63.帰郷の願い
『―――お母さん、大丈夫? 何かして欲しいこととかある?』
『あら、ルイナ。うふふ、お母さんは大丈夫よ。それよりもお手伝いの方は終わったのかしら?』
『うっ―――ううん、まだ終わってない……』
『あらあら、ルイナ。それじゃあお父さんが困っちゃうわ。さっ、お母さんは大丈夫だから、お手伝いしてらっしゃい』
『うう……はぁ~い。でも、ちょっとだけ―――』
―――ギュッ……
『あらあら、この子ったら。うふふ、どうしたの、ルイナ?』
『―――お母さん、早く元気になって。また一緒にお出かけしようね』
『―――ぷっ、あはっ、あはははっ』
『な、なんで笑うの?! ルイ―――わ、わたし、お母さんのこと心配してるんだよ?!』
『あははっ、あぁ、ごめん、ごめんなさいね。笑っちゃって―――あははっ』
『むーっ!! もうっ、お母さんなんて嫌いっ!』
『あははっ、ごめん。ふぅ、ごめんなさいね、ルイナ―――でも、そうよね。何も知らなかったら心配よね……うん、そうね。もう、ルイナにも話していいかもしれないわね』
『……?』
『あのね、ルイナ。お母さんが最近、ずっとベッドで横になってるのは病気だからじゃないのよ』
『えっ、そうなの…?』
『ええ、あのね、ルイナ。もうちょっとしたらあなたは―――』
―――暗転。転回。明転。ルイナの夢はそこで終わる。
「…………」
「…………」
沈黙。旅の供たる牡馬テトの背に跨り、ルイナとミチは野を走る。
その2人の間に、しばしのしじまが訪れる―――話すべきことは、お互い多くあるはずであった。しかし、そのどれもが今の相手に話すべきものではない。間は2人に、気遣いの無言を選択させた。
彼女達が向かっているのは、話し合いの結果決まったユーテル神聖国への国境―――ではない。目的地より遠ざけたはずの地、クォーツ公国―――より仔細に言えば、その道程の途中にある、『大地の割れ目』であった。
そこはルイナにとっての生まれ故郷、吸血鬼の隠れ里たるナトラサの街のある地―――追い出され、二度と向かうまいと心に決めていた、哀情と傷心が刻まれた地であった。
―――彼女達が意思を変え、クォーツ公国へ向かうことにしたのは、遡ること2日前の出来事が要因であった。
「ナトラサの街へ、どうかお戻りくださいっ、お嬢様!」
目を覚まし、直面した事態に心を様々な方向に揺れ動かされたカリーナであったが、我を取り戻すのは早かった。再会を喜ぶ時間も、今なお心に病を抱えている主を思えば掻き捨てる。彼女は己の感情を切り捨て、瀟洒たる召使い、使命遂行の僕となる。
―――しかし、その心は平静でなく、冷静でもなかった。
当然である。彼女の心は焦りが募っている。主を助く為に街を後にし、既に半年の時が経つ。自分の居ぬ間に、主が如何様に過ごしているかも、分からない。
彼女は想いを叫ぶ。理由も意図も語らず、ただ、行動を求める。
「えっ……」
一方、カリーナの言に、ルイナは戸惑いの声を上げるのであった。
―――それまで彼女は、考えていた。何故、カリーナが自分のところへやって来たのかを。
この再会は偶然であろうか? ―――それは確実にない。
ナトラサより出る吸血鬼は、人間種との接触を極力避ける。狩猟や採集の為に森や山へ入る者はいるが、わざわざ人間種の多く住む町へ侵入する者など、いるはずがなかった。
町の中、しかも数ある家屋の一室に逃げ延びたら偶然自分がいる部屋だったという考えは、とても現実的ではない。
それでは何か目的があって自分に会いに来たとして、その目的とは何であるか? ―――その答えを、彼女は見つけられなかった。街を追われ、父より殺意を向けられ、同族の誰からも死を望まれた自分へ、今更どんな意図でもって接触を図りに来たのか。
―――彼女は父の感情を知らず、未だ怯えられていると思い込んでいる。故に帰郷の願いであるとは微塵にも思っていなかった。
だからこそ彼女は狼狽え、一歩を後ろへ動かす。わけ分からずの言を口走るカリーナより遠ざかるのであった。
「―――嫌…」
彼女は動揺に胸を詰まらせながらも、必死の思いでその一言を繰り出す。
嫌であった。
無理であった。
自分の心を無残に砕き、今なお精神に不安定をもたらす嘆きの地へ、今一度戻れと言われ、彼女は弱々しく首を振った。
その目に、父親の敵意ある眼差しが浮かぶ。
その耳に、民達の怯えの声が聞こえてくる。
その背中に、自分の死を望む呪いの視線を感じる。
―――その目尻に、悲哀の泪が溢れる。彼女の心の表層は剥がされ、ずたずたに引き裂かれたままの内層が剥き出しにされる。曝け出された傷からは、過去の記憶が溢れ出す。
『……ば、化け物…!』
―――己を化け物と呼ぶ大人の吸血鬼。彼の名前は知らない。知らないままに、殺した。洞窟の暗闇の中で、狂喜に打ち震えながら彼の血を啜った。
その顔に浮かべられているのは、怯えと拒絶の表情であった。
『わ、分かった―――お前の望むように死を与えよう。それで、良いな?』
―――己を怯えの表情で見る、父の顔。死を与えると口で言い、死を望む感情を瞳に映し、その後一切の情けも憐れみも与えてくれなかった、実の父の顔。
呪いのようなその表情、視線、言葉は、未だ内に突き刺さり、上塗りの記憶の蓋よりそれは覗けて見える。
『うあああああぁっ…! …ああぁぁっ、ああぁあぁぁっ…!!』
―――己の喉より上がる慟哭。それは絶望という言葉すら生ぬるい。身を否定され、心を砕かれ、何に縋ることも出来なかったその時、打ち上げられた悲鳴。
その枯れ果てた叫びは未だ彼女の耳に残る。振り返れば自分が、洞窟で1人寂しく泣き、渓谷の陽光の下で苦しく泣く、ひとりぼっちの少女であることに気づいてしまう。
「……嫌っ―――嫌ぁぁぁっ!!!!」
ルイナは叫ぶ。頭を押さえ、地に伏し、声を枯らす。
気づいてしまうな。
思い出してしまうな。
直視してしまうな。
―――アリスになろうとするな、私は、私はっ、ルイナなんだ!
「ルイナっ?!」
「お、お嬢様っ!?」
突然起こったその悲鳴に、即座に動くカリーナであったが、彼女に駆け寄るのは近くにいたミチの方が先であった。
「ルイナ、大丈夫っ? ルイナっ―――」
「嫌ぁぁっ!! 殺され、っ、殺されたく、ないっ、もう、殺され―――嫌だぁぁっ!!」
「っ―――」
ミチの問いかけに、ルイナは只々叫び続ける。その応えは問いに対しての答えではない。しかし、聞き取れた言葉もある。ミチは敵意の満ちた視線をカリーナへ向ける。
『殺される』―――街へ戻れば殺されると、ルイナは叫ぶ。それを欲しているのかと、ルイナの死を望んでここまで来たのかと、ミチは視線で問う。
しかし、ルイナの慟哭に、カリーナもまた動揺していたのであった。
確かに『異端』とされ、同族を殺した彼女は処刑されるべきであった―――だが、誰もそれを為し得なかった、と聞かされている。
吸血鬼の血を吸い、強くなり過ぎた彼女を殺せる者は同族においていなかった。故に陽光に晒すしか方法がなかったとも聞かされたし、その方法も通じないと知った今、彼女が恐れるものは何もないと思っていた。
彼女はこの世で最強の肉体を手に入れたのだと、聞かされていた。吸血鬼の地へ戻ってこないのも、民達を不安にさせない為の慈愛の心故だと思っていた。
だから、このように泣かれるのは、完全に予想外であった―――彼女は、大きく思い違いをしていたのである。最強の身体を手に入れようとも、心は傷つき、より脆く、より儚くなってしまっていると知らなかったのである。
そして―――そもそも、ルイナが恐れているものは、殺されることではなかった。己が身へ殺意を向けられることである。化け物を見る目で畏怖の表情を浮かべられることである。問答無用に、忌敵であると烙印を捺され直される、ただその仲間外れであった。
彼女が恐れているのは、その心が再び壊されることである。ルイナとして浮上してきた心を再び砕かれ、自分が保てなくなってしまうことこそ死だと思い、殺されると叫ぶのである。
父に畏怖の表情でもって、何故戻ってきたのか、我ら吸血鬼を殺しに戻ってきたかと問われ、逃げ惑われ、果ては敵意をもたれ。そして己が身が勝手に動き、父の首を刈り取る。そんな悪夢が脳裏にちらつく。
ああ、最早否定できない。自分はこんなにもアリスであったのか―――ルイナの心を持ちつつも、ルイナの記憶を取り戻しつつも、ルイナとして生きつつも、やはり自分はアリスであった。アリスは怯え、震え、嘆く。
改めて認識した。自分はナトラサの街へ、絶対に戻ってはいけない。それは吸血鬼の為―――そして、自分の心の為。彼女は砕かれたままの心の破片を胸に抱き、泣く。アリスは再び、故郷を失ったのである。
こうして、その場にいる三者は各々思い違いを果たす。それはそれぞれに他者を思いやっての心が原因であったが、それは唯一、ルイナの心を痛めつけるだけの結果に終わる。
―――それでも、為さねばならぬことがある。ただその想いを原動力に動き、その場の状況を打開すべく口を開いたのは、カリーナであった。
「―――お嬢様っ、アーデルセン様も、お嬢様の御帰郷を望まれておいでです!」
「……えっ」
その一言は、ルイナの心を揺れ動かす。彼女は顔を上げ、その言葉の真意を問うべくカリーナの顔を見やる。
その言葉の真意―――しかし、そんなものはない、言葉通りである。娘が街より出て行った後、父は心の病を患い、何も手につかなくなってしまった。その心が後悔の念に押しつぶされているのは、リリスフィーが亡くなり、主が部屋へ誰も入れなくなるまで近くに仕えていたカリーナがよく知っていた。
アリスは街を追い出されたと思っているが、その実、自分から出て行っただけなのである。心砕かれ、周りに気を配る余裕のなかった彼女は気づかずにいたが、あの時、父は確かに娘の行く先を心配していたのであった。
彼女はそこで初めて知った。父が未だ、自分の身を案じていることに。自分の心を憂いていることに。
そして、彼女は聞かされる―――街の有り様を、父の有り様を。
――――――そして、母の亡きことを。彼女はそこで初めて知るのであった。




