45.餞別は本当に、余計なもの
「嬢ちゃん―――本当に、良かったの」
「おじいさん……」
ルイナとミチが試験を終えた翌日―――無事に冒険者となったその日から、一夜明けて迎えた朝。
王都バザーの宿屋にて一泊を明かしたルイナとナートラは、宿屋の前にて別れの時を迎えていた。
昨日は―――とても、楽しかったと、ルイナは思う。
冒険者登録を祝福し、食べ飲み明かした。ルイナは、一応成人前であった為、飲酒を辞退したがナートラは大いに飲んだ。
彼は冒険者とは何たるか、今後注意しなくてはいけないこと、自分の失敗が周囲にも迷惑をかけると肝に銘じることなど、およそ冒険者としての心構えを説き、それでもやっぱり旅は楽しいもんじゃと締めくくって赤ら顔で豪快に笑った。
ルイナも、楽しそうに語るナートラにつられて、笑った。
ミチもその宴には参加しており、初めはルイナとナートラ、2人の話を聞くに徹していた彼女だったが、宴の途中から急にルイナに対し、あーだこーだとを抱き寄せ、よしよしと髪を撫でてあやし始める。
何やら様子が変だぞと、ルイナが疑いの目で辺りを見回すと、彼女の飲んでいるものがエールであったことに気づく。
大人だ―――ルイナはその時、お酒を飲むミチを初めて見たのであった。
しかし、その酔い方は酷いものであった。そうやって顔を真っ赤にしてルイナへ絡み始めたかと思えば、突然に顔を真っ青に染め、手洗い場へ駆け込んでしばらく戻ってこなかった。次に席へ戻ってきた時には、その顔は真っ白に変わっていた。
そのまま、部屋に戻ると気怠げな顔で言って、彼女は一足先に取っておいた宿の部屋に帰っていった―――ミチの新たな一面を垣間見たと、ルイナは唖然としながらも笑って、彼女の背を見送った。
そしてルイナはナートラへ、学校へ入学してからの話を語った。
上手くいかなかったこと、失敗したこと、落ち込んだこと、色々あったけどその度にナートラの言葉とミチの励ましに支えられ、何とか頑張ってこれたこと。
ほとんどの講習で褒められることはなかった自分も、毎日実践した甲斐あってか薬草の採集方法だけは講師に褒められ、自信が付いたこと。色々な話をした。
それらの話を、ナートラはよく聞き、頷き、相槌を打った。時々、良かったの、本当に良かったのと目尻を細め、優しくルイナを労わった。それにルイナも、瞳を潤ませ喜ぶのであった。
彼らは親子ではない。彼には別に息子がいるし、彼女には別に父がいる。
しかしこの時彼らが抱いていたものは、子を想う親心と親に甘える子供心に似たものであった。
ルイナは生まれて初めて、味のしない料理を囲んだ食事の時を、楽しいと思えたのだった―――それも、昨日の話である。
「本当に、ありがとうございました、おじいさん……おじいさんのおかげで私、お母さんを探しに行けるようになりました」
今日、彼女はナートラと別れる。彼との約束は、ルイナが旅立てるその時までの支えであった。今日がその、旅立ちの日である。
「―――うむ」
ナートラは頷く。その声に、不安や心配の感情は混じらない。
出会った時よりもしっかりした声、凛と張った背筋、少しはたくましくなった身体つき、そしてギルドの輩を見返してもぎ取った、Bランクという称号。
最早彼の前にいるのは幼気な少女ではない。己の足で歩けるようになった、冒険者である。
それらを彼女が手にするのに、彼が手助けしたことは少ない。全ては彼女が元々持っていたもの、もしくは彼女が努力して手に入れたものである。
彼が出来たことは唯一、その心を支えることだけである―――その役目も、最早彼の手から離れていった。
「この先はワシがおらんでも、嬢ちゃんはきっと大丈夫じゃ。あの娘さんと一緒に、これから頑張っていくんじゃぞ」
「……はいっ」
ルイナは精いっぱいに応える。ナートラの手より、その庇護下より完全に離れてしまうのが、怖い、寂しい、不安であった。
だが、そんなことばかり言っていても、仕方がないのである。彼は自分を信じて身を離そうとしてくれている、それが分かるからこそ、彼女は―――ナートラへ、手を伸ばす。
「っ、嬢ちゃん……?」
ナートラは彼女に手を取られてしまう。まさか、この場において引き留められるようとは。ナートラは狼狽えに表情を崩す。
しかし、ルイナはその皺まみれの手を握りながら―――熱を持った意志を視線に乗せ、ナートラを見つめる。
「おじいさん、本当にありがとうございました。これまでのご恩は、絶対忘れません―――なので、旅を終えたら、また会いに行きます。その時まで、どうか恩返しは待っていてください」
「……っ」
そして彼女はナートラの手を、強く握りしめる―――それは去る彼を引き留める手ではなかった。彼女がナートラを見る瞳は、固い訣別の意志を湛えていた。
その意志に気づいたナートラは、ぐっと真面目な表情を作り―――しかし、笑顔でもってルイナの手を握り返す。
「うむ―――うむっ、分かったわい! 嬢ちゃんが村に来る時を、楽しみにしておるぞい!」
「はいっ! 楽しみにしていて下さい!」
そうして彼女たちは固く握手を交わす。これがひと時の別れとなるも、今生の別れでないことを確かめ合い―――やがてルイナより、その手を離す。
こうして、彼女たちの―――ルイナの、別れと旅立ちの儀式は終わったのである。その後に訪れるのは、別れの時であった。
「……それでは、おじいさん。お元気で」
「ああ、嬢ちゃんもな―――おお、そうじゃ。嬢ちゃんに餞別を用意しておるんじゃった。忘れん内に、渡しておこうかの」
そう言ってナートラは背負い袋を下ろし、中を漁り出す。
―――そういえば、一度目の適性試験を受ける前、おじいさんがそんなこと言ってたなぁとルイナも思い出し、『回復する杖(仮)』以外にも贈り物を貰えることへの申し訳なさと、宝物が増えることへの期待感を抱くのであった。
「―――おお、あったあった、これじゃ。ほれ、嬢ちゃん。これをやる」
「わっ、綺麗―――えっと、イヤリング……ですか?」
ナートラが取り出したものは小指の先程度の大きさの装飾品であった。一粒の宝石と留め具で出来ているそれを、ルイナは吸血鬼としての母リリスフィーが耳に着けていた耳飾りと似ていると思い、ナートラへ問いかけたのであった。
「そうじゃ。まあ、装飾品はヒトの好き好きじゃて、着けるかどうかは嬢ちゃんに任せるが―――実はそれも魔道具なんじゃ」
「えっ、こ、これもですかっ!? ―――い、頂けませんっ、そんな高価なもの!」
ナートラの言を聞き、ルイナは手渡されたイヤリングを、慌ただしく突き返す。
この半年間、学校に通って少しは常識を学んだ彼女は、魔道具というものが非常に稀少であり、価値がそれはもう高いものであるということを知っていた。
既に貰った『回復する杖(仮)』は―――まあ、何ら効果をもたらさないものであるから気兼ねなく頂戴したままに出来るが、本来魔道具とはこのようにほいほいと受け取ってしまってよいものではない、というのが今の彼女の価値観であった。
しかし、差し戻されたそれを、ナートラは受け取ろうとしない。
「いや、いいんじゃ。ワシが持っておっても仕方がないし、そもそも貰い物での。売るには忍びなくて倉庫で眠らせておったものなんじゃ。じゃから、嬢ちゃんの役に立つのなら、その方がええ」
「は、はぁ……そう、ですか……」
そう言われつつも、ルイナは本当に貰ってよいのだろうかと頭を悩ませる。今まで受けた恩を少しも返せていない中、更なる恩を受けることは厚意に甘えすぎていないかと、彼女は表情を曇らせるのである。
だが、ナートラはそんな彼女の表情を見て、にかりと歯を見せ笑うのであった。
「まあ、そんな顔をせず、受け取っておくれ。それに贈っておいてなんじゃが―――実は、その魔道具が効果を発揮させたところを、一度も見たことがないんじゃ」
「え、えぇっ? そうなんですか?」
「うむ。ああ、じゃからと言って不良品というわけではないぞい。ワシには無用の長物じゃった、というだけじゃ。何せ、錬成されている魔石が特殊での。魔族が近くにおったら教えてくれるという効果をもって―――」
「ぶふぅっ!!」
ナートラの説明に、思わずルイナは吹き出してしまう。笑いが込み上げてきたからではない。驚きのあまり、肺の活動が乱れ、溢れ出んほどの空気が彼女の口から飛び出していったのであった。
「げほっ、げほっげほっ―――」
「ど、どうしたんじゃ、嬢ちゃん!?」
「けほっ―――んっ、い、いえ、大丈夫です、おじいさん。な、なんでもありません……」
突然の呼吸器官の反乱に咽たルイナは、涙目になりながらもナートラに応じる。
しかし、その心中は穏やかでなかった―――それも当然である。近くに魔族がいるかどうか教えてくれる魔道具、それを手に持っている彼女は魔族なのである。
「え、え~と、おじいさん。この魔道具、発動方法はどんなものなんですか?」
「ん? ああ、そうじゃったの。そのイヤリングを耳に着けて、『ルーヴァ』と唱えれば良い―――古代の言葉で、魔を示せの意味じゃな」
「は、はぁ……分かりました。ありがとうございます」
「うむ―――まあ、人里から離れなければ魔族なんぞ無縁じゃし、ワシが持っておっても持ち腐れにするだけじゃ。じゃから、お守りみたいなものじゃと思って、気軽に持って行ってくれるかの?」
「わ、分かりました……有難く、頂戴します」
絶対に使わないけど……、ルイナは心の中で一文追加したのであった。
ルイナの正体を明かしてしまう呪文、『魔を示せ』―――それは彼女の中で、禁句として定められたのであった。
「よっ、と―――ふぅ、これで良いかの」
そんなルイナの心中など露知らずナートラは、魔族にその生を翻弄されたルイナへ良い餞別を贈れたことに満足し、袋を背負い直したのだった。
「それじゃあの、嬢ちゃん―――達者での」
「はい、おじいさんも―――必ず、また会いに行きますね!」
「おお、会える日を、楽しみにしておるぞい! ―――そこの娘さんもっ、最後に顔を見せてはくれんかの!」
「えっ―――」
「っ……!」
ガタガタッ―――
ナートラの言に驚き、ルイナが後ろを振り返ると誰もおらず―――しかし、宿の戸が音を立てて揺れる。
しばしその戸を見ていると、やがて観念したように戸を押し開け、出てきたのはミチであった。
「……あたしがいるって、気づいてたんですか?」
「もちろんじゃて。これでも戦士じゃ、娘っこの気配を察することくらい、造作もないわい」
「―――失礼しました。邪魔をするつもりはなかったんですけど……」
「かっかっか、何、気にすることはないて。今日の主役は去るワシじゃなくて旅立つ嬢ちゃん達の方じゃからの。じゃから、呼んだんじゃ」
「はぁ、まあ、そういうことなら……」
快活に笑い声を上げるナートラに、ミチはばつの悪そうな顔を浮かべながらもルイナの傍へ寄る。
「立ち聞きしちゃってたわ。ごめんなさい」
「いえ、別に構わないですよ!」
聞かれても構わない話であったし、往来で立ち話をしていたのは自分たちである。殊勝に謝ってくるミチを、ルイナは快く許したのであった。
そして、そんなミチに対してナートラは腰を落とし、目線を合わせて話しかけるのであった。
「娘さん―――いや、ミチちゃんや。嬢ちゃんのこと、頼んだぞい」
「みっ…?! あっ、いや。コホンッ、ええ、任せて下さい、おじいさん。この子が『弱い』のは、知ってるつもりですから」
「そうかそうか―――うむ。それじゃあ、頼んだぞい、ミチちゃん」
「っ、っ…! は、はい……任せて、ください」
そうしてナートラは満足げに頷き、腰を上げる。そして、待たせておいた馬の下へと歩み寄る。
一方、ミチは奥歯で虫を噛み潰したように口元を引き攣らせ、それでも何とか笑顔の体を崩さなかった。ナートラの言葉の何が彼女の頬を引き攣らせたのか、詳しくは語るまい。
「ほいっ、と―――よしっ、それじゃあの。今度こそ、お別れじゃ」
そして馬へ跨ったナートラは、2人を見下ろす。
その顔は晴れやかであった。未練も失念も、もうない。語るべきは語り、贈るべきは贈り、託すべきは託した。後は去る、それだけである。
「おじいさん、ありがとうございましたっ! また、必ず会いましょう!」
「もちろんじゃとも! 2人とも、気をつけて旅をするんじゃぞ!」
「はいっ!」
「はい」
「うむ。それでは―――さらばじゃ!」
そうしてナートラは馬の腹を蹴り、道を駆けて行く。その道は、彼女達が進む道程とは交わらない―――
「さようならぁー!! ありがとうっ、ございましたぁー!!」
しかし、遠くのどこかで、いつかきっと交わる時が来る。後ろから聞こえてくる大きな声を聞いて彼はそれを確信し、その道を駆けて行くのだった。




