36.光陰如箭―光陰箭の如し―
1.体力測定(戦士推奨項目)
「それでは位置について―――よーい、はじめ!」
「……っ!」
ギルド職員の合図を聞き、ルイナは全力で走る。
次の笛が鳴るより前に反対側の壁に触れなければならない。彼女は単純な足の遅さにだけは自信があるので最初から全力疾走である。
「……っ!」
そして合図が鳴るより前に、壁に触れることが出来た。半年前には触れることすら出来なかった、その壁を。
彼女は自分の成長を確かに感じ、僅かにその口角を吊り上げるのであった。
―――ピィーッ!
「っ!」
笛が鳴る。その合図を聞いてルイナは元来た道をひた走り、反対の壁を目指す。
―――彼女は全力で走る、しかし遅い。
この試験において合図の間隔は徐々に短くなっていく。体力が尽き、速力が落ちたところと短くなった合図が交わり、それを過ぎたところで試験は終了となる。
今はまだ、何とか合図の前に壁へ触れることが叶っているが、見る限り彼女の走る様子に余裕はなく、すぐに疲れ果ててしまうだろう。試験監督である彼は脱落の時の近さを予感しつつ、笛を鳴らし続けた。
―――ピィーッ!
……おかしい。彼は笛を鳴らしながら、今起こっている事態に混乱していた。
既に笛を鳴らすこと70回を超えている。その間、徐々に合図の間隔は短くなっているのだが走る彼女は速度を落とさず、変わらず走り続けている。
決して狭くないこの試験場を、35往復もして息を切らしていない。その顔は必死な形相を浮かべているのだが、それは走るのに一生懸命なだけであって、走る苦しみに耐えている様子は全くない。
何が起こっている? 必死なふりをしているだけで、余裕をもって走っているのか? それとも―――彼は心の中で沸き起こる疑問の数々を抑えつけ、合図の笛を鳴らす。
―――ピィーッ!
「っ!」
合図の笛が鳴る寸前に、ルイナはその壁に触れる。
彼女の速力は落ちていない。走り始めた時より変わらない。しかし、合図の間隔が彼女の速力を上回ろうとしている。ルイナは触れた壁を突き飛ばすように押し、その反動をもって反対方向へ駆け出す。
―――だが、合図の間隔がこれ以上に短くなるのであれば、彼女に許された時間は残り1,2往復ほどである。今回の試験において、『全力を出す!』というモットーがある彼女にとってみれば、体力を残したまま体力測定を終えることは、我慢ならない。故に、彼女は走りながら試験監督に尋ねる。
「あのっ! スキルっ、使ってっ、いいっ、ですかっ?!」
「あ、えっと―――スキル、ですか。どうぞ使ってください」
問われた彼は、是と応じる。
試験においてスキルの使用は、むしろ推奨されている。それが先天的なものであっても後天的なものであっても、スキルとはその者にとっての力であることに違いはない。その力を取り除いた、手加減の力を測定することに何ら意味はない。ギルドにとって適性試験とは、その者が持つ能才を測るものなのであった。
よって、試験において優位に働くスキル―――例えば、体力測定では『風足』のような移動強化スキルや『強化』のような筋力向上スキルは使用を許されている。
そもそも、足の速さを上げても、肉体を強化しても減っていく体力は抑えられないのであるから、体力測定としての体裁は崩れない。
故に―――彼はスキルの使用を許可してしまったのであった。
「わっ、分かりっ、ました……ふぅ……」
そうして許可を得たルイナは、足を緩め―――やがて、ぴたりとその足を止めてしまった。そしてその場で深呼吸をする。
「………?」
これに対し、彼はますます混乱するのであった。スキルの使用は許可したが、足を止める許可は与えていない。
次の合図が鳴るまでに反対の壁に手をつけなければ、その時点で試験は終了となる―――いや、今回の成績に関して言えば、35往復もできれば推奨項目として多少の加点が認められる。
ここで体力測定を終わらせ、次からの試験への余力を残しておくのも1つの手ではあるのだが―――意図が掴み切れず、彼は首を傾げる。
「………」
しかしルイナは変わらず、ただその場に佇む。そしてただ目指すべき壁を見据える。
―――今こそ、ミチとの『秘密の特訓』の成果を出す時。ルイナは講習において発揮しなかった―――発揮させなかったその力を、今、開放する。
「っ―――!」
―――私は、そこに、いる……っ!
次の瞬間―――
「……っ!?」
音もなく、予備動作もなく、ルイナの姿が忽然と掻き消えた。
何が起こったのか、床が抜けて落ちてしまったのか、彼は目の前で起こった事態に混乱と焦りを抱きつつ、彼女が元いた場所へ駆け寄ろうとする。だが―――
「……あの。合図、もうそろそろじゃないでしょうか?」
「えっ?!」
彼にその声をかけた者、それは―――彼が注目していた場所とはかけ離れた場所、部屋の奥の壁に手をつき、困った顔を浮かべている、ルイナであった。
一体全体、何が起こっているのか、全く理解不能な事態の中、しかしその問いは彼の頭の中にわずかに残っていた理性、職務への忠実さを刺激し、彼に次の笛を鳴らさせたのであった。
―――ピィ~ヒュイッ!?
「…っ!!!??」
笛を鳴らした彼は、しかし笛を鳴らしている合間にまた姿を掻き消したルイナを見た―――いや、見失った。彼の驚きの声はそのまま笛を通り、間の抜けた音を鳴らす。
まさかと思い振り返り、反対側の壁を見るとそこにルイナが立っていた。
「―――ま、待って。待って下さい! ちょっと、少し待って下さい! 試験を一旦、中断します!」
「……? え~と、はい」
混乱をきたす余り、彼は制止の声を呼びかける。試験の最中、不測の事態が起これば試験監督の一任で試験を中断することも、中止することも可能である。それを彼は行ったのである。
「えー、ルイナさん。あなたが使ったスキルは何ですか?」
「え? あ、はい。光陰如箭です」
「えっ、はっ、あー……は?」
問われたルイナの答えに対し、試験監督の応えは言葉にならなかった。
『光陰如箭』、移動強化に類するスキルの内、最上位に位置する上級スキルである。彼が聞く限り、それを習得したのは過去の英雄たちと現代の傑物、帝国のS級冒険者ただ一人である―――故に『えっ?』なのである。
そして、上級スキルというのは習得できる者もごく僅か、過去においても現代においても、華々しい冒険譚に語られる英雄クラスの者達だけなのである―――故に『はっ?』なのである。
しかし、その『光陰如箭』を習得した冒険者の自伝ではこう語られていた。『箭は己で走らず。ただ弓に引き絞られ、目標に向かって飛ぶのみ。故に走らず、ただその地へ突き刺さる己を夢想するのみ』と。スキル発動の条件は静止状態であり、だからこそ彼女はあえて止まったのだと理解した―――故に『あー』なのである。
―――ただ、それらの情報を総合的に判断して、結果彼は事実を受け入れられず、理解不能の声を上げたのであった―――故に『は?』なのであった。
その後、体力測定の試験が再開されることはなかった。
試験監督の彼は目の前で再度、複数回にわたって『光陰如箭』を見させられ、彼女の言が真であると、少なくとも『風足』や『音無足』で誤魔化されたりしていないことを確認し、試験を終了させた。
―――『光陰如箭』は他の移動強化スキルと違い、体力を消費しない。それを彼女が使えるのであれば、最早体力測定は意味を為さない。それまでの測定においても、足の遅さはともかく疲労を感じさせなかった彼女に対して試験監督の彼は、惜しみなく羊皮紙に記すのだった。
『体力測定―――100点』




