57.夜を駆ける者
「はぁっ、はぁっ、はぁっ―――」
夜道を駆ける者がいる。敷き詰められた石畳に足音を響かせ、細い路地を一心不乱に走る。
漆黒の外套を頭より被り、体躯の特徴を外界に決して出さない者―――彼は彼ではなく、彼女であった。
彼女は地を鳴らし、風を裂き、夜闇に紛れてひた走る。その足を、決して止めてはならなかった。
背に迫る怒声、そして忌々しき光。それらに今一度追いつかれれば、彼女に訪れるのは確実な死である。
この追走劇には3通りの終幕が用意されている。追いつかれるか、撒くか、陽が昇るかである。その内2つは己の死を意味している。彼女に許される選択肢は唯1つ、朝が来るまでに追跡者達を撒き、行方を眩ませることである。
「はぁっ、ぐっ、ぅっ……はぁっ、はぁっ―――」
彼女の上げる息は、荒い。常であればこの程度の逃走、苦も無く撒けるはずであった。彼女の身体はヒトより強靭であり、ヒトより丈夫であり、ヒトより疾駆であるはずであった。
しかし今、それは覆る。彼女はヒトより脆弱であり、ヒトより虚弱であり、ヒトより鈍重であった。易々と撒けるはずの彼らに追われ、その距離は次第に縮まってきている。
何故か―――それは遁走の始まりに、彼女があの忌々しき光を浴びてしまったからに他ならなかった。
―――ヒュッ!
「……ぐっ! うっ―――」
走る彼女の背に、突如焼けるような痛みが走る。
何かが刺さった。恐らく、投擲武器に類する何かである。じくじくと痛み、筋肉の動きを阻害するそれを彼女は背中越しに抜く。抜くと、それは小指程の太さと長さを持つ針であった。
「つっ―――」
忌まわし気に一瞥すると、彼女はそれを打ち捨てる―――と、その直前、直感めいたものを感じ、彼女は針を鼻先へ持っていく。そして、走りながらで息が乱れる中、すんと先端を嗅ぐ。
「……っ…」
瞬間、彼女は目を見開く。己の背に何を刺され、何の侵入を許したかを察したのである。
その匂いに、彼女は覚えがあった。それは遠い過去、克服したはずのもの。しかし、今の我が身では克服できていないもの。
―――それは今の彼女に、致命的な害を与えるものであった。
―――チンッ!
「ぐぅっ、うっ―――」
彼女は呻く。針を投げ捨て、走りながら―――泣く。
こんなところで死んでいいはずがない! こんなところで殺されていいはずがない!
自分には、為さねばならないことがある。命に代えてでも為さねばならぬことがある!
ここまで来て何も為さず、何も為せず―――野垂れ死ぬことなど、許されない!
「―――<番いを探せ>っ」
故に彼女は唱える。古の言葉にて、対となるものを求める呪文を―――その先にいる、己が主の病を治してくれるだろう者を求めて。
「―――それで、今後どうするかなんだけど」
「はい」
キルヒ王国内、とある町の宿屋の一室にて。顔を向かい合わせにして話し合う2人の少女がいた。
腰元の長さまで銀の髪をなびかせている少女の名を、ルイナという。柔らかそうな赤茶色の髪を後ろで三つ編みに束ねている少女の名を、ミチという。
王都バザーにて冒険者登録を為し、半年の月日しか経たぬ新米冒険者である。しかし、誰もが彼女達を知っている。
『白銀と暴風』という詩がある。美しい容姿と圧倒的な力で魔を屠り、ヒトに対しての慈愛を持つ『白銀』と、その従者たる赤髪の魔術師『暴風』。彼女達を讃えた英雄譚は吟遊詩人達に好まれ、また冒険者達にも求められ、今宵も町の酒場で謡われる。その『白銀』とは即ちルイナのことであり、『暴風』とは即ちミチのことであった。
その詩が出来てよりしばらくの時が経つ。詩は王国全土に広まり、最早冒険者の中で彼女達の存在を知らぬ者はいない。実在する若き英雄達を、彼らは熱意を孕んだ視線で見やる。その視線を当の本人達―――正しくは、赤髪の方が忌々し気に睨み返しているのだが、注目が剥がれることはなかった。
―――さて、そんな2人であったが彼女達の旅は今、岐路を迎えている。半年の時を移動に当て、旅の供たる馬のテトを駆り立て、彼女達は見事王国全土を練り歩いたのであった。
勿論、全ての町村を回ったわけではない。宿もないような過疎の村には寄らず、ある程度大きい町に限定しての旅である。
彼女達の旅の目的は宿探しにある。より仔細に言えば、石造りの宿を経営しているであろうルイナの両親を探す旅である。そんな彼女達は今日、王国内最後の候補地であったこの町タンザハッタを来訪し、残念ながらこの町も空振りであったことを確認し、夜を迎えたのであった。
彼女達の目的地はキルヒ王国に無かった。即ち、今宵の彼女達の議題というのは―――
「次の国、神聖国か公国か、どっちにしようかしらね」
目の前の羊皮紙を眺めながら、ミチは悩まし気に声を上げる。その声にルイナも、『そうですねぇ…』と唸り返す。
そう、彼女達は王国より離れ、次たる目的地を隣国のどちらにするかを議論しているのであった。
隣国とは、ラサ教の信仰根深く教皇が国を治めるユーテル神聖国と、そして様々な部族が集合し、公家がそれらを纏めて治めるクォーツ公国の2国である。
もう1か国、この大陸にはガザ帝国という国があるのだが、それは南東に位置するここ、キルヒ王国とは正反対の北西にある。大陸の中心には人間種の踏破を許さぬ霊峰サドラ山が聳え立つ為、一直線に渡ることは出来ない。
故に、次の目的地はその2国に絞られることとなる。彼女達は何の手がかりもない状態でその2国より、どちらの方がより目的地に相応しいかを検討しなくてはならないのであった。
「―――今更だけど、あんたは自分の生まれ故郷の名前を覚えてないのよね?」
「はい、そうです」
羊皮紙に描かれた、縮尺がかなりいい加減な大陸地図を眺めながら、ミチはルイナに話を振る。
ルイナは故郷の名を知らない。それは記憶の欠如が原因ではなく、記憶の復元が不完全な為であった。
彼女が探す故郷とは、前世の自分が生まれ育った場所のことである。彼女は今生において吸血鬼として転生し、前世の記憶を持ちながら生まれた者―――であるはずだった。
しかし、彼女に前世の記憶はまるでなく、吸血鬼としての成人の年頃である12歳になり、ようやく思い出せるようになってきた。ただ、それもごく断片的である。決定的な何か―――例えば、土地の名前、宿の名前、親の名前等の情報は、未だまるで思い出せずにいる。
故に、手がかりは旅を始めた頃と変わらず。前世の自分が住んでいたのは石造りの宿である、というただ1点のみであった。
「んー、そうねぇ。全く手がかりが無い状態で、無理やり方向付けようとするのであれば……神聖国の方がいいかもしれないわね」
「そうなんですか?」
ミチの提言に、ルイナはその訳を聞く。
彼女に土地勘はない。半年の旅を終え、キルヒ王国についての知見は多少溜まったものの、それ以外の国となると全くの無知である。故に、ミチがどうしてそっちの国を推したのか、仔細を尋ねようと思ったのである。
「ん、あんまり大した理由じゃないんだけれど。神聖国と公国を比べると、生活水準が神聖国の方が高いわ。だから、石造りの宿の数そのものが多いと思うのよ」
「なるほど……」
ミチの説明に、ルイナは納得の声を上げる。
この半年、ひたすらに石造りの宿を探してきた彼女達は、そういった宿はある程度栄えている町にしかないことを知っていた。木造よりも石造の方が求められる建築技術が高く、技師や石材の集まりやすい都市部に多く見られた。
よって、生活水準が高いのであれば石造の宿も多くあるだろうというミチの推測は、間違っていないだろう。候補が多ければ多いほど、それだけ両親に会える可能性は高くなるとも考えられる。
「―――ただ、多いだろうからこそ、急ぎ足で行くと抜け漏れしちゃいそうっていうのが難点ね。逆に公国の方は数が少なさそうだから、ちゃちゃっと探し終えて候補の1国を潰せる。そうして早めに他の国を全部潰しておいて、後でゆっくり神聖国を探すっていうのも考え方としてありだと思うわ」
「う~ん、なるほど。それもそうかもしれませんね……」
ルイナは唸る。ミチの説明は納得できるものであり、それでいてどちらかの国へ意思決定為す程の、決定的な判断材料にはなり得なかった。
未だ、彼女の中で神聖国と公国の天秤は均衡保たれたままである。
「あとは、そうねぇ……国境を越えようとする道のりには差があるわね。直線距離で言えば2国とも大体同じくらい近いけど、この町から公国へ渡るには『大地の割れ目』を迂回して行かないといけないわ」
「……っ」
ミチの説明を聞いていたルイナは、突如として現れたその言葉に、身体をぴくりと震わせたのである。
『大地の割れ目』―――それは彼女の今生の故郷、吸血鬼の隠れ里ナトラサがある場所であり、彼女が追放された場所でもある。
苦い記憶が、塞がりつつある心の傷が―――蘇る。
迂回するべき場所であるから、故郷には近寄らないであろう。だがその瞬間、確かに彼女の心は公国行きより遠ざかったのであった。
未だあの土地に足を踏み入れるほど、彼女の傷は癒えていないのである。
そして、その一瞬の動揺をミチは見逃さなかった。彼女が動揺したのは『大地の割れ目』という名前を聞いたその瞬間であった。
その言葉が何故彼女に動揺をもたらしたのか、何故苦り切った表情を浮かべたのか、その訳を―――推測しようとして、止めた。
それは、詮無いことである。恐らく、これは考えないで上げた方がいい部類のものであると察したのだ。
―――つまりは、彼女の胸中では確信めいた正解がちらつくのであったが、知らないままでいた方がお互いの為であると思ったのだ。
―――吸血鬼が住む町の在処など、世に知られれば人間種が群を為して殲滅に乗り込むであろう。そんな虐殺の発端を、ルイナに背負わせるのは酷である。
いかに放逐された身であろうと、その故郷への感情が憎悪でないことは悟っている。故に、ミチは気づかぬふりと知らぬふりを演じるのであった。
「……ユーテル神聖国にしましょう」
「ええ、そうね。そうしましょ」
こうして、彼女達の往く道は決まった。
それは故郷を未だ恐れる少女の心と、彼女の心を気遣う少女の優しさでもって、意思決定されたのだった―――
―――バリィッ!!
しかし、その決定は覆される。
その原因となる者は彼女達の泊まる部屋の木窓を破る、けたたましい音と共にやって来たのであった―――




