64.嗤う母親
『母様っ、ひぅっ、母、様っ―――』
蝋燭灯る暗い部屋、窓の向こうに見えるのは洞窟の天井と他所の家だけ、明るいものも楽しいものも何もない部屋の中。
アリスは泣く。ベッドに座り、涙を拭い、それでも不安は後から後へと湧いてきて、嗚咽は口から零れていく。
どうして、私だけ。
どうして、私だけ。
どうして、私だけ―――こんなに、酷い目に遭わなくちゃいけないの?
アリスは嘆く。ひたすらに、泣く。その小さな身体に収まる心は常に傷つけられ、痛めつけられ、それでも姫として毅然とした態度を求められ―――それでも他所の目からは隠されて。
彼女の心は擦り切れる。子供らしからず、荒む。それでも彼女が道を違えずに育ったのは、家族や友の愛有る故であった。
『どうしたの、眠れないの?』
そんな彼女に、声がかけられる。腰かけるベッドの隣に、誰かが座る。
『母様っ―――私、私―――っ!』
アリスは抱きつく。今、何故自分が母を求めていたのか、分からず。ただ、心に満ちる不安が否応なしにそれを求める。
母の温もり、母の優しさ、母の愛―――彼女はそれに久しく飢えており、隣に座る母の胸に顔をうずめる。
『ああ、可哀相に―――怖い夢でも見たの?』
母は優しく、彼女の身体を受け止める。身を抱きしめ、そっと背を撫でる。
怖い夢―――そうだ。何か、怖い夢を見ていた気がする。
何かを失い、何かを捨て、何かに縋りつく―――それでも、何かに迫られ、その何かに心を押しつぶされそうになった、そんな怖い夢。
『ひぐっ……、は、はいっ、母様―――怖い、悪夢を見ていました……』
その夢では、彼女はひとりぼっちであった。誰も周りにいない。誰も周りに寄りつかない。誰もが遠ざかり、誰もが自分を拒絶する。
偽物の暖かさ、偽物の記憶、偽物の人格。彼女は自分ではない者になりきり、うわべの喜び、表層の生活に慣れ、偽を正と違え、生きていた。
そんな時に、突きつけられた現実―――取り返しのつかない事実を突きつけられ、彼女の心からうわべは取り除かれた。
悲しかった、辛かった―――当然であった。それは最早他人である、無関係であると思い込んでいた者達が、実はこちらを向いており、手を差し伸べ、帰りを待っていたのだ。
突き放され、追い出されたと思っていたその出来事が、実は自分が出て行った、捨てて行っただけであったのだ。
そして―――――――――、自分を待ってくれていた母が、死んだと、聞かされたのだ。
『母様っ、母様は、死なないですよねっ……?』
夢の中で母が死んだと聞かされて―――夢の中の自分は『自分』を保てなくなったのだ。
本来の『自分』にとって、他人である。種族も違う、全くの無関係である他人である―――はずだった。
しかし、その偽りの心は保たれず。彼女の心に衝撃となって打ち込まれ、偽りようのない動揺が走ったのだ。
―――夢の記憶は、そこで途切れる。
―――良かった。あんな悪夢を見続ければ、自分はどうなっていたか。
彼女は泣きながらも、母の胸に確かな安心感を覚える。しかし同時に、一度胸を襲った喪失感に怯え、震える眼差しでもって母の顔を見上げる。
『もう、何を言っているの―――』
母は、月のように静かに笑う。彼女の髪を撫で、目を細め、慈愛に満ちた表情で言った。
『私は、あなたのせいで死んだのよ?』
―――そして、悍ましく嗤った。
『え―――』
唐突に移った表情の変化に、彼女は戸惑いの声を上げる。飛び退き、立ち上がり、一歩を後ろへ動かしてしまう。
その身は最早、幼くない。小さくない。見慣れた部屋の天井が、近くに迫る。自身の背が、自己同一性の中にある背との差異に戸惑う。いつの間にか、その手に白い杖が握られている。
それは、まさしく、夢の中の自分と同じ出で立ちであった。
『えっ、あ、え、か、母様……?』
戸惑いは絶えない。自身の恰好、見下すような母の嗤い顔。蝋燭の灯火は風もなく揺れ、部屋の輪郭が崩れていく。
『違うでしょ、ルイナちゃん―――あなたの母様は、あっち……』
そして母は彼女の背を指差す。その指摘に、言葉に、どきりと、確かに彼女の胸は動揺に蠢く。
わなわなと首を震わせながら、彼女は振り返る。そこにあるはずの壁が消え、代わりに見えるのは暗い穴。その奥に見える、石造りの部屋に佇む1人の女性―――
『お母、さん……』
彼女は呟く。そこにいたのも、彼女にとっての母であった。
『あら、うふふ。嫌だわ―――』
穴の向こうで母は、太陽のように明るく笑う。柔和に頬を緩め、目尻を下げ、愛おしさに溢れる表情で言った。
『アリス、あなたのお母さんはそっちにいるでしょう?』
―――そして、疎ましく嗤った。
母は指差す、彼女の背の向こうを。もう1人の母の立つ、その場所を。
『あ、あぁっ、ああぁぁっ……』
彼女は喘ぐ。彼女の胸の中で、激しい動悸が起こる。心が痛い、苦しい、痛い、苦しい―――
一歩を下がる、母の嗤い顔に怯え、遠ざかる。彼女の一歩は、先より小さくなっていた。いつの間にか手に持っていた杖は消え、背も髪も縮んだ。彼女は己が身のあまりの儚さに、脆さに、弱々しさに、慄く。
それはいつの日か、無能と誹られ、異端と断じられた、虚弱たる我が身であった。
『こっちじゃないわよ、ルイナちゃん』
『そっちに行きなさい、アリス』
『ああっ、あああぁっ…!』
前から、後ろから、母の声が聞こえる。
それは自分を呼ぶ声ではない。拒絶の声、繋がりを否定する蔑ろの声。
『今更こっちに戻ってこないで欲しいの、ルイナちゃん』
『もうお母さんを探すことをやめたんでしょう、アリス』
『やめて、嫌っ、やめて、くださいっ、嫌だっ……』
背の方を差す指から目を背ける。聞こえてくる声から耳を塞ぐ。しかし、母の嗤い顔が見える。母の蔑む声が聞こえる。
彼女の心は擦り切れる。拒絶と拒絶に挟まれ、彼女の心は押し潰される―――喘ぐ。彼女は拒絶を拒絶する嗚咽を漏らし、助けを求める。
『『だって―――』』
しかし、その言葉は告げられる。
『『あなたはもう、私の娘ではないのだから―――』』
「嫌ぁぁぁああああっ!!!」
「のひゃぁっ?! な、なに?! 何が起こったのっ!?」
夜の帳が落ちた野の道。そこに2人の叫び声が上がる。1つは拒絶の声、1つは驚きの声である。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ……」
その1つ―――拒絶の声を上げた者であるルイナは、そのまま飛び起きた衝撃が収まらず、肩で荒く息を吐く。今見ていたものが夢であり、自分の身が無事であり、尚且つ、自身の心に突き刺された言葉が夢の中の妄言であったことに気づく―――それでも抉られた心の傷が痛み、彼女は胸を押さえて呻く。
「うっ、うぅっ、うぅぅぅぅっ……っ!」
そして泣く。何も否定できない。夢の中で言われた全てのことが、否定できない。
その言葉の出どころは己の想像であろう、被害妄想であろう―――そんな慰めの言葉を、自身にかけても無駄であった。
彼女は母を捨てた。アリスとしての母を捨て、ナトラサを旅立った。死の報せを聞くまでは、母を母とも思わず、別の者ただ1人を母とし、過ごした。
それが―――母が自身を心配したあまりに心を狂わせ、自身を探すために町の外に出て陽光を浴びてしまい、死んだと聞いた時、彼女は―――嘆いた。
いつだって、自分を愛してくれた母。
いつだって、自分を守ろうとしてきてくれた母。
自分がどれだけ両親を困らせる存在であっても、決して諦めず、自分の行く末を案じ、信じ、微笑みかけてくれた母。
あの母は、最期まで母であった…! それに対して、自分は如何であったか。母の想いを無視し、母の愛を裏切り、呑気に旅をしていた自分は、亡き母に顔向けできるような存在であるのか。
母様に、会いたい……っ! 会って、話がしたい。謝りたい。抱きしめ、抱きしめられたい。愛されたい…! ―――この期に及んでそう願ってしまった自分は、どれだけ勝手なやつであろう。
「うっ、うぅ、うぅぅっ…!」
そして―――彼女は今、ナトラサに向かっている。
母亡き後の故郷であるその地へ向かい―――自身のせいで心を病んでしまった父へ会いに、彼女は進路を変え、ナトラサへと向かった。本来の旅の目的である、ルイナとしての母親探しを後回しにして―――
母を捨てた彼女は、もう1人の母をもその時、捨てたのである。
それは一時的なものである、ナトラサに寄るのも旅の通り道である、結果的に言えば後回しでも何でもない―――自身に向けての言い訳は、いくらでも言い繕えた。
しかし、夢に出てきた母に責められ、指摘され、アリスとしての母にしたことと同じことを、ルイナとしての母にもしたのであると、気づいてしまった。自分は、悲しみのあまり―――もう1人の母を、蔑ろにしたのだ。
―――負い目であった。彼女が今、胸に抱え、苦しんでいるものは、間に挟まれどちらの娘であるのか示せない、後ろめたさであった。
「……ルイナ」
寝ていたかと思えば悲鳴を上げ、その後苦しそうに小さく泣くルイナに対し、旅の供たるミチは寄り添い、その背を優しく撫でるのであった。
「―――我慢しなくていい、今は泣きなさい。でも、忘れないで―――あんたの傍には、あたしがいるから」
ミチはルイナの苦しみの理由を、半分も理解していなかったし、理解しているとも思っていなかった。
しかし、理解ることもある―――彼女の心が自身の心に押しつぶされそうになっている。自分を責め、苦しみを外に逃がすことも誰かにぶつけることも出来ず、ただ必死に耐えている。
自分に出来ることはその責めを和らげることでも、その責めを否定することでもない。ただ寄り添い、彼女の心を支えることのみである。
「うっ、うぅぅっ、う、うああっ、うあああぁぁっ…!」
負い目だらけの自身にかけられたその言葉に、ルイナは更なる負い目を感じながらも、その腕に縋った。
縋り、泣き続ける―――彼女の心は今、寄る辺なく。ただ1人の友の身と心を支えられ、彼女は今宵も慟哭の夜を明かしたのであった。




