58.天秤
―――バリィッ!!
「きゃぁっ?!」
「な、何?! いきなり何なの!?」
それは不意に訪れた。木窓の桟が外より破られ、黒い何かが―――いや、黒の外套を羽織った何者かがルイナとミチの泊まる部屋へと押し入ってきた。
「っ、ぐっ―――」
その者は窓を破った勢いそのままに床をごろごろと転がり、やがて止まる。身を起こそうと腕を床につくが、それ以上身は持ち上がらず。
外套の端より鮮血が滴り落ちる。窓を破った時の衝撃故か、それともそれ以前のものかは分からぬが、傷を負っているらしい。
「っ―――」
その赤を見て、ルイナの顔が引き攣る。何者かは知らぬが、目の前で滴る血は区別なく、自分の意識を苦痛に染めるものであったからだ。
咄嗟に鼻を摘まみ、息を止める。後退り、その者の動向を見つめる。
「………」
ミチも、その場を動かない。突如窓を破り襲撃してきた者が、何を目的とし、何を仕出かそうというのか全く読めず、ただその者の動きを注視する。
「ぐっ、がはっ、げほっ―――くっ……」
彼の者はその場でもがく。咳き込み、苦悶の息を漏らす。
やがて彼の者は身を起こすのが不可能であると判断したらしく、肘を支えに上半身を持ち上げ、その外套を剥ぐ。
「はぁっ、はぁっ……」
剥ぎ取られた外套から出てきたのは、白い顔であった。
しかもそれは細く、それでいて柔らかな印象を持った―――女性の顔であった。
「えっ……」
それを見て驚きの声を上げたのは、ミチであった。
彼女が驚いたのは、襲撃者が予想に反して女であったからではない。その容姿故である。
―――彼女の髪は、銀色に輝いていた。
「……、……」
一方、ルイナは現れたその顔を見て、驚愕のあまり言葉を失っていたのであった。
ここにいるはずのない者が、ここに来れるはずのない者が、そこにいた。
最早生涯会うこともないであろうと考えていた者が、この場へ現れたのだった。
「お、じょう、さま……」
その者は呟く。ルイナの方へ、瞼の閉じかかった虚ろな眼差しを向け、か細く呼びかける。
『お嬢様』と。明瞭な響きでなかったが確かに、その口はそう呟いた。
ルイナをそう呼ぶ者は、この世にただ1人しかいない。
「カリーナ……」
ルイナは応える。アリスを呼ぶ者の声に、自然と湧き上がってきたその呼び名でもって、目の前に頽れる召使いの名を呼んだのであった。
「あそこへ吸血鬼が入ったぞー!!」
「宿屋だ! 宿屋の2階に入っていった!! 行けっ、行けーっ!!」
予想外の遭遇に、ルイナ達が思考を止めてしまっていると、壊れた窓の向こうより数々の怒声が聞こえてくる。
その声を聞き、その場でいち早く戸惑いより復活したのは、ミチであった。
「っ―――!」
―――その時、思考に費やされた時間は刹那であった。押し寄せる群衆の声を聞き、差し迫る判断の時を予感し、彼女は瞬時に視線を巡らせた。
視線を、侵入者たる彼女へ移す。
彼女―――ルイナがカリーナと呼ぶ女はどこか怪我をしている。身体も自由に動かせない様子からここへ至るまでで力を使い果たしてしまったのであろう。単なる疲労故なのか、それとも他に要因があるのか、それは見ている限りでは判断がつかない。
そして銀の髪であり、ルイナを知っている様子から考えるに、間違いなく吸血鬼。
―――こいつは殺すべき? 助けるべき? 見捨てるべき? その判断は未だつかない。
視線を、ルイナへ移す。
ルイナ―――彼女は呆然とその場に立っている。口を開け、ただ戸惑いの瞳を侵入者の彼女へ向けている。そこから見出させる感情は何であるのか。助けたい? ただ驚いているだけ? それとも追い返したい? その推測を確信へ至らせることも、未だ出来ない。
視線を、窓の外へ移す。
外―――ヒトだ。ミチのいる場所からでは眼下たる大通りを見ることは出来ないが、それでも聞こえてくる喧騒で分かる。ヒトが大勢、この宿の下へ集まってきている。
夜にしては不自然に通りが明るいのは、誰かが『輝ける陽光』を行使しているからであろう。聞こえてくる怒声の内容を聞くに、間違いなく彼らはこの部屋を目指してやって来る。そして町に現れた吸血鬼である彼女を殺しにやって来る。
―――その時、吸血鬼と関係ありそうな素振りを見せているルイナを彼らに見られるのは相当不味いのではないか?
陽光を浴びても砂にならないという一点で吸血鬼と疑われない彼女であるが、吸血鬼と関係があると見られればその免罪符を越え、彼女を吸血鬼、あるいはそれに与する者と断じる者が現れるやもしれない。その事態は、非常に宜しくない。
刹那の思考を経て、ミチの中で取るべき選択は2つに絞られた。侵入者たる彼女を、差し出すか守るか。
怒れるヒトへ彼女を差し出し、その後は無関係を貫く。ルイナへも下手な口出しをさせない。そうすれば同じ銀髪同士であっても彼女達の関係を疑う者はなく、今までと変わらずに自分達は旅を行なうことが出来る。
もしくは彼女を守るか。守ることによってその行為がバレた際、人間の忌敵たる吸血鬼を助けたとしてルイナはもとより自分さえも魔の者と疑われる。そうなれば今までのように旅をすることなど出来なくなるかもしれない。国やラサ教会に自分たちは罪人として登録され、大陸のどこにいても追われる身となっても、おかしくない。
そこまでの危険を、負うのか。負わなければいけないのか。負うべきなのか―――そこで思考が行き詰まる。それは今の彼女に判断できないことであった。
瞬間、彼女は思考の海より浮上し、ルイナの眼前へと回り込む。
「ルイナっ、答えなさい、重要なことよ!」
「み、ミチ、さん……?」
ミチはルイナの二の腕を掴み、首2つ分ほど低い位置より彼女の目をしかと見上げる。
その言葉の剣幕に、呆然と立ち尽くしていたルイナも彼女の瞳を見つめ返す。
「いい? 時間が無いからよく聞きなさい。あなたにとってこいつは、助けたいもの? それとも、死んでも構わないもの?」
「えっ、えと、あの―――っ、助け、たいです!」
ミチの問いに対し、ルイナは質問の意図が見えず戸惑いながらも、はっきりと答える。その答えは、選択の天秤を助ける方へ傾けるものであった。
「そう、分かったわ。じゃあもう1つ。こいつを助けるために母親探しを諦めることになっても、それは構わない?」
「えっ、あの―――……っ」
再度の問いに対して、ルイナは―――答えられない。
その2つを天秤にかけ、即座にどちらか切り捨てられるほどに彼女は冷酷でもなく、情に厚くもなかった。
「早く答えなさいっ、ルイナ!」
「うっ、っ―――っ……」
急かされ、問われ、されどもルイナは答えを出せない。黙り、呻き、それでも言葉は出てこない。
「―――そう、分かったわ」
そうして、ルイナの様子をじっと見つめていたミチは彼女の沈黙に答え、侵入者たる彼女のもとへと歩み寄る。
「どっちも選べないってんなら―――」
「がっ、ぐぅっ―――」
「み、ミチさんっ?!」
ミチは黒い外套へ手をかける。そしてそれを無理やり剥ぎ取り、中身たる彼女を地に転がす。
転がった拍子に傷が痛んだのか、低い呻き声が聞こえてくる。その様子を見て、ルイナも戸惑いに叫ぶ。
しかし、ミチはその2つともに無視を決め込む。吸血鬼を捨て置き、黒の外套を手に持ち、壊れた窓へと近づく。
「危険を承知でっ、やるしかないじゃない!」
即座に切り捨てられない程大事な存在であれば。
ルイナにとって守りたい者であれば。
やるしかない。選択は為されたのだ。ミチは危険を飲み込み、決断を吐き出す。
「やるわよ、ルイナっ! その吸血鬼を助ける為に、協力しなさい!」
「み、っ―――はいっ! お願いしますっ、ミチさん!」
こうして天秤はミチの手によって傾けられた。
正義は助けるに有りと、ミチは願い、その作戦を決行するのであった。




