。それらがあったとしても自分達はまず、同族である。
不条理な弱肉強食の関係ではなく、手を取り合い互いを良くする、同胞である。
彼は1つの理不尽も見逃さない。
彼は1人の不幸にも手を差し伸べる。
―――王となれば、大を救うために小を切り捨てることもあろう。その小が自分にとって大切な何かであっても、私情を捨て、大を選ばなければならない時が来るであろう。
しかし今、彼は王子なのである。手間をかけ、小を救おうとする姿勢は許される。
彼は保護者として、彼女が巣立つその瞬間まで、見守り育てることを誓う。
『4年、か……』
その時まであと4年―――成人の時、彼女がどのように成長しているか、どのような道を見つけているのか、期待を膨らませながら、彼は彼女の帰りを待つのであった。
―――時は流れ、4年が経つ。
王たる父が崩御し、そのまま玉座と邸宅を引き継いだ彼は粉骨砕身、街と民の為に働いた。
弱者が一方的に損を喰わないように、強者が一方的に利益を貪らないように。しかしその間には軋轢を生まない程度に区別を設け、互いに手を取り合って生活を豊かにしていく。そんな国を志し、彼は身と心を砕き、政に励んだ。
新たなる王となった彼のもとには、暇を与えられていた者達が戻ってきていた。広い邸宅を綺麗且つ荘厳に保ち、国の辛苦を一身に背負う王の心身を癒す、家の者達である。
『アーデルセン様、失礼致します』
その中に1人、若き少女の姿があった。
齢12歳、成人の儀を終わらせた彼女は今日、彼に部屋へ招かれる。入室し、栗色の瞳を上品に細め、背丈に合った給仕服の裾を慎ましく摘まみ上げ、敬うべき彼のもとで首を垂れる。
4年の時を経て、幼き少女は瀟洒たる召使いへと変貌を遂げていた。
『―――カリーナよ。儀の席でも語ったが改めて。我ら吸血鬼の正式な仲間となったこと、実に目出度いことである』
『―――有難うございます、アーデルセン様。こうして私が同族と認められたこと、この年まで生き延びられたこと、力を評価して頂けたこと、全てアーデルセン様の御力あってのことでございます。心より、深く感謝致します』
『うむ』
儀礼的なやり取りを済ませ、彼は一度頷く。
頷き、顎に手をかけ、改めて問う。
『しかし、良かったのか? このまま召使いでいたいなどと―――』
彼女は闘争の儀において、過去十年は類を見ないほどの、優秀な結果を残した。前世における暗殺の経験、今生における最強からの英才教育、それらは彼女を一流の戦士として育て上げた。
さらには、王族の給仕として働いた為に身に着いた品行方正な佇まい。前世の因果により親を亡くした悲劇性。その悲劇の少女を拾い上げたのが王であるという話題性。
それらの要素は彼女を一躍時の人として仕立て上げ、選別の儀においてどんな役割が言い渡されるか、民は期待の眼差しでもって注目していたのであった。
だが、彼女は役割を言い渡される前に、王へと懇願したのであった。このまま側へ仕えさせて欲しい。この国をより良くしていく王の側を守り、身と心を支える今までの役割を、どうかそのまま続けさせて欲しいと、願ったのであった。
この願いに困惑したのは、王だけであった。他の皆は、彼女の視線に籠る、年相応の熱に気づいたのであった。
民は少女の儚い願いに熱を上げ、王へと注目の視線を移した。
……何やら民に活気が宿ったのはいいことであるが、その原因が掴めない―――終始、困惑したままの王であったが、結局熱意に負け、彼女を召使いに任命したのであった。
……彼としては、あの心侵された少女が心身共に力をつけ、振る舞い方を身につけ、望めばどんな役割だろうとつけるほどに成長したことは、感慨深くあった。選別の儀においても、昔交わした約束通り、第一に彼女が望む役割を聞き、それを叶えようと思っていた。
それがまさか、自分のもとで召使いとして働き続けたいなどと言うとは、思いもよらなかった。勿論、嬉しくこそばゆい気持ちもあるが、それでも彼女の為を思えば他に良い役割はいくらでもある。
『私は、アーデルセン様の御傍で、御力になりたいのです』
しかし、彼女は頑なに意思を曲げない。頭を更に深く垂れる。
―――その心中では、否定されないか、拒絶されないかと激しく動悸が打たれている。その動揺を、やはり王は知らぬのであった。
『……分かった』
そしてとうとう、王は折れる。選別の儀において一度折れているので、此度が二度目である。
『カリーナ、お前には引き続き、この家の召使いとして働いてもらう。良いな?』
『―――かしこまりました。今後、私の身は、貴方様の王道の為に。私の心は貴方様の安らぎの為に。御傍に控え、お支え致します、アーデルセン様』
『うむ』
彼は鷹揚に頷く。こうして彼と彼女の関係は、成人の時を迎えても変わらず続くこととなった。
『―――それではカリーナ、引き続き宜しく頼むぞ』
『かしこまりました、アーデルセン様。つきましては、リリスフィー様の御加減を診たく』
『おお、そうだな。うむ、まだ安定していない頃故、頼むぞ、カリーナ』
『仰せのままに、アーデルセン様』
そして彼女は辞儀をし、部屋を出る。向かう先は彼の妻たるリリスフィーの居室である。
―――彼は既に、妻のいる身である。さらにその腹には、新たな命が宿っている。
己が身では、己が心では、彼の心中の最奥を支えることは、出来なかった。
しかし、それは別に構わない。わたしは彼を支え、また、彼を支える全ての者を支える。
そして、彼が愛する全てを、愛する。
わたしは彼より身を移さない。
わたしは彼より心を動かさない。
カリーナにとって、主はただ一人―――アーデルセン様だけ。アーデルセン様の幸せを願い、アーデルセン様を囲む人達の幸せも祈り、願う。
生きている限り、主の為に生きる。この心を、主から頂いたこの心を大切にする為に、私は生きる。
ただ、それだけ―――
―――そして、今。
「……行きましょう。カリーナ」
「はい、お嬢様」
彼女はそこに立つ。
『大地の割れ目』の見える荒野、その端に位置する林地。
そこへ立つ。己の主より離れ、己の主を救わんと、彼女を引き連れ戻ってきた。
主が病にかかった原因であり、主を救えるただ一人の者、姫を連れ、彼女はナトラサまでの路を歩み始めるのであった。




