67.裏表
「…………」
「…………」
二者の間で交わされる気まずい沈黙は、互いの種族の関係性に起因する。
無事、『大地の裂け目』にて再会を果たしたミチとカリーナは、しかし言葉を交わさず。ただ、無言で視線のやり取りをし、意思の変わっていないことを確認するのみであった。
―――十日余り前、タンザハッタの町にて互いの心を垣間見れる会話を交わした2人であった。
ミチは、カリーナが主を想う気持ちを。カリーナは、ミチがルイナを想う気持ちを。それぞれに見た。それは互いの琴線に僅かながらも触れ、互いの願いを叶えるよう動くことで合意が為ったのであった。
しかし、彼女達は必要以上に近づかない。物理的な距離ではなく、精神的なところで。心の繋がりを持ってしまうには、種族間の溝があまりに深かった。
人間種と吸血鬼―――それは、およそこの世に生きる種の組み合わせの中で、最もいがみ合う運命に乗せられた、天敵同士であった。
人間種にとって、自分達の血を養分とし、圧倒的な力を有する吸血鬼は忌むべき敵である。対して、吸血鬼にとっても、人間種の放つ『輝ける陽光』は忌むべき存在であった。
互いを殺すことの合理性、必然性、そして容易性。それら三要素は彼らに共存や不可侵の道を選ばせない。あるのは必然的な敵対関係のみである。
故に、此度の件が終われば―――それがどのような形であったとしても、彼女達の関係は解消されなければならなかった。カリーナはナトラサの近くまで人間種を連れてきたという事実を隠すし、ミチも吸血鬼の隠れ里の存在を忘れる。
彼女達は出会う前通りのいち吸血鬼、いち人間種に戻る。この出会いは無かったことになるのだ。
そうであるからこそ、彼女達は必要以上に言葉を交わさない。関係を持たない。ちぐはぐな関係性の中に、予感めいたものも感じるが、それは見ないことにする―――彼女達が共に歩む道は、どこにも用意されていないのだから。
「………行くんでしょ?」
「―――はい」
ミチが視線の絡まりを解すように、目を脇へ逸らす。そこにいるのは、この場においてもう1人、沈黙のまま呆と立つルイナであった。カリーナはそれを見て、頷き返す。
もはや、彼女達の間で交わす必要のある言葉はない。ミチは後ろへ下がって道を譲り、カリーナはルイナのもとへ歩み寄る。
こうして彼女達の道は分かたれた。吸血鬼と人間種、それら2種族の間にある隔たりを確かに感じながら、それぞれにこう思う。
―――彼女とルイナの違いは何であるのか。
そして、
―――彼女とわたしの違いは何であるのか。
その答えは、明確でありながらも疑問に思わずにいられない。吸血鬼―――その存在の歪さに触れ、伴った不快さを隠しながら、彼女達はそれぞれに道を違えたのであった。
「お嬢様―――」
「っ……」
近くへ寄り、仕えていた者へ呼びかける。カリーナは給仕服の裾を摘まみ上げ、その場へ傅く。
ここは森、今は夜。そして相手は同族内で化け物と恐れ罵られる者である。しかし場所も時も関係なく、同族内での扱いに関わらず、彼女は従であり、相手は主であった。
「お嬢様、改めて―――よくお戻り頂けました。カリーナは嬉しく、そして有難く思っております」
目を伏せ、敬いを。口元を微笑ませ、喜びを。彼女は表情によって感情を表す。その心に恐怖などない。同族においてどれだけ恐れられている存在であろうが、主を救う者である。長く時を重ねてきた相手である。彼女の姿勢からは親愛と信頼しか垣間見えない。
「―――さあ、お嬢様。ナトラサへ向かいましょう。アーデルセン様がお待ちになっております」
そして、行く先を示す。『大地の裂け目』を真っ直ぐに指す。その先に、帰るべき場所、ナトラサの街が待っている。
―――ナトラサの街を出てより、半年の時が経ってしまった。『結びの指輪』によってアリスの居場所を常に知ることの出来たカリーナであったが、アリスが一所に留まることなく頻繁に移動を繰り返していた為、想定以上に再会が遅れてしまった。その間に、主の心の病が悪化していないか、不安であった。
今すぐにでも駆けつけたい、主の無事を確認したい―――だが、自分では主を救えない。目の前の少女―――今はもう、自身より背の高くなってしまったアリスを連れ、主のもとへ連れて行くのが、彼女の使命であった。
「………っ」
しかし、彼女は応えない。目を伏せ、唇を微かに震わせるのみ。その場を動かず、ただじっと地を見つめるのであった―――
「―――さあ、お嬢様。ナトラサへ向かいましょう。アーデルセン様がお待ちになっております」
「………っ」
指し示された道を見て、その先にナトラサの街があると示され、ルイナはびくりと身体を震わす。
腕を抱き、身を竦める。身体は万力を放ち、須臾に間を駆け、敵を確実に屠る―――そんな彼女が、恐怖に溺れ、凍えていた。示された道を歩むのを恐れ、怯えていた。
―――父に会って、何を話せば良いのか、分からない。
未だ脳裏に焼き付く、畏怖の表情。自分を娘としてではなく、敵として、脅威として、化け物として映していた拒絶の瞳。それがルイナの覚えている、最後の父の顔であった。
もう会うことはないと思っていた。
もう会いたくないと思っていた。
もう忘れようとしていた。
もう忘れられているだろうと思っていた。
しかし、事実は違った。彼女は違えたのである。父の感情を、父の親心を。
父は娘を未だ愛していた。望みを絶たれ、心を砕かれ、感情を失くした顔で出て行った娘に心を痛めた。そうさせてしまったのは、全て自分のせいなのだと心を病ませた。
父は籠った。家に、部屋に、内に。街を捨て、民を捨て、彼の心を占めているのは巨大な後悔の念であった。
「―――それは……」
―――それを教えてくれたのは、カリーナであった。自分が街を出てより父に付き添い、最も父の心に触れていたのはカリーナであった。
故に彼女は断言する。奥方亡き今、主の心を救えるのは唯一人―――お嬢様だけであると。
追い出してしまった娘と和解し、手を取り合えば、必ずや主の悔いは晴れる。心は復し、病がなおると―――彼女は望みを語り、自分に望みを託した。
「……それは、本当なのかしらね……」
「―――お嬢様?」
彼女は嗤う。
―――その話は、果たして本当なのだろうか? ルイナの心は疑いに傾く。表情が歪む。
それを見て、目の前のカリーナが不審げに首を傾げるが、そんなものはどうでもいい。
カリーナはそれを、事実として語る。だが、それは希望ではないだろうか。
カリーナにとって、あるいはルイナにとって、都合よく捻じ曲げられた事実ではないだろうか。
自分が行けば父が救われると妄信し、その実、全くの見当違いである可能性はないだろうか。
「本当に、父様は私なんかを待っているのかしら……」
本当に、父は自分のことを心配しているのか。
本当に、父は自分のことを娘として扱ってくれるのか。
本当に、父は自分の帰りを待っているのだろうか。
―――こんな、不出来で歪で化け物な自分を、母を殺したも同然の私を、罵ったりしないだろうか。
疑心は晴れない。一切、安らがない。故郷たる『大地の裂け目』を目の当たりにし、1人、野に放り出されたあの日を思い出し、彼女の心は恐怖に震える。
何故戻って来たのかと、糾弾され、拒絶され、放逐される未来はないのかと、震える。
しかし、一方で―――希望がちらつく。
父が自分を受け入れてくれるなら、愛してくれているなら―――こんな自分でも、まだ愛してくれるなら。
……立ち直れるかもしれない。自分は吸血鬼の血を吸う『異端』であるから一緒にはいられないが、拠り所はここにあるんだと信じ、晴れて旅に出られるかもしれない。
「……あはっ、はは……」
彼女は嗤う。否、自嘲う。
希望と恐怖、その2つに挟まれ、ルイナの心は痛みと諦観に押しつぶされる。その場から―――最早、その場というものが何を指し示しているのか分からなくなるほどに、逃亡の願いが立つ。
ここではない、どこかへ。
今ではない、何時かへ。
自分ではない、誰かへ―――逃げ出したい。
「お嬢様、どうなさいました…?」
彼女にかかる声がある。嗤い、ぶつぶつと何事か呟く彼女に心配の言葉がかけられる。
―――彼女は、大きく息を吸う。胸に溜まった不安を、恐怖を、苛立ちを。全てを声に乗せてぶつける為に、口を開け、そしてあらん限りに叫んだ―――
「……、……なんでも、ないわ……」
―――叫べなかった。叫びたい衝動は、心配そうな表情を浮かべるカリーナの顔を見た瞬間に引っ込み、心の中で嘆息へと変わった。
……あぁ、もう、分かった。分かった!
行くしかない。行くしかないんでしょ! 行くしか、ないのね……
「……行きましょう。カリーナ」
「はい、お嬢様」
やがて彼女は応える。声を震わしながら、カリーナの求めに応じる。
最早その心に痛みはない、忘れてしまった。感じなくなってしまった。
―――痛みを忘れた代償に、その心が着実に腐りかけているのを、未だ誰も気づかない。




