60.救う者
とある宿の一室に、物言わぬ身体が1つあった。
彼女の脈動は未だ有り。しかし、生の証明を果たしているが息はない。呼びかける声に反応はなく、四肢は力なく地に垂れる。
目は開かず、声も出さず、未だ死に至っていないが確かに死に瀕している。そのような状態の者であった。
正しく快復処置を施さねば死に至る彼女であったが、それは為せない―――なぜなら、彼女が吸血鬼だからである。
銀の髪を有し、身に傷を負った彼女を運び込めば、病院であろうと教会であろうとそれが界隈を騒がせている吸血鬼であることを察するであろう。取り囲まれ、『輝ける陽光』に晒され、その身は救われることなく惨殺されるであろう。
「うぅっ…カリーナぁ……どうしてっ、どうして、こんな……」
治療行為も治癒術も施せない。窓の壊れた部屋より新しく用意された部屋へ彼女を移したが、最早何を為せばよいか分からない。近くに頽れ、悲嘆に暮れる少女は嗚咽を漏らし始めるのであった。
「諦めたらダメよ」
しかし、泣き崩れる彼女に、かけられる言葉があった。
「ルイナ、助けたいのなら諦めたらダメよ。こいつを助けられるのは、あたし達以外にいないのだから。
必死に考えなさい。それとも、もし諦めて楽になりたいのなら泣いて縋りなさい。そうしたら、あたしはあんたを慰めてあげる―――でも、こいつは死ぬわ」
手が指し伸ばされる。跪き、俯いていた彼女の目に、小さな手のひらが映る。
「ルイナ、諦めるのはやり尽くしてどうしようもなくなった時にしなさい。動かず最悪を嘆くよりも、動いて最良を掴みにいきなさい。その為の頭と手は、あたしが貸してあげるから。
だからルイナ、今は動きなさい。立って、見て、考えて。こいつを助けられるのは、あたし達だけなのよ」
―――その差し伸ばされた小さな手は、やがて握られる。
縋りではない。その手を握った少女は涙を拭い、立ち上がった。
「……分かり、ましたっ…」
泣いていた少女は救われた。その時、彼女の心に、砕かれていた魂の破片が突き刺さる。
他者の目と思いに怯え、一途に救いを求めていた少女は、その時、救う者の心を思い出したのであった―――
―――ダメだ。いや、ダメだった。泣いてちゃ、ダメだった。
ルイナはミチの手を借り、泣き崩れていた床より立ち上がる。涙は裾で拭き、頬をぺしりと叩き、滲んだ視界と思考を明瞭にさせる。
カリーナを助けられるのは、私達だけ―――いや、私だけなんだ。ミチさんは私が助けたいと思っているから、私を助けようとしてくれているだけなんだ。だから、カリーナを助ける為には、私が動かないとダメなんだ。
しっかりしなくちゃ、いけないんだ。ルイナは意を決し、困難へ立ち向かうことを決めた。
「カリーナ、聞こえる? 返事をして」
「………」
彼女からの返事はない。口も動かず、胸も動かず。依然として息は止まったままである。
しかし―――、聞こえる。集中したルイナの耳には鼓動の音が聞こえてくる。その脈は自分のと比較して弱く、遅く、医学の知識がないルイナであってもそれが異常であることは分かった。
それでも、それは生きている証である。それを、自分の手で繋ぎ留めなければいけない。
「っ―――」
目の前の命を取りこぼさない為に、自分がまずしなければならないのは状況と状態を知ることである。
ルイナは息を止め、歯を食いしばり、昂る苛立ちに似た食欲を抑え込みながら、カリーナの身をうつ伏せに返した。
血止めの為にあてがった服を剥がし、脱がし、見えた背には白色の肌と、凝固し黒へ変色しつつある血の塊、そして小指の先ほどの太さの小さな刺し傷であった。
「―――ミチさん、ここ、何かに刺されています」
「本当ね。これは矢―――いや、出血がひどくないから違う……傷は、多分浅いわね。剣で刺されたわけでもない……これは―――」
ルイナが指差し、指摘すると覗き込んできたミチが口の中でもごもごと呟く。
「ルイナ、これは針よ」
「針―――」
ミチが挙げた物に対して、ルイナは首を傾げる。針と言われ、前世の母が裁縫の時に使っていた細い針が連想されたからだ。
しかし、冒険者養成学校の講習において、その武器の名前を聞いたことを思い出したのであった。
針とは、指程の太さと長さを有した投擲武器である。職業としてはレンジャー、あるいは暗殺者が好んで使用する。
矢や投げナイフと比較すると威力と指向性に劣る針であるが、弓のような発射装置を必要とせず、投げナイフより安価である為、補助武器として活用されることが多い。
そしてその針の先端に毒を塗り、相手の体内を侵す手法が講習では教えられていた。
「……毒」
可能性に思い至り、ルイナはカリーナの傷口を見る。針に刺されたのであれば、毒を盛られた疑いが出てくる。
現れた時、彼女が苦し気であったのも、毒に身を侵されていたからだと考えれば辻褄が合う。であれば―――
「わ、私、薬草を持ってきます!」
「待って、ルイナ」
毒であれば、毒に効く薬草を持ってこれば良い。そう思い、ルイナは立ち上がり背負い袋へと向かおうとしたのだが、それをミチは止める。
「毒は―――可能性はあるけど、待って。傷口が腫れていないし、皮膚も変色していない。んー、出血毒じゃないわね……首も固くない、口の中は―――んー、唾液詰まってる? 神経毒……でも、なぁ……?」
ミチはカリーナの身体のあちこちを触り、唸ったり首を捻ったりする。そうして一頻り見終わったところで顔を上げる。
「毒はあたしの方で検討するわ。あんたは別の可能性がないか考えなさい―――あんた達の種族にしか分からないことも、あるかもしれないし」
「わ、分かりました。お願いします」
ルイナが頷いてみせると、ミチは頷き返し、背負い袋の方まで走っていく。
それを見送り、ルイナは目の前に倒れたままのカリーナを見て、更に考える。
毒である可能性を考慮しなければ、カリーナの外傷は針による刺し傷のみである。
その傷は浅く、小さい。既に傷の周りで血が固まり、出血が収まるのも時間の問題に見える。その程度の傷である。
その傷のみによって、ここまで重体になるとは考えづらい。ましてや、自分達は血の巡りによって生命活動を為す人間種ではなく、吸血鬼なのだ。この程度の出血があったところで、生命の根幹を成す魔素が失われなければこのような危篤状態には―――
「……あっ!」
ルイナは叫んだ。思わず、己の閃きに驚き、胸の奥から込み上げてきた衝撃を声に出して、叫んだ。
「み、ミチさんっ! ミチさんっ!!」
「どうしたのっ!」
驚きの声音そのままに、ミチを呼ぶ。呼ばれたミチは背負い袋より手あたり次第の薬草を持ち寄り、ルイナの下へ戻ってくるところであった。
「分かりました、多分これ、魔素欠乏だと思いますっ!」
「魔素、欠乏……これが?」
ルイナの言葉に、ミチは訝し気にカリーナの身体を見下ろすのであった。
魔素欠乏とは、その名の通り魔素が不足している時に陥る状態のことである。生来の魔素許容量の半分より下回ると発症し、頭痛や嘔吐、重症になれば気を失ってしまう者もいる。
だが、魔素欠乏によって重体となり、ましてや死に瀕する者など聞いたことがなかった。ミチが釈然としない面持ちであるのは仕方のないことであった。
しかし、それは人間種に限った話なのである。生命の根幹を魔素によって成り立たせている吸血鬼において、魔素とは人間種にとっての血も同然。生来の魔素許容量の半分―――『限界量』と吸血鬼に言われている値を下回れば彼らは死に瀕するのである。
『輝ける陽光』を浴びた吸血鬼は体内魔素が枯渇する。そこへ更に傷を負い、血と共に血中魔素すらも体外へ放出されれば魔素欠乏を起こし、死に瀕する―――彼女は事態の解を見つけたのであった。
ルイナはそれを説明した。ミチにとっては、同じような姿形をしているにも関わらず血ではなく魔素によって活動する生物があることに驚きを禁じ得なかったが、それでもとりあえずその場は納得することにした。
納得し、話を進めることを優先したのである。
そうして彼女達はカリーナの快復措置に目途をつけたのである。
毒は磨り潰された薬草でもって、魔素欠乏は人間種の血でもって、それぞれ快復の見込みを立てたのである。
―――しかし、事態は好転せず。意識を失っているカリーナは近づけられたそれら2つを飲み込めず、口の端より薬草と血を垂らすのであった。




