53.駆け出し冒険者の日常 ー夕方ー
「―――それで、どうするのよ。この状況」
「えっと……ど、どうしましょう……」
鬱蒼と茂る木々や草葉、それらが視界を遮る森の中。
多数のコボルトに取り囲まれ窮地に立たされた少女2人―――ミチとルイナは、しかし一方はげんなりとした声を上げ、一方は狼狽えの声を上げるのであった。
彼女達の声色に焦りはない。彼女達を囲んだコボルト達―――彼らは既に地に伏し、気を失っているのであった。
彼女達を襲ったコボルト達、彼らは何の成果も名誉も得られず、哀れにも地に倒れ伏した。
彼らは、遠くより物音を立てて歩いてくる獲物の気配を察し、身を潜めて待ち構えていた。
森の中、それは彼らにとって駆けるに容易い地であったが、ヒトにとってはそうではない。彼我の距離を十数歩分までに迫らせれば、逃げ出されたとしても捕らえることは容易である。
逃げるに難い距離に来るまで引きつけ、いざ獲物が狩場へ至るその時を待っていた。
やがて姿を現した獲物達は、いかにも力のなさそうな形の小さな者と、図体はでかいが呑気に頭上を眺めている者の2人であった。
力もない、警戒心もない、数も少ない、絶好の獲物であるそのヒト共が、自分達が身を潜めている方へ歩いてくる。ほくそ笑み、しかしまだ待つ。狩猟の距離であるその間合いへ引き寄せ、引きつけ―――今、至った!
彼らは潜んでいた草葉より身を現した。爪を鳴らし、牙を剥き出し、威嚇に喉をグルルと鳴らす。我慢の時は終わった、心躍る狩りの時間が始まったのである―――と、いうのが彼らの認識であった。
さて、彼らが抱いたそれらの認識には、3つの誤りがあった。
まず、彼らが獲物だと思っていたヒト2人―――彼女達は会敵よりも遥か前、言ってしまえば彼らが彼女達の存在に気づくよりも前から、彼らの存在を察していたのだった。
彼女達の立てる音を彼らが聞きつけるよりも先に、彼女達の中の1人は彼らの息遣いを遠くより聞き分けていたのだ。たかだがヒト族の数倍程度しか鋭くないコボルトの聴覚など、『長目飛耳』を有する規格外のそれに、遠く及ばないのである。
つまり、彼らは彼女達を襲ったのではない。彼女達に襲撃されたのであった。
そして2つ目に、彼女達に警戒心が無かったかというと、それもある意味誤りである。
頭上を見上げていた図体のでかい方、彼女は好き好んで緑生い茂る木々を見上げていたわけではない。
彼女は形の小さな方から命じられ、視線を上へとずらしていたのである。その眼が前方を―――彼らコボルト達の姿を捉えぬよう、あらぬ方へと目線を逸らしていたのだった。
彼らは敵意を剥き出し、爪牙をも剥き出しにしている。それを目にしたら、その図体のでかい方は一瞬で彼らを殲滅してしまう。
形の小さな者はそれを許さず、後方を尾けてくる少年達に彼らコボルトの姿を目視させ、その脅威を認識させ、そうして力を見せつけられる土台が出来るまで、力の発揮を禁止させていたのだった。
つまり、彼女達は全くの無警戒というわけではなかった。常に引き絞られた弓矢のようになっている図体のでかい方が、意図しない時機に跳んで行ってしまわないようにだけは警戒していたのであった。
そして最後に、彼女達を獲物だとする認識―――これは大いなる誤りであった。
形の小さな方より許可を受け、図体のでかい方が彼らへ視線を向ける。その眼光は鋭く、また喜々とした表情を浮かべていた。
それはまさしく、捕食者の眼光であった―――その視線に彼らの心は動揺したが、その動揺を自覚できたのも一瞬のことである。
次の瞬間、彼らの意識は途絶する。腹に、胸に、顔面に―――各々別の場所ではあったが、死を自覚する程重く激しい衝撃が身を襲い、痛みが脊髄を走り脳を貫く。もたらされた衝撃と痛覚でもって彼らの意識は一瞬で限界を迎え、暗転する。
その意識を失うまでの刹那の合間、彼らは見た。輪郭がぶれて見える程に疾く動き、白銀の髪をなびかせ杖を振るうヒトの姿を。そしてその眼に映る、喜びの色を。
こうして彼らは地に伏した。この場において獲物は彼女達ヒトではなく自分達の方であったことを明確に悟りながら、彼らは意識を失ったのであった。
そんなこんなで、彼女達は無事にコボルトの群れを無力化させたのであった。
本当は尾行してくる少年達にルイナの力を見せつける算段をミチはしていたのだが、それは叶わず。彼らはコボルトの群れを見た瞬間に踵を返して逃げ出してしまった。
まあ、それは確かに誤算ではあったが結果はむしろ良好である。ミチにとって、ルイナを注目の隠れ蓑とすることは手段の1つではあるが出来れば使いたくない部類の手法であった。
ルイナに注目が集まりすぎれば、必然的にその相方である自分も注目を受ける。名は広まり、容姿が噂されてしまえば、もしかすると件の者の耳に、自分の噂が届いてしまうかもしれない。
―――それは、避けなくてはならないことだ。ミチは此度の依頼においての懸念事項が無事に解消されたことに、安堵の息を吐いたのだった。
ルイナもまた、自分の力を意図して使えたことに喜びを、そしてミチの期待通りに自分が動けたことに嬉しさを感じ、満足の笑みを浮かべたのであった。
―――ところが。
そんな2人であったが、今その顔に浮かべる表情は芳しくない。それぞれ困惑と呆れの感情を露わにし、互いに悩める顔を見合わせる。
2人が悩む、その事由とは―――
「こいつらを殺さなくちゃいけない、のよね……」
「そう、ですね……」
2人は再び、苦々しく言葉を絞り出す。そして、重くため息を吐く。
そんな彼女達の前には、意識を失い倒れ伏しているコボルト達の身体が転がっていた。
―――今回、彼女達が受けた依頼はコボルトの討伐である。その依頼の達成は、彼らの右足首を持ち帰れば証明が可能である。
しかし証明とは別に、彼らを討伐したという事実なく証明部位を提出し、報酬を受け取ってしまえば、それは詐欺行為も同然である。
故に今、彼女達に求められている行動は彼らの殺処分である。
―――気絶し、無防備状態の彼らに止めを刺す。そんな容赦のない、虐殺行為である。
「……仕方、ないわね。ちょっと後味、悪そうだけど……」
ミチは悩みつつ、捻りだすように言葉を吐く。
彼女にとって、魔物とは悪である。
魔のものは人間種にとって敵であり、天敵であり、忌敵である。それらの存在を野放しにしておけば、喰われ苛まれるのは抗う術のない弱き者達である。
弱者を守るのはミチにとって使命である。故に彼女は悪を誅する冒険者を、旅の職業としたのである。
しかし今、その心意気を揺るがす事態が目の前で起こっている。彼らは、自分達にとってみれば圧倒的弱者なのであった。ルイナの杖の一撃でもって何の抵抗も、何のおっかなさもなく、彼らは地に沈んだ。
―――あまりにも呆気なかった為、心から彼らを敵だと断じれなかった。ルイナという暴風に攫われた、哀れな犬のような存在として感情が認識してしまいそうだった。
だが、その甘さをミチは頭を振って捨て去る。自分達にとっては弱者であっても、他人―――例えば、先の少年達が彼らと遭遇していれば、間違いなく少年達は殺られ、喰われていただろう。
一時の感情に流されるな。大局観を持って、峻厳な態度を以って、正しく処断しろ―――ミチは自戒の言葉を胸に抱き、ようやくその言葉を口にしたのだった。
「……うん、仕方ない。殺しましょう」
「えぇ、本当に、ですか……?」
その言葉を聞いて狼狽えたのは、ルイナであった。
―――彼女は今まで、吸血鬼もヒトも、多くを殺めてきた。
その度に痛む心はあったりなかったり忘れたり、そんなこんなの辛酸を多く経験してきたから、此度の討伐も、まあ何とかなるだろうと楽観して受けたのは事実である。
しかし、いざ目の前に殺す対象が転がり、それに手を下すのが自分の意思のみでしかないことに気づいた時、彼女は震えたのである。
彼女は自分の意思で他者を殺めたことがない。それはヒトであっても吸血鬼でもあっても、魔物や獣、家畜や虫、それら全ての生あるものを対象としても、彼女は何れも自らの意思で手を下したことがなかった。
―――怖かった。他者を殺す、という行為が。
不可抗力でもなく、必死の抗いによるものでもなく、無防備な相手をただ一方的に殺すという行為が、おぞましかった。生の重さ、死の冷たさを、自分の手の上で弄ぶような行為に身が竦んだ。
彼らを殺して私は何を得るんだろう?
―――それは、金貨1枚。それがあれば宿に泊まれるしミチも飢えない。
彼らを殺さなければ私は何を得るんだろう?
―――何も得られない。自分は彼らの前から去り、彼らは生き延びるだけ。
彼らを生かしておいたら私は何を損するんだろう?
―――何も損はしない。今後、自分の見知らぬヒトがもしかしたら犠牲になるかもしれないが、そんなこと、自分には関係ない。
彼らを殺したら私は何を損するんだろう?
―――心が損する。今もって胸の内にもやもやと浮かぶ気持ち悪い感情が、彼らを殺した瞬間、心の中で凝固し定着する。そんな確信が、ある。
ルイナの主観において、彼らを殺さないことへのメリット・デメリットは見いだせなかった。
―――であれば、彼らを殺すことによって得られるもの、失うものを天秤にかけ、結果傾いた方へとルイナは意思を固めるのであった。
「―――すみません、ミチさん。私は殺したく、ないです」
「……そう」
ルイナの主張に対し、ミチは短くそう応える。その声音は冷たく、とても不機嫌なものにルイナは思えた。
「あの、私―――こんな状態で殺すのって、嫌だっていうか、あの……」
「………」
「で、でも、だからってその……ミチさんに代わりに殺して欲しいとか、そんなことは思っていないんです。ただ、本当にこんなので命を奪うのって、何か、嫌で……」
「………」
「……で、でも。もし、ミチさんが……どうしても、ころ……殺した方がいいって言うのであれば、私、従い、ます……あっ、いや! ご、ごめんなさい! こんな、ミチさんに責任を押し付けるつもりなんて、全く、ないん……なかったんです、けど……」
「………」
「……っ、ごめんなさい。私は、やっぱり、殺したくないです……」
ルイナは語る。恐る恐る、しかし最後にはきっぱりと意見を言いきり、話を終える。
叱られるかもしれない、呆れられるかもしれない、信じられないと切り捨てられるかもしれない。しかし、彼女は否定の言葉もなしに自分の道徳観を捻じ曲げられなかった。
―――それは魔物に対しての恐怖、というものを持っていないことが要因なのかもしれない、と彼女は考えた。
自分は魔族として育てられ、魔物は下級のものであると教えられてきた。故に、魔物を恐怖の対象であると幼い頃から教え込まれるヒトとは、こういった機微のところですれ違ってしまうのかもしれない。そう、ルイナは思った。
しかし、それならそれで仕方がないと割り切れるし―――それに、彼女はヒトたらんと決めたのである。
よって、それは違うと。ヒトたるもの魔物を捨て置くことなど罷り成らぬとミチが断じるのであれば、そういうものかと心を切り替え、彼女は魔族としてではなく、ヒトとして魔を断つ。そんな覚悟を裏で控えさせ、彼女は話を終えたのである。
そして、それを聞くミチは黙っていた。瞼を閉じて、眉間に皺寄せ険しく悩む―――やがて、彼女の口から出てきたのは、特大のため息であった。
「はぁ……もう、いいわよ。あたしもあんまり気乗りしないし、今回だけはこいつらを見逃してやってもいいわよ」
「ほ、本当ですか?」
「ええ、ただし―――」
自分の主張に頷いてくれたことにルイナは喜色の表情を浮かべる。
しかし、それに対してミチはびしと指を突きつけるのであった。
「今回だけよ! 魔物を見逃すのは今回だけ。今回は、あたしも覚悟が足りなかったわ、反省する。でも、普通は無抵抗だろうが何だろうが殺さなくちゃいけないものなの。それを肝に銘じておきなさい」
「は、はいっ! 分かりました!」
「宜しい―――さて、じゃあ一回町に戻るわよ。こんな事態にならないよう、今後どうしたらいいか一度頭を冷やして考えてみましょ。それからもう一回、犬っころ退治に来るわよ」
「はい! ありがとうございます、ミチさん!」
「……なんでお礼なんて言われなくちゃいけないのよ」
「ふふ、何でもいいじゃないですか。さっ、帰りましょう、ミチさん!」
そうして2人は地に倒れるコボルト達を置き、元来た道を帰っていくのであった。
ルイナの甘さ、ミチの覚悟の足りなさと多少の甘さ。それらは此度、彼女達が鉢合わせたコボルト達の命を救ったのだった。
そして彼女達がコボルトの処分を行わなず、いち早く帰路についたが為に、それは聞こえたのだった。
『ウゥォォオオオッ!!』
『ジャック、あぶねぇっ!! ―――ぐぅぅっ!!』
『う、わあぁっ!?』
その悲鳴は帰路の先より微かに響き、進行方向に気を配っていたルイナの耳へと確かに届いたのであった。
彼女達は駆けつける。そこで目にしたものは、圧倒的巨体と怯える少年達、そして足元に転がるある物であった―――




