70.そして彼女は愛を知る(前編)
それはまだ、彼女が死を恐れなかった頃のお話―――
彼女は目を覚ます。
ぱちりと目を開き、見回すそこは、色のない世界。
―――ここは……
どこだろう。そう疑問を口にしようとして、気づいた。
そこがどこであるのか、彼女は思い出した。
―――わたしの、へや?
そこは、彼女が主より与えられた部屋であった。
―――なつか、しい?
彼女は見回し、首を傾げる。そこは彼女が毎日、帰る場所であるはずだった。
仕事を与えられた日でも、日を跨いで帰ることは稀であった。彼女は物心ついてよりその部屋に住み、その部屋に居続けた。
……それが、何故か、懐かしく感じる。長い間、この部屋へ帰ってきていなかった、気がする。
彼女は記憶の中にあるままの部屋に、何となくの疎外感を―――そして、何故か違和感を覚えた。
『エリー』
ふと、呼ばれた気がした。振り返ると、そこに立っているのは、主であった。
エリー、エリー……エリーとは、誰のことだろう。彼女は真ん丸に目を見開かせ、首を傾げる。そして、はたと気づく。
エリーとは、自分の名であった。
『はい、あるじ』
彼女は傅く。来訪した主の前に跪く。
主が部屋に来るのは、仕事の命令がある時だけであった。今日も主の役に立てるのだ―――彼女はただ黙し、命を待つ。
しかし、主は顔を顰め、憎々し気に彼女を見下ろすのであった。
『エリー。君は、僕を裏切るのか?』
『……?』
うらぎる? なんのことだろう?
彼女は三度、首を傾げる。今日は訳の分からないことだらけである。
―――そういえば、何だか今日は、左胸が痛む気がする。ちくちくと、ずきずきと、トゲが刺さって痛いみたい。おかしいな。何も刺さっていないのに―――
彼女は、ぶんぶんと首を振る。
自分が、裏切るわけがない。それを主に知ってもらいたくて、態度と言葉でそれを示す。
『わたしは、あるじをうらぎらない』
『―――嘘ではないね?』
『はい、ぜったいに、うらぎりません』
『―――そうか……うん、そうだろう。そうだろうとも、エリー。うん、君ならそう言ってくれると思っていた』
彼女が答えると、主は不機嫌そうな顔を一変させ、満足げに微笑み、頷く。
それを見て、彼女も安心して笑みを浮かべ―――ずきりと、胸が痛む。
―――いったい、なに? なにが、いたいの?
彼女には分からない。胸のどこが痛み、何が刺さって痛むのか。彼女には分からない。
そんな彼女の苛立つ様子を見て、主はそれでも表情を崩さない。彼女の背を指し、そしてその日の命令を下した。
『それなら、エリー。そいつを殺してくれ』
『……?』
主が指差すそいつとは、誰のことなのか。彼女は振り返り、自分の部屋にいる『そいつ』を見る。
『………』
そいつとは、銀の髪を生やした青年であった―――青年は部屋の中に呆と立ち、彼女を見つめる。
―――だれだっけ。こいつは、いったい、だれだっけ?
彼女はまた、首を傾げる。知っているような、よく見ていたような、ずっと見ていたような気がする、その顔。
でも、思い出せない。その、意志の強そうな深紅の瞳を見ていると、左胸の奥が高鳴るような、そんな気がするのに―――彼女には、彼の正体も、高鳴りの正体も分からない。
『そいつを殺せば、エリー。君の罪を許そう』
『………』
わたしの、つみ? エリー、なにか、わるいことした?
彼女にとって、疑問だらけの日である。
自分は、自分の知らない間に部屋を長く空け、名前を忘れるほどに長く眠り、いつの間にか主を裏切り、罪を背負っている、らしい。
―――本当に、全部知らないことなのだろうか? ……そんな風に考えていると、ずきりと、胸の痛みがトゲを増やした。
『殺せないのか? エリー』
『……!』
胸の痛みに気を取られていると、背より主の苛立った声が聞こえてくる。
彼女はびくりと背を震わし、瞬時に眼より殺意以外の感情を抜き去った。
彼女は暗殺者―――主の為に、他者を殺す為の者。何も考えず、何もその胸に持たず、ただ死を振るうだけ―――
その手に握るのは使い慣れた短刀―――ではなく、いつもと装いの違う短剣であった。
しかし、何となく、手に馴染む。使い慣れた物である、気がする。彼女はほんの些細な違和感を飲み込み、その得物を構える。
『………』
青年は、動かない。しゃべらない。目を動かさない。ただそこに立ち、殺されるのを待っている。
それを殺すのは、容易であるように思えた。彼女は彼の心臓を狙って、刹那に短剣を奔らせる―――
―――あれ、こいつ、ころしていいんだっけ?
合間、ふと彼女の脳裏に疑問がかすめる。何故、そう疑問に思うのだろう? 主は、こいつを殺せと言っているのに、何故自分はその命令に疑問を抱いているのだろう?
自分は暗殺者―――殺すだけの道具。道具が、何故、疑問を持たねばならないのだろう?
ああ、胸が、むかむかする。
息が、苦しくなる。
頭が、ぼうとする。
何かがおかしい。何かが、おかしい。
彼女は疑問を抱く。今の状況に、自分の為さねばならぬ行為に、不安を覚える。
―――だが、止まらない。
引き絞られ、放たれた矢のように、彼女は走る。短剣は奔る。
無意識に放たれた心無き刃は、最早彼女の意思によっては止められない。刹那に間は詰まり、彼我の距離は縮まり、刃が首筋へ、吸い込まれていく―――
直前。
『カリーナよ、抗えっ!』
『……!!』
唐突に聞こえてきた叫び声が、ある。
彼女はその声に驚き、びくりと身体を震わせる。宙を奔った短剣は青年の目前で止まり、彼女の眼は動揺に見開かれる。
―――だれ? いまの、こえは……誰?
震える。彼女の瞳が、胸の奥が、震える。
『勝てっ! 抗えっ! 不条理に、お前を襲う理不尽に、今こそ、今度こそ、勝つのだっ!』
『……! ……!』
声が、聞こえる。
顔が、見える。
その時、彼女の目が、ここではないどこかを、確かに幻視した。
そこは彼女の部屋の中ではない―――燃え盛るどこか。
そこで叫ぶ、銀髪の青年。彼は、ここにいる彼と同じ顔をしていて―――泣きそうな、顔をしていた。
『………』
どうして、彼は泣きそうになっているんだろう。
どうして、彼はわたしを見て、泣きそうになっているんだろう。
苦しんでいるのは、彼ではないのに。
『……あぁ』
―――分かる。それが、わたしには、分かる。それは、彼に心があるからだ。
わたしを救いたくて。彼は、わたしの為に、あそこで泣いてくれているんだ。
『……っ!』
頷く―――その表情に、わたしは、動かされる。動きたいと、思った。
わたしを動かすのは、言葉じゃない。命令じゃない。
今のわたしは―――心で動いて、心で敵を決められる。
『―――ぅぅうあああああっ!!』
雄叫びを上げる。彼女は短剣をその手に握りしめ、振り返り、駆け出す。
『っ!!!』
瞬間、激痛が全身を駆け巡る。足の裏に無数の針が突き刺さり、身体に溶けた鉄を浴びせかけられ、目を潰され、舌を抜かれ、耳を削がれる―――痛みが、走る。
『ぐっ、あっ、ああああぁぁぁっ!!!』
だけど、それでも、わたしは走る。その痛みは―――幻だ、真実でない。
分かる。分かる。わたしには、分かる! わたしは今、自分の足で立ち、前を向き、わたしの敵を見据えている!
『―――ぁぁぁぁあああああっ!!!』
ザンッ―――
『………』
慟哭とともに突き出された彼女の短剣は、彼女が主と敬っていた者の胸に刺さる。
彼は―――抗わない。
『……残念だよ、エリー』
ただ、落胆の声を上げる。そして輪郭を失い、その姿を宙に溶かし始める。
『―――エリーじゃ、ない』
消えつつあるその彼に、彼女は視線を上げて過去を否定する。
『わたしは、カリーナ。もう、貴方の道具ではありません』
―――その答えに、応じる者は既にいない。
主であった者は既に消えた―――その主の姿も、呪いが心象の中で具現化しただけの、心像であった。真に主であった者へ、言葉を届ける術などない。
ただ彼女は、それでも名乗った。己が名前を。今生の自身を。
―――そして彼女は最後に、過去の部屋を見回した。
『カリーナは……、エリーは、こんな、部屋に住んでいたのですね……』
そこは、家具もベッドも何もない、鉄格子を嵌められた牢屋であった。
彼女はふと、寂しく黙とうを捧げ―――そのまま、意識を現実へと返すのであった。
『…………』
固唾をのみ、彼が見守っている目の前で、突然彼女の肩の法陣が、光を失い消えた。
抵抗呪術の効力が切れたのである。それが効力を無くすのは被術者が死に、抵抗する心を失くなってしまった時。
あるいは―――
『………っふー……』
彼女の口より、重たい息が吐かれる。
それを見て、彼からも安堵の息が漏れる。
彼女は見事、その心を侵していた呪いに打ち勝ったのである。
抵抗する呪いが無くなり、役目を果たした魔素は効力を失い、宙に霧散し、消えたのであった。
『………』
『………』
弱々しく細められた彼女の瞳と、常より目尻が緩んだ彼の視線が、宙で合う。
『勝ちました、わたし』
『―――ああ、よくやった。カリーナ』
抵抗に全気力を使い果たした彼女は、手のひらを両手で握りしめてくる彼を見上げ、掠れた声音で言うのであった。
彼も、その声に言葉短く応えるのみである。
―――彼女は打ち勝ったのである。その心を侵す悪意に、その身を襲う理不尽に。
彼女は抗い、心を手に入れたのである。
―――メキメキッ、バタンッ!!
しかし、彼女達を襲うものは、未だある。
彼らの傍らに、焼け落ち、降り注いでくる天井の残骸があった。
見まわせば、業火。眼に映るのは四方も天井も、全てを焼き尽くさん勢いに燃え盛る炎であった。
燃える瓦礫の山に囲まれ、最早出口は見えぬ。満身創痍である自分と、傷を負った彼では、とても助からぬ状況。
『……あぁ、残念、です……』
彼女は、儚く嘆く。せっかく手に入れた心であるのに―――それを謳歌する時は、自分には与えられないのだ。
この世は、やはり、不条理である……
『さて、出るぞ。カリーナ』
『……えっ? あっ、えっ―――』
しかし、その場において、彼は事も無げに言ってのける。この場より出ると、逃げ延びると。
彼女はその言葉に戸惑いの声を上げるが、次の瞬間、身を抱え上げられてしまう。
彼女は更に戸惑う。彼の腕のたくましさ、彼の顔の近さに、思わず、更に声を漏らしてしまうのであった。
『しっかり掴まっていろ』
『は、はいっ……』
言われ、彼女はひしと彼にしがみつく―――と、次の瞬間、周囲の景色が大きく揺れ動いた。
『うっ、わ―――』
身にかかる衝撃に、思わず目を閉じ、彼へしがみつく力を強める。
耳に入ってくるのは炎の燃え盛る音と、風を裂く音、そして何かが砕かれ、吹き飛ばされる轟音―――
―――それらの音が止んだのは、常より大きく聞こえる自分の鼓動が、数回脈打つ後のことであった。
『―――もう下りてよいぞ』
『……っ、は、はいっ』
気が付くと、身が邸宅の外へ出ていた。燃え盛る炎は既に遠くである。
余りにあっけない脱出劇に呆然としていると、振り返り、彼女の目に飛び込んできたのは半壊した邸宅であった。
―――直前まで、自分達がいた大広間が、吹き曝しの状態になっていた。確かに自分達は、燃え盛る瓦礫に囲まれていたはずだったのだが、その瓦礫は砕かれ、壁も砕かれ、崩落した天井も砕かれ、燃える材料のなくなった広間からは火が消えつつあった。
『………』
何をどうすれば目の前の状態になるのか、彼女に理解は出来なかったが、それを為したのが彼であることだけは悟った。
己がどういった者を殺そうとしていたのか、それを知り、心を持った彼女は二度目の生にして初めて身震いをしたのであった。




