68.心が芽生えた日
それはまだ、彼女が死を恐れなかった頃のお話―――
とある街、とある邸宅。そこでは奇妙なやり取りが、日々繰り返されていた。
『りょうり、もってきた』
『うむ』
片や、丈の合わない給仕服を着込み、たどたどしく盆を手繰る幼き少女。
片や、在宅時間のほとんどを自室で過ごし、閲読に励む青年。
彼女は命を狙う者であり、彼は命を狙われる者であった。
そして一方、彼女は召使いであり、彼はその主であった。
『ん』
彼女は短く唸り、青年に向けて夕餉の乗った盆を差し出す―――召使いたる彼女の仕事は、彼の身の回りの世話であった。
といっても、炊事は他の者がやる。買い出しも他の者がやる。来客の対応も他の者がやる。料理も出来ず、ろくに字も読めず、同族殺しの前科持ちで気味悪がられている彼女に任されたのは、屋内の掃除と料理の運搬くらいであった。
彼女は周囲の不安と予想を大きく裏切り、召使いの務めをこなそうと努力していた。もちろん、初めからうまくいくことは少なかった。料理はひっくり返すし、服の大きさに負けて何もないところで転んでしまうし、失敗だらけであった。しかし、彼女はへこたれず、困難を克服しようという気概を見せていた。
心を侵され、殺意を振りまくしかなかった少女が、何故そう給仕の仕事に真面目に取り組むのか。周囲の者は驚きを禁じ得なかったが、それはかの王子の『しつけ』の賜物であった。
『よし、よく出来たカリーナ。今日も血を飲むか?』
『ん、のむ』
召使いの仕事を果たせば、給金の他に血を貰える。血は力を与えてくれるものである。
自分は力を得て、こいつを殺さなければならない。こいつを殺せば、主のもとへ帰れる―――彼女は血目当てに給仕をし、彼は血をちらつかせ仕事を仕込む。
『カリーナよ。強くなりたくばまずは力を得よ。力無き者は何も為し得ず、己も救えない。向後の為にも、揺るがぬ力を身に付けよ』
『わかってる。おまえをころすために、わたしはちからをみにつける』
彼女は頷く。殺すためには力が必要であることは知っていた。
―――その夜、彼女は力任せに彼を襲った。結果はいつもの通り、返り討ちであった。
一年が経つ。王子はある日、彼女へ本を貸し与える。それは自室に元よりある本ではない。借り物の児童書であった。
『カリーナよ。強くなりたくば次に知識を得よ。力を得ても知識無くば存分に振るえぬ。向後の為にも、多くの知識を身に付けよ』
『わかった。おまえをころすために、わたしはちしきをみにつける』
彼女は頷く。力を増すためには知識が必要であることを知った。本を読み、字を学び、日々のことを日記に記すことを教わった。
―――その夜、彼女は誤字だらけの文を送って誘き出し、彼を襲った。結果はいつもの通り、返り討ちであった。
さらに一年が経つ。王子はある日、彼女を外へと連れ出した。行先は市井の大通り。商店が立ち並ぶ吸血鬼の街である。
『カリーナよ。強くなりたくば次に経験を得よ。知識を得ても経験無くば存分に活かせぬ。向後の為にも、あらゆる経験を身に付けよ』
『分かったです。お前を殺すために、わたしは経験を身に付けるです』
彼女は頷く。知識を活かすためには経験が必要であることを知った。店へ並び、手に馴染みそうな短剣を見つけ、自分の財布の中身で足るまで値切り、それを買った。
―――その夜、彼女は今までの何がいけなかったのかを反省し、勝てる策を考え彼を襲った。結果はいつもの通り、返り討ちであった。
さらに一年が経つ。王子はある日、彼女へ手を差し伸べる。何を渡すでもなく、ただ空いた手のひらを彼女へ差し出す。
『カリーナよ。強くなりたくば最後に心を得よ。経験を積めど心無くば力を正しく扱えぬ。お前の為にも、強き心を身に付けよ』
『―――それは、分かりません』
彼女は首を振る。強くなるには心を持ってはならない。そう、主に教えられてきた。
『わたしに心は、必要ありません。心を持たず、ただ主の命に従い力を振るえば、それで良いです』
『―――そうか』
王子は差し伸べた手を引き戻す。彼女はその手と、物憂げな表情を浮かべる彼の顔を見る。
―――何か、傷を負った気がした。彼女はちくりと痛む胸を見て、密かに首を傾げるのであった。
―――その夜、彼女は彼を襲わなかった。3年の月日の中で、彼を襲わなかった夜は、その日が初めてであった。
『―――心……』
カリーナは呟く。
眠れないベッドの上で、唸りながら考える―――心。心。心とは、何であるか。
心が何たるかは知っている。不定形で、決して見えない、不実の存在。何の力も持たず、ただヒトを惑わす、悪たる存在。
主が教えてくれた。心は、わたしにとって、不要のものであると。
心とは、弱い者が持つものだ。弱い者が、縋りつくものだ。
弱い者は力に頼れず、心に縋る。心へ縋りついた者は生へ固執し、死を恐れるようになる。死を恐れる者は、役立たずであり、裏切り者である。
主は決して、心に縋る者を許さない。
だからわたしは、絶対に心に縋らない。
だけど―――彼は語る。絶大な力を振るう彼は、主と異なる言葉を吐く。強くなる為には、心が必要であると。
(それは、嘘だ。お前は、嘘をつかれている。
信じてはならぬ。お前は帰らねばならぬ。
全てを殺し、全てを壊し、主のもとへ帰らねばならぬ)
『……痛い―――』
誰かの声が、頭の奥より聞こえてくる。それは彼の言葉を嘘だと教えてくれる。主との約束を思い出させてくれる。
その声は福音であり、救いであった。
……だけど、だけど、何かが痛む。彼女はズキズキと痛む胸を押さえる。ベッドに横たわり、ふぅーっと、熱の籠った息を吐く。
何故痛むのか、何が痛むのか、分からない。カリーナには、分からない。
―――心臓? 違う。もっと奥、もっと内側の、何かが痛む。
分からない、カリーナには何が痛むのか、分からなかった。
『―――日記、読も……』
彼女は痛みから逃げるように、それを手にする。
それは彼女がつけている日記帳であった。始まりは2年前、彼より知識を身に着けるよう言われた日の少し後より始まる。
当時、見たことのある形、しかし意味を知らなかった形を、意味ある文字として認識できるようになるのは、為になると感じた。文字は連なり文章となり、文章は繋がり物語となる。物語を読むことは―――為になることばかりであった。
もっと色んな本を読みたい、きちんと話を理解できるようになりたい。彼女がそう考えていると、彼が日記を書くことを提案してきた。文字を覚える、文章を読む。それらの練習として最も良い方法は自ら書くことであると。
そうして、彼女は日記をつけ始めた。
初めの頃は、誤字だらけであった。何か間違えているような気がして、彼へ日記の添削をお願いしたこともある。彼はきちんと正解を教えてくれたが、間違いを指摘してきた時、可笑しそうに笑っていた。
その笑顔が何となく嫌で、それ以来彼に日記を見せることはなかった。今でもたまに見せるよう頼まれるが、その顔はいつも可笑しそうだった。だから、絶対に嫌だと断っていた。
―――日記の内容のほとんどは、その日、彼をどう襲ったかだった。柱の影から襲ったが失敗した、天井に貼りついて奇襲したが返り討ちに遭った、寝込みを襲う為に寝入るのを待っていたらいつの間にか自分が寝てしまっていた―――そんな、失敗談がつらつらと書き記されていた。
恥だった。主の命に従えなかった―――自分を連れ去った者を殺せなかった失敗が記された、恥ずかしい日記であった。
しかし―――彼女はそれを読んだ。ここ最近は毎夜、読み直した。
何故、自分は日記を読んでいるのか。何故、自分は日記を読みたいと思っているのか。日記に出てくる彼の動向を読んで、その様子を思い出し、胸が湧き立つこの状態を―――いったい、何と表すのだろう。彼女はうんうんと唸り声を上げ、ベッドの上で考える。
(考えてはならぬ。気づいてはならぬ。
お前は主の僕。心を持たず、死を恐れない者。
他所へ身を移してはならぬ。他人へ心を移してはならぬ)
―――何か、頭の奥の方から声が聞こえてくる。だが、彼女はその声に従わない。
彼女は気になる。気になって、仕方がない。
胸の内に、確かにある存在感。その正体、その名前が知りたくて、しょうがない。
彼女は悩む。
彼女は唸る。
彼女は思い出す―――記憶にある言葉の中から、自分の内にある、不定形で、決して見えない、何かが何であるかを、探し求める。
(……!! ……!!! ……!!!!)
『うぅっ……うぅぅ……』
頭の声が、ひどくなる。もはや何を言っているのか分からない。ただ、雑音と化したそれは、頭で大きく鳴り響き、彼女の思考を締め付ける。
だけど、もう少し―――もう少しで、何か掴める、気がする……頭の中で、あるいは胸の中で、彼女はがむしゃらに空想の腕を伸ばす。掴めない、正体が分からない、それ。しかし、ちらつく。
それは朧げに見える。誰かの顔、霞を振り払い、徐々に見えてくるそれは―――彼の顔であった、気がする。
何故、彼なのだろう。
何故、彼の顔が見えたのだろう。
―――何故、彼の顔を思い出すと、わたしは……わたしは……
『……あっ』
そして彼女は、胸の奥でその言葉と出会った。
『……、楽しい?』
それは自問の声。心の存在を否定し続けてきた彼女が、初めて出会った心の動きを指す言葉。
それは、『楽しい』。
―――彼と一緒にいるのが、楽しい。
―――彼と話をするのが、楽しい。
―――彼のことを考えるのが、楽しい。
―――彼の言葉を思い出すのが、楽しい。
―――彼の顔を見ているのが、楽しい
―――彼と一緒にいると、わたしは……楽しい。
『楽しい……』
考えれば考えるほど、『楽しい』は自分の胸の高鳴りと合致した。
その言葉の意味を、正しく理解はしていないかもしれない―――でも、きっと、それは、『楽しい』なんだ。
『わたしは、楽しいんだ……』
彼女は理解した。自分の胸の内に、『楽しい』という感情があることを。
口の中で転がしたその『楽しい』が限りなく正解に近いものであることを、悟ったのであった。
―――しかしそれは、彼女が触れてはならないものであった。
(裏切るな。僕よ)
『……ぁがっ!?』
胸の内に宿る、『楽しい』という感情の存在に戸惑っていた彼女は、唐突に叫ぶ。
痛みが、襲う。脳髄の奥を、楔で穿たれたように鈍く鋭い激痛が走る。
(決して裏切るな。僕よ。
その心を他人へ移してはならぬ。
身も心も、主へ捧げ、そして死ね)
『っ!! ……っっ!!!』
脳の奥より、声が聞こえる。
しかし、彼女はそれに応じられない。それを聞き取れない。
痛みで目の奥が焼ける。痛みで視界が真っ赤に染まる。
痛みが脳より全身へ走り、四肢が痙攣を引き起こす。耐え切れない痛みを叫ぼうにも、激痛に委縮してしまった舌がそれ以上彼女に悲鳴を上げさせることを許さない。
『……っ!!! ……っ、…!!!!』
彼女は痙攣する腕で胸を滅茶苦茶に掻きむしる。痛みの中心は、胸であった。
先ほどまで確かにあった、胸の高鳴り、暖かな『楽しい』は、真っ黒な痛みに塗りつぶされていった。
(他人へ芽生えたその心。潰してくれる)
『―――や、めっ……て……』
脳より聞こえてくる声に、彼女は恐怖する。
その声は、救いではなかった。
その声は、福音ではなかった。
それは彼女の心を縛る―――呪いの声だった。
しかし、それに気づいたところで、もはや彼女に為す術は何もない。
『ぃぎっ―――!』
ビクンと、ベッドの上でひと際大きく彼女の身体が震える。
―――それを機に、彼女を襲っていた痛みは鳴りを潜め、身体は安堵に弛緩する。口は半開きに緩み、食いしばり溜まっていた涎が一筋、頬を滴り落ちる。
……それを彼女は、拭えない。
その顔に、もはや表す情はない。
その瞳に、もはや映す色はない。
その胸に、もはや動かす心はない。
彼女は再び全てを捧げ、再び主を得たのである。
「………」
長い、長い時を経て。彼女は、ゆらりと立ち上がる。
そこに立つ者は、暗殺者―――主の命に従い、他者を殺す者である。彼女は得物を片手に、部屋を出る。
今宵、確実に敵を殺すため―――彼女は寝静まった邸宅を彷徨う。




