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28.畏怖の瞳と侮蔑の声

 






「ぐっ、お、げぇえええええ……」


 ―――気持ち悪い。


 久しぶりに嗅いだ血の臭いは、相変わらずの腐臭を漂わせルイナの鼻孔を犯す。

 身体に、髪に、顔に鼻に口に、返り血が飛び散る。ルイナは堪えきれない嘔吐感に襲われ、胃の中身―――固形物は何もない、胃液だけをひたすらに吐き出す。


 視界が滲む。足が震える。身体の中身が、冷えて凍る。

 ―――寒い、気持ち悪い、頭が痛い。ルイナを襲う生理的嫌悪感は、身体に尋常ならざる異常をもたらし、やがて耐え切れず彼女はその場に崩れ落ちた。


「おえぇぇぇぇっ、う、うげっ、げぇぇぇぇっ……」


 密室の中でばらまかれた血の臭いは、いつまで経っても消えゆかない。

 それなのに、地に伏した死体からどんどんと血が溢れていく。血の臭いはその濃度を増していく。そしてルイナの意識を黒く塗り潰していく。


「な、なんだ…っ! いったい、何が起こったんだ?! ど、どうして……く、首が……」


 男衆の中でただ1人生き残った彼は、突然仲間が全員首なしの骸となったことに呆然し、動転し、戦慄したのであった。

 どれだけ目を凝らそうが、瞼を擦ろうが、瞬きを繰り返そうが、光景は変わらない―――目の前の光景は、現実なのである。


「お、お前、か…っ? お前が、やったのか?!」


 男は目の前にうずくまるルイナへ、問いただす。

 仲間の首が吹き飛んだ瞬間、彼女の姿がぶれて消えたのを彼は見逃さなかった。


「はぁっ、はぁっ……げほっ、げほげほっ! はぁっ……」


 ルイナはその声に答えない。応えられない。

 ただ、視界の端に映る白い杖―――彼女の杖に向かって、腕を伸ばす。


「……かえ、…してぇ……っ……」

「く、来るなっ、来るなぁっ!!」


 ルイナは、力なく手を伸ばす。その手は震え、ヒトを5人殺めた化け物のものとは、到底思えない。


 しかし、男はその深紅に染まった手を恐れる。後退あとずさり、その魔の手より逃れようとする。

 ―――だが、出口はルイナの背にあり、男の背後には壁があるのみであった。やがて男は壁際まで追い込まれると、腰に差した剣に手をかける。


「こ……、っ、このっ、化け物めっ…!」

「……やめ、て……もう、血は―――」


 ―――グシュッ! ブシャァァ―――


「がっ、ひゅっ―――!」

「見たく、な、い、うっ、げぇっ、げぇぇえっ…!」


 ルイナの身体は素早く動き、剣を抜き放った男の喉元を貫手にて刺し貫いた。血が溢れ、彼女の顔へと大量の血が降り注ぐ。


「げぇっ、げっ、ごっ、げっ、げぇぇっ―――」


 彼女はその場でえずき続ける。

 最早、胃の中に胃液すら残っていないのだ。吐きたいのに吐き出せない苦しみに、彼女は襲われる。


「ひゅぅっ、ひゅぅぅっ―――!」


 一方、即死とならなかった男も悲惨であった。

 貫かれた喉の焼けるような痛み、溢れ出ていく血が灼熱に思えるほどの全身の冷え、そしてどれだけ吸っても肺に空気が入っていかない苦しさ。

 ―――最早、生き残る術は残されていない。彼は残り僅かな余生の間、痛みと苦しさを存分に味わい続けるのである。


「ひゅっ、ひゅっ―――!」


 そして、その痛みを叫ぶことも出来ない。後悔を叫ぶことも出来ない。死を前に喚くことも出来ない。

 その甲高い音は彼の口からではなく、喉に空いた穴から出ていた。彼の口に、発声するための空気が送り込まれることは、二度とない。


「ひゅ………」


 ドシャァッ―――


 とうとう、彼の肺から全ての空気が漏れた。次第に彼の意識は暗く沈んでいき、もたれていた壁から滑り落ちていく。自分で作った血の海に身を投げ出し、やがて眼から光が失われていく―――彼は、死んだのである。


 カランッ―――


 力を失った彼の手より杖が転げ落ちる。血の海の上でもなお硬質な音を立て、床に落ちた。

 ルイナはそれを目で追い、拾い上げる。


「……おじい、さん……」


 彼女は手に取り、杖を胸に抱く―――それは紛れもなく、彼女が探していた杖―――ナートラから貰った大切な杖であった。


「……よかっ……た―――」


 ドシャァァッ―――


 ルイナは、その場に倒れる。

 杖を手に入れたことにより緊張の糸が切れてしまった。彼女は血の臭いによる苦しみに耐え兼ね、意識を手放したのである。


「……ぁっ」


 そして意識を失う寸前、ルイナは視線の先に茶髪の少女がいることに気が付いた。


 そこにルイナを心配してくれていた面影は、もうない。

 床に座り込み、口は震え、いつもは勝気に吊り上がっている目が委縮し、その表情には畏怖の感情が籠っていた。


 ―――あぁ。一緒だ。

 ルイナの意識が暗い所へ堕ちていく。その時に彼女はふと、ミチの表情に似た顔を以前にも見たなと思い出していたのであった。


 それは、自分を怖れるナトラサの民、そして父アーデルセンの表情であった。

 その顔と、ミチの今の顔が、重なって見えた。


「……もう、いいや……」


 そう呟き、ルイナは血の臭いも侮蔑の声も届かない、ひと時の微睡の中へ堕ちていった。


「……化け物め」


 しかし完全に意識を失う直前、彼女はその侮蔑こえを、確かに聞いたのであった。










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