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69.抗いの慟哭

 






 それはまだ、彼女が死を恐れなかった頃のお話―――















 ―――その日、彼の住む邸宅は、炎に包まれた。


 彼はその夜、爆ぜる火の音で目を覚ました。

 灯りに乏しいナトラサの街において、不自然に揺らめく灯が小窓の外に見える。それは家の向こうへ影を作り、家の前の道を明るく照らし出す―――己が家が、燃えている。その事実に、彼は気づいたのであった。


 慌てて部屋を出た彼が見たのは、尋常ならざる火勢であった。

 壁と床が燃える。天井が焼け落ちる。廊下は四方を炎に包まれ、玄関先へと通じる道こそ激しく燃える。そこに、外へ逃げられず、狼狽えている家の者達がいた。


『狼狽えるな。ここから逃げよ』


 言って彼は自室に戻り、力づくに壁を壊す。そこから外へと避難する家の者達の中に、1人、姿のないことに気づく。


『カリーナを見なかったか?』


 彼の問いに、誰もが首を振る。今宵、彼女の姿を見た者は誰もいなかった。


 ―――彼は踵を返す。向かうは火の向こう、焼け落ちんとする邸宅の中であった。


 彼を引き留める声が上がる。賢君となるであろう気高き王子の身に何か起これば、ナトラサにとって多大なる損失である。


 大事くにの為に、小事カリーナを忘れることを、皆は求める。しかし、彼は言う。


『この身は王子である。小事を切り捨てる果断は、未だ身に余る』


 駆け、彼は炎の向こうへと消える。それを追える者はいない。

 火勢は増す。最早その火中を行ける者は、彼をいて他にいなかった。













 彼は燃える邸宅内を駆ける。灼け崩れた天井の残骸を飛び越え、熱で歪んだ扉を蹴破り、彼は微かに漏れてくる気配を頼りに廊下を駆ける。

 向かう先は玄関先、行けば行くほどに炎は盛り、熱は増す。汗が滲み、肌がひりつくのを感じながら、彼は駆ける。


 最後の扉を、こじ開ける。そこは邸宅へ招かれた客を最初にもてなす大広間。床に豪奢な絨毯、天井に煌びやかなガラス照明―――それらは火に巻かれ、焼け落ち、煤の臭いを蔓延らせていた。


『―――カリーナ……』


 そして広間の中心に横たわる、1人の少女―――大き目の給仕服を身に纏う、齢8歳の幼き少女。

 焼け崩れた扉を前に逃げ場を失くし、煙と熱にまかれた少女。その身を救うべく、彼は近づく。


『………』


 彼女は呼びかけに応じないが、微かに身じろぐ。顔を向こうに向け、その表情は見えないが、彼の声に確かに反応した。


 彼女が生きていると知り、彼は安堵のままに駆け寄る。その身を抱き起し、顔を見る。


『―――っ!』


 ―――笑顔。そこに浮かべられているのは笑みであった。


 その笑みはこう語った――――――「()()()()()()」。


 ―――ザクッ……


『―――ぐっ…!』


 その瞬間、彼の胸を何かが貫く。血潮が吹き、彼女の顔が紅に染まる。

 同族のそれは吐き気を催すほどの悪臭を放つ―――しかし、彼女は変わらず、笑う。両の手で刺した短剣を引き抜き、笑う。


『ころしたっ! ころせたっ! これでやっと、あるじのところにかえれる!』


 その声は純粋な歓びに満ちていた。幼き子供が嬉しさを全身で表す姿は、しかし血に濡れ、醜悪に歪む。


『…っは、ぐっ……』


 彼は胸を押さえ、呻く。


 心臓を貫かれた吸血鬼は死ぬ。彼が貫かれたのは左胸―――しかし、未だ生きているのであった。


『はぁ、はぁっ……』


 荒く息を吐く。だが、命はある。

 胸から大量の血が出る。だが、命はある。


 その傷は、心臓を僅かに掠めるにとどまったのであった。


『あれ? おかしいな』


 その様子を見て、彼女は首を傾げる。確かに心臓を貫いたつもりであった。間違いなく狙いすまし、間違いなく貫けるはずだった。

 しかし、彼は未だ生きている。未だ息をしている―――殺せて、いない。


『―――ころす』


 瞬時に彼女は判断を下す。殺せていないのなら殺すまで。

 何故なら、こいつを殺さなければ帰れないのだから。


『――――』


 彼女は腕を動かす。短剣を片手に握りなおし、最小限の動きで首を刈りに行く。

 そこに余計な言葉は挟まない。動かす感情もない。ただ淡々と、殺し(それ)を行なうだけ。


 彼女は暗殺者アサシン―――他者を殺す(だけ)どうぐなのだから。


『……っ!』


 彼も、動く。油断の末に受けた傷は深く、しかし致命的なものではない。

 多少の傷を受けようが、彼の力は絶大である。その腕の一薙ぎで彼女は死に、魔術の一行使で彼女は死ぬ。


 家を焼かれ、芝居を打たれ。

 傷を負わされ、歓喜に笑われ。


 最早救うべき対象ではないと、冷たく思考が言い放つ。彼は腕に力を込め、彼女の短剣が己が身を襲うよりも早く、彼女の心臓を貫かんと―――


(―――どうして誰も助けてくれないっ!!)


『っ……!』


 しかし、その瞬間、彼の脳裏に1人の少年の声がこだまする。


 それは彼の古い記憶より漏れてくる―――彼が王子として生まれるよりも前の記憶。


 ―――彼の前世たる、孤児みなしごの声であった。





 その孤児は親より捨てられ、頼れる者は誰も無く、その日を生きるに必死な弱者であった。

 孤児は生きるのに、必死であった。食べる為には何でもした。ごみを漁って腐りかけの肉を貪り、死体運びの仕事を請け負い身体を汚し、同じ境遇の少年達と一匹の猫の死骸を取り合って、眼を抉り、急所を踏み抜き、手足を砕く乱闘を繰り返した。


 生きるに辛かった、だが、空腹はそれ以上に辛かった。彼は何かを腹に入れる為だけに争い、身を汚し、心を捨て、ただただ命を繋いだ。


 その時分、彼は僅かに腹が満たされた折に、我に返って叫んでいたはずであった。何故、誰も助けてくれない。何故、自分がこのような目に遭っていると。

 道往くヒトと自分の違いは何であるのか。生まれか、道か、運命か。どれも己で選んだわけでは、ないっ!!


 己が手で決められたものは何もなく、ただ、悔しくて、悔しくて、鼻を鳴らし……しかし流す涙も勿体なく、舐めて喉の渇きを紛らわす。ああ、この世とは―――非情である。


 弱者は弱者のまま、奪われる者は奪われるまま、不条理たる世の真理は弱肉強食である―――彼は嘆き、しかしいつしか空腹に負け、再び腹に何かを入れる為に地を行く獣となるのであった。





 ―――そんな、忘れかけていた記憶の残滓が、彼の脳裏をぎる。

 その錆色の過去が彼の目の前を横切るのは、3年ぶりのことであった。


(カリーナ―――)


 彼は、彼女の姿を映す瞳に、過去の己を見る。己が力で抗えぬ不条理に塗れ、その手を汚す日々を強制される、弱者。


 救われるべきである。罪は確かにその手にあるが、彼女の心は救われるべきである―――そう。救いたいと、思ったのだ。


 憐憫―――それが彼を躊躇わせた。


 彼が動きを止める間にも、彼女の短剣は宙を奔る。


 奔り、彼の首筋へと、穿たれる―――

















『っ、ぁああああっ!!!』


 その時、雄叫びが轟く。火が爆ぜ、乾いた音が鳴る大広間へ、裂帛の声が通る。


『あああぁっ!! うあぁぁっっ!!!』


 ―――その慟哭は、彼女の口より漏れる。


 彼女の左手が鋭く動き、短剣握る右手を押さえる。短剣は、彼の首筋に突き立てられるよりも前に止まり、左手によりそれ以上の前進を阻止されていた。


『ぅぅっ、ああああっ!! あぁぁっ!!!』


 彼女は、なお叫ぶ。その手は震える。


 右手は短剣を押し込めようと動く。

 左手は短剣を引き戻そうと動く。

 ―――相反する力は、短剣の切っ先を出鱈目に震わせる。


『こ、ころっ……ころ、し―――』


 相反する両腕の意思に、彼女の心も引き裂かれる。


『ころして、やるっ……!』


 彼女の右眼は、殺意に満ちる。

 怜悧な視線は彼の首を射抜き、その奥にある血潮を求めて妖しく光る。


『ころし、たく、ないっ……!』


 一方、彼女の左眼は、恐怖に溢れる。

 濡れた瞳は彼の目を見つめ返し、己が手が彼の生を奪おうとしていることを恐れ、悲しく光る。


『―――カリーナ……まさか―――』


 その声に、その瞳に、彼は感じた。

 長く求めていたものが、彼女の胸に宿ったことを。


 彼女が今、その芽生えた心を再び侵そうとする力に抗い、胸の内で戦っていることに、気づいたのだ。

 

『……っ! カリーナ、我慢せよ!』


 そして彼はカリーナの給仕服に手をかけ、その襟より左肩を曝け出させる。

 ―――そこより、漏れ出る白い光があった。


 彼は悟った。待ち望んだ時が、来たことを―――息を呑み、彼はカリーナの震える瞳を見つめ返す。


『カリーナ―――お前は今、抗っているのだろう。己を蝕む理不尽に抗っているのだろう』


 彼は彼女の肩へ、溢れる魔素の光に触れる。

 それは3年前、彼が彼女へ埋め込んだ、法陣の輝きである。


『そんなお前に、私にできることはただ1つ―――お前がお前自身を救う為に、背を押すことだけだ』


 そして、彼はその法陣へ魔素を込める。それは彼より遠く離れられなくなる制約の呪縛―――ではない。


 抵抗呪術―――心身を侵す呪術に抗う、防衛魔術である。

 その効果は、呪いに打ち勝とうとする意志ちからの増強程度。呪いを完全に打ち消す神術きせきを執行できる者は、吸血鬼においては存在し得ず、自らが呪いに抗おうとしない限り発動しないこの抵抗呪術しか、彼は彼女に行使できなかった。


 それでも、いつか心が芽生え、彼女が呪いに抗う際の手助けとするべく、予め埋め込んだ魔術であった―――それが今、発動している。


 しかし、かの呪いは想定以上に強力なものであった。吸血鬼において最強であるアーデルセンが埋め込んだ魔術であるはずなのに、その呪いはそれと拮抗している。彼女は呪いと抵抗呪術の狭間に置かれ、右と左で反する意思を持ってしまっている。


 このままでは、呪いを破る前に彼女の心が壊れてしまう―――彼は、その法陣へ更に魔素を練り込み、抵抗の力を注ぎ込む。


『ぐっ、あああああああぁぁぁぁっ!!!』


 魔素を加えると法陣の輝きは一層に増し―――彼女は一層、痛みに打ち震える。


 呪術は抗う者へ痛みをもたらし、解こうとする者へ死をもたらす。彼女は四肢を引き裂かれ、砕かれ、焼かれ、突き刺される痛みに襲われる。

 それらはすべて、幻覚である。しかし、心に直接刻まれる痛みは逃げ場のない激痛を被術者に与え、心を磨り潰す。


 その痛みは、死ぬまで続く。外傷でなく、ただ痛みによって死ぬまで、裏切り者を痛めつける。


『あああぁぁぁっ!! い、ぐっ、がぁぁぁぁっ!!!』


 彼女は絶叫する。そのこころを襲う激痛に喉を枯らし、暴れる。痛みより逃げようとするが、絶対に逃げられない。


 彼女は、死を求め始める。今の痛み全てが消えてなくなる、安楽の死を求め始める。

 だが、呪いはそれを許さない。安易な死を、裏切り者へは届けない。死を遠くへ置き、苦しみの生を永く与え続ける。


『カリーナよ、抗え!』


 そして、彼もまた、彼女の死を許さない。


『今なのだ! お前が抗わなければならないのは、今なのだっ! 呪いに打ち勝つにはお前が心を手に入れた、今しかないのだっ!』


 彼は彼女の手を握る。固く握られた彼女の拳を、彼は両の手で握りしめる。


『勝てっ! 抗えっ! 不条理に、お前を襲う理不尽に、今こそ、今度こそ、勝つのだっ!』


 頼む――――――彼は、願う。彼女の手を包みながら、両手を束ね、祈る。

 切に懇願しながら、彼女を見守る。


 その必死な瞳を、彼女は薄目に見る。

 その必死な声を、彼女は微かに聞く。


『うぅぅぅっ、っ、っ、ぐっ―――』


 痛みに耐え、歯を食いしばりながら―――とうとう、その首が縦に振られた。


『ぐっ、うっ、ふっ、ふぅぅうあああああっ!!』


 そして彼女は叫んだ。


 その叫びは悲鳴ではなく、雄叫び。

 痛みに泣くのではなく、死を求めるのではなく、勝つために。


 彼女は叫んだ。理不尽に抗う為に―――











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