54.駆け出し冒険者の非日常 ー夕方ー(前編)
「く、そぉっ!!」
ジャックは叫ぶ。汚く罵る。
理不尽な強さに、絶望的な状況に、無力である自分に、呪詛を吐く。
―――絶対絶命であった。
突如として現れたBランクの魔物、オーガが振るった力はあまりにも強大だった。
パーティ随一の強さを誇るトッドは地に伏し、パーティ随一の守りを誇るワンクスも撃退され、最早この場でまともに身動きが取れる者はジャック、彼1人であった。
彼は今、丸腰であった。会敵の瞬間に振られた棍棒、ワンクスに助けられたあの一撃は、しかし彼の剣をどこへともなく弾き飛ばしてしまっていた。
―――ただ、たとえ剣を持っていたとしても、彼には目の前の化け物と渡り合える想像が浮かばない。
Bランクの魔物なのだ。それを倒すにはBランクの冒険者6人―――人的損害を考慮しなければ、少なくとも3人以上の戦力が必要である。そんな化け物を相手取って、Eランクであるジャックには万に一つも勝てる要素は無い。
―――まさしく、必死である。彼には抗う手段も、抗う力もなく、その場に留まり続ければ訪れるのは確実な死のみであった。
「………っ」
―――逃げないと。
その考えが、ジャックの脳内を稲光のように走る。
留まれば死ぬ―――であれば、逃げれば死なない。生き延びれる。そんな単純な考えを、答えを、彼の頭は導き出したのだ。それはこの場で唯一、生還の可能性を内包した選択肢であった。
その閃きは脳より出でて脊髄を走り、やがて彼の足を奮い立たせ、逃走を行なわせるものだと思われた。打ち下ろされた逃走の欲求は、しかし足に届くよりも前、胸で相反するものとぶつかり合う。
それは心であった。感情が叫ぶ。1人で逃げ出すつもりなのか、と声高に問う。
この場において、歩みを進めてくるオーガを目の前に、負傷者2人を連れて逃げ出すことなど不可能。であれば逃げの一手とは、即ち自身だけの遁走。2人の仲間を置き去りにしての脱出―――それは、彼らを裏切る行為。
2人は自分の友人だ、仲間だ、一蓮托生の戦友だ。名を上げるのも死ぬのも一緒であると誓った。危機を庇いあい、喜びを分かち合うと契った。
トッド―――彼はいつも冷静に物事を見て、年齢に見合わぬ慎重さでもって様々な局面で手助けをしてくれた。柄でもない自分がリーダーを務めてここまで続けてこられたのは、彼の助けがあってこそだった。
ワンクス―――彼はいつも気が抜けててお調子者で、でも仲間の危機には一番に駆けつけて身を割り込ませる。ピンチな時ほど頼もしく、頼りがいのある、なくてはならない相棒だった。
そんな2人を―――自分を助けてくれた仲間を、置き去りにする? そんなこと、許されるはずがない!
ここにおいて、ジャックの理性と感情が真っ向から対立する。
答えは―――出せなかった。そもそも、彼に悩めるほどの時間は与えられていなかったのだ。
「ゲヘ、オマエ、カラ、ダア」
オーガが腕を伸ばす。伸ばした手の直線上には、ジャックの身体があった。
「―――あっ」
そして彼は、自分に残されていた僅かな選択肢の、生還の可能性が潰されたことを知ったのである。
視界いっぱいに広がる、巌のように固く大きな掌。最早その手中、逃れる術はない。彼の中での理性と感情の闘争は何ら意味を為さず、答えが見つからないままに彼はその人生を終わらせるのである。
―――ごめん。
最期に呟いた彼の言葉は、何に対してか、誰に対してか。それは複雑にして彼にすら明確な答えを見出せなかった。
―――そして、その時は訪れたのである。
「あんた達、悪く思わないでね……爆ぜよ―――<炎爆>!」
唐突に響く少女の声。それは気遣いの言葉と同時に、意味ある言葉を唱えた。
そして、ジャックとオーガの間―――今まさに彼を掴もうとしているオーガの掌中にて、爆発の力を内包する魔術が行使されたのだった。
―――ボオォンッ!
「うわああああ!!!」
「グワァッ!?」
ジャックは、突如目の前で起こった爆発に巻き込まれてしまう。近くに伏していたトッドとワンクス諸共その爆風に煽られ、地を転がる。
そして、オーガも手の先で起こった爆発に驚き、腕を引っ込めたのであった。
彼らは爆発により引き剥がされる―――かくして、ジャックは絶体絶命の危機より脱する事が出来たのだった。
「グワアッ、ダレ、ダア! ジャマ、ダア!!」
当然、オーガは怒る。食事の邪魔をした者を、彼の者は決して許さない。体の向きを変え、声の聞こえた方へと振り返る。
「魔物相手に名乗る名前は持ち合わせていないけど、ここはあえて言わせてもらおうかしら」
その先にいたのは、1人の少女。黒いローブと黒い三角帽子に身を包んだ、赤茶髪の幼い少女。意志の強そうな釣り目でもって、にかりと不敵に笑みを湛え、大胆不敵に仁王立つ。
「あたしが誰だろうと関係ないわ。ヒトを害するあんた達魔物の存在が気に入らない―――ただ、それだけよ!」
少女はそう言って、その手に持った杖をしゃなりと鳴らしてオーガに突きつけ、啖呵を切ってみせたのだった。
その場に突如として現れた赤茶髪の少女、彼女は杖の先端に巻きつけられた護符や木の実を鳴らしながら、佇むオーガの巨体へと杖と視線を突きつける。
その目に怯えはない。不敵に笑みを浮かべ、好戦的な瞳でもってオーガを睨む。とても、幼い少女がBランクの魔物相手に浮かべてよい表情ではなかった。
―――恐らく、彼女は知らないのだ、と少年は思った。
目の前の巨体がどれほど凶悪な存在なのかを。Aランクの冒険者であっても単身では太刀打ちできない、伝説級のSランクの冒険者になってやっと敵う、そんな化け物的な存在であることを。
「き、気を付けて! そいつはオーガって言って、Bランクの―――」
「うるさいわね、そんなこと知ってるわよ」
少年達の中で、唯一意識を保っていた彼が警告の声を上げるが、少女はそれに対してつまらなさそうに鼻を鳴らして応える。
「それじゃあルイナ、後は任せ―――って、えっ!? ちょっと、ルイナ! どこにいるのよ?!」
「ミ、ミチさん。こっちです、後ろです! ……ふぅ~、お待たせしましたっ!」
そして彼女は隣を見て、そこにいると思われた仲間の姿が見えず、焦り、慌てふためく。
そんな焦りの声に息を切らせながら応えたのは、その場へ更に姿を現した彼女の仲間―――銀髪の少女であった。
「遅いわよ! どうしてそんな遅れたのよ!?」
「だ、だってこれ、重かったんですよ……」
「重いって……あんた、スキルはどうしたのよ?」
「それが、どうやらギリギリ私の力で持てる重さだったみたいで……」
そう言って銀髪の少女は重そうに何かを掲げる。
「あっ、僕の剣―――」
それを目にして、少年は思わず呟きを漏らしてしまった。
そう、彼女がその手に握っているのはオーガとの会敵の瞬間、弾き飛ばされてしまっていた彼の鉄剣であった。
「……まあ、いいわ。それでさっさと終わ―――」
「グルゥウオォッ!!」
赤茶髪の少女がげんなりとした表情で応えていると、その声を遮る様にオーガが吼える。
その位置は既に少女達の目前。棍棒を振り上げ、巨体を活かし、高高度よりそれを振り下ろす。
―――破壊力を存分に帯びたその一撃の標的は、赤茶髪の少女であった。
「っ、風よ、風盾!」
赤茶髪の少女が迫る棍棒に気づき、慌てて詠唱を唱える。
『風盾』―――それは風初級の防御魔術である。矢を弾いたり剣筋を僅かに逸らしたり、あるいは炎魔術を掻き消したり、そんな用途に使われる魔術であった。
しかしそれは質量の高い物理攻撃や土魔術等を防ぐには相応しくない。今まさに振り下ろされる棍棒の、重量あるその一撃を往なすには能わない。しかし―――
「グ、ヌゥッ?!」
「っ―――」
圧縮空気を孕んだ半透明の盾が、オーガの振り下ろした棍棒を受け止め、少女の眼前で止まった。
オーガは驚愕に目を見張るが、なお渾身の力と自重をかけ棍棒を押し込もうとする。それに対して少女も忌々しそうに舌を打ちつつ、更に杖を振るって唱える。
「風よ、風礫!」
「グオォォッ?!」
少女が生み出した風初級魔術『風礫』が、半透明の盾に気を取られていたオーガの巨体を押し返す。オーガへたたらを踏ませ、距離を剥がした彼女は銀髪の少女を置いて後方へ飛び退る。
それを見て、銀髪の少女が慌てて振り返る。
「ご、ごめんなさいミチさん。何故かスキルが発動しなくて―――」
「別に。いいわよ、たぶんあたしのことしか狙ってなかったんだろうし。あぁ、でも加減間違えたわぁ……」
少女達は要領を得ない会話を交わす。Bランクの魔物という規格外の存在を間近に置きつつ、彼女達の交わす会話は今もって余裕すら見える。
「……まあ、いいわ。さっ、次はあんたの番よ―――今度は、殺しなさい」
「っ―――はい!」
しばしの間、不機嫌そうに顔を歪めていた赤茶髪の少女は頭を振り、しかと銀髪の少女を見据える。その強い視線と言葉を受け、銀髪の少女は首肯する。
そして彼女は手にした剣を斜に構え、オーガに面を向け相対する―――
「……え?」
―――その時、その場で怪訝な声が1つ上がる。
それは事の成り行きを見守っていた少年が思わず上げてしまった、戸惑いの声であった―――




