2.飲血
その後アリスの身の回りや生活環境に大きな変化はなく、およそ一年の時が過ぎた。彼女は一か月後には12歳となり、吸血鬼としての第一成人を果たす時を迎えようとしていた。
「はぁ……」
彼女の吐く息はとてもとても重たい。用の無いときは自室に籠りきり。壁に背を預け体操座りをし、膝の合間に顔をうずめてため息を吐く。
この一年、彼女は血反吐を吐くような努力を続けたが―――文字通り、口に含んだ血を吐き出し続け、飲み込むことはついぞ出来なかった。それに合わせて魔術の練習も、スキル習得も、何もかもが出来なかった。
彼女が成人を迎えてすぐに控えているのは吸血鬼の第一成人としての初の務めである成人の儀である。成人の儀とは、吸血鬼という種族を守り続けていくのは自分たちだという意識を若人に持たせるために執り行うものであり、闘争の儀、血呑みの儀、選別の儀の3つの儀式を順に行う。
闘争の儀とは、大人が用意した仮想敵を相手取り、種族の誇りと存続をかけて戦い続ける本能を呼び起こす儀式である。血呑みの儀とは、新成人全員で同じ血を分かち飲み、同種族・同年代の絆を固く深く結ぶための儀式である。選別の儀とは、闘争の儀での動きを評価し、今後の街での役回りを決める儀式である。
―――これらの儀式を前に、そもそもろくに戦えない、血が飲めない、既に『無能』と評価されているアリスが苦悩しないわけがなかった。
今までは、吸血鬼の中で最強夫妻と謳われている吸血王と吸血妃の子であるから、いつかは芽が出るだろう、いつかは頭角を現すだろう、いつかは―――そう言われ続けていた。しかし、それも成人の儀という公衆の面前で、血も飲めず戦えもしないアリスを世間はどう評するだろうか。
『異端』―――古い言葉で『吸血ではない者』を意味する忌み名である。そう呼ばれる者がいると、アリスは両親から聞かされていた。吸血鬼でありながら仲間ではなく、異分子として扱われる者たち。
吸血鬼でありながら血が飲めないなど、異端中の異端である。成人の儀というハレの日で血が飲めないアリスを異端とする裁定が下されるのは、決して低い可能性の話ではなかった。
そんな状況に立たされたとして、アリスは精神的にも社会的にも立ち直ることが出来るだろうか?
「絶対に、無理……」
異端扱いされてしまったら、あの不味い血をどんな気持ちで飲む努力をすればいいのだろうか? 見限られ、諦められ、蔑まれた状態から、頑張って頑張って少しでも血が飲めるようになって。それで皆は喜んでくれるだろうか? 祝福し、輪の中に入れてくれるだろうか? 血呑みの儀で一緒の杯で飲み交わせなかった自分を―――?
その先を想像したアリスは、更に鬱屈とした気持ちに沈んでいくのであった。
鬱々とした気持ちになっているのは、何もアリスだけではなかった。
彼女の両親―――吸血王アーデルセンと吸血妃リリスフィーはいつまで経っても血が飲めない我が子を想い、困惑と不安が立ち込める霧の中を彷徨っていたのであった。
何か手はないのか、色々な血を試してみたがどれも娘の口には合わない。
何か手はないのか、色々な飲み方や食べ方を試みたが娘の喉を通らない。
何か手はないのか、色々、色々手はないのか、何か――――――
一か月後に迫った成人の儀を前に、彼らは更に方々へと手を尽くしていく。
「あれ……?」
成人の儀を直前に控えたある日、食卓についたアリスはいつもと様子が違う気がして周りをキョロキョロと見回す。しかしあるのはいつもと変わり映えのない部屋、装飾、料理―――そして『赤ワイン』の入ったボトル。
見たところの異常は感じられないが、それでも何かが違う。吸血鬼に生まれてこの方、感じたことのない感情がゆっくりと込み上げてくる。
苛立ちとも、焦燥感とも似ている、しかし嫌ではないこの心持ち―――これは、何?
「アリス」
「は、はい、父様」
最近は落ち込んだ表情しか浮かべていないアリスが珍しく落ち着きのない様子であった。父、アーデルセンはそれを窘めるべきか一瞬迷ったが、これから話す内容のことを優先させようと決めた。
「アリス、今日は試しに『これ』を飲んでみよ」
「試しに、ですか?」
「ああ、試しにだ」
アーデルセンはそう言って食卓に置いてあったワインボトルを手に取る。父のその言葉に、アリスは若干訝し気に首を傾ける。
料理に『赤ワイン』を混入させ、何とか食べられないかと画策するとき以外はこうして直接飲まされることはあった。しかし、父から『試しに』などという弱気な発言を聞いたことがなかった。いつもであれば、「今日飲めずとも本来飲めるのが是である。だからこそ、飲めないことを良しとするな」といった風に説教も付いてくるくらいだ。
食卓の様相がいつもと違う―――若干の違和感があるのに加え、父の不自然な言動。これは何かあると勘繰り、母、リリスフィーの顔を見るが彼女は神妙な顔をして頷くのみであり、詳細は教えてくれなかった。
「アリスよ、今からお前には不快な思いをさせるかもしれん。それは今までの『赤ワイン』と比べてもだ。それでもそれはお前のことを思ってのことだと、理解して欲しい。本来なら―――いや、これ以上の弁解は止そう」
……果たして父は、何をさせるつもりなのだろうか? 父のとても不穏当な発言のオンパレードに、アリスは徐々にそのワインボトルに危機感を覚え始めた。
どうやら疑いようもなく、今日の『赤ワイン』は特殊であり、それはアリスを今までの『赤ワイン』以上に不快にさせるものであるらしい。しかし―――アリスは最近の父、そして母の疲れ切った顔を知っている。そんな表情をさせているのは、果たして自分のせいなのである。
自分が原因であり、それを解決するために手を尽くしてくれる両親の想いには応えたい……そう思い、アリスは力強く頷いた。
「父様、私のことで父様のお心を煩わせてしまい、申し訳ございません。ですが、いつの日も、私の為と考えてくださっているのは知っております。ですから、今日ももちろん口をつけさせていただきます……飲める努力を致します」
「……うむ」
アリスの言葉に父は逡巡した後に頷き、そしてボトルのコルクを外した。そして。
ふわっ―――
「え……」
アリスの口から思わず戸惑いの声が漏れた。父がコルクを外した瞬間に漂ってきたこの臭い―――いや、匂い。完全に熟れた果実のように甘ったるい芳醇な香り、それは食卓である長テーブルをはさんで向かい側にあるはずなのに、すぐ目の前にあるかと錯覚するほどに濃厚な匂いを発していた。
ボトルの口からとくとくとグラスへと注がれていくのは、赤い液体―――その色味は朱に若干の黒が混じっている。間違いなく、血の色だ。
だけど、なんでだ、なんでだ。アリスは戸惑う。いつもと違う感覚に。いつもと違う展開に。
やがてグラスの4分の1ほど注がれたその赤い液体はグラスの中で空気と踊り、たまらない香りをアリスの鼻孔まで運んでくる。
アリスは理解した。先ほどの焦燥感、苛立ち、しかし嫌ではないこの感じ―――久しく感じたことのない、『食欲』の衝動であった。
「……これだ、無理をして飲もうとしなくて良い。これに比べればいつもお前に与えているものの方がどれだけ良いものか分かるはずだ」
そう言ってアーデルセンはアリスにグラスを差し出す。その顔がしかめられ、発した言葉もとても飲むのを薦めているようには聞こえないのだが、アリスは全く気が付かない。
目の前に差し出されたグラス、そして中の赤い液体―――それに彼女の全神経は集中していたのだった。
「…………」
アリスは無言でグラスを持ち上げる。逃げてしまわないか、壊れてしまわないか、消えてしまわないか。目の前の『これ』を求めるあまり、失ってしまう可能性がないか確認する。
しかし、今やグラスは彼女の手中にある。『これ』は『私のもの』だ。
「あ、あ……」
緊張で閉ざされていた口が、グラスに近づき開いていく。その口からは意味を持たない声が漏れていた。そして口はグラスと触れ合い、中の赤い液体が唇を伝って喉の奥へ―――
ゴクッ―――
飲んだ。
喉が鳴る。赤い液体がグラスからアリスの口の中へと消えていき、ゴクゴクと喉から音が鳴る。
(ああぁ、あああぁぁ、あああぁぁ……)
アリスは今までに感じたことがない多幸感を味わっていた。舌が、喉が、胃が、脳が―――全身が甘く柔らかい感覚に包まれ、心地よい痺れが背筋を通る。
(ああぁぁぁ、あぁぁ、死んで、しまう、ああぁぁぁ……)
その時、アリスは果てた。幸せな刺激が脳を貫き、さらに押し上げ、彼女の意識は解放された。柔らかい外套に包まれ、天へとゆっくりと昇っていく、そんな多幸感を味わっていた。
「あぁ……」
しかし、その幸せな時間も終わりを迎えた。グラスの中の赤い液体を全て飲み干し、彼女の意識は現実の彼女の身体へと戻ってきたのだった。
「あ……」
だが、同時に別のことにアリスは気が付いた。今のは紛れもなく、血であった。それを自分は飲めた。
成人の儀、共に飲む血呑みの儀、果たせぬ儀式、つま弾きにされる自分―――そんな未来が、今、潰えたのだ。
「や、やった! やりましたよ、飲めましたよ私! ねえ、父様、母様!!」
齢11歳にしてようやく『血』が飲めるようになり、大輪の笑顔を咲かせるアリス。
「―――よくやった、アリス。素晴らしいことだ!」
「え、ええ、そうねアリス、おめでとう……」
しかし彼女は気づけなかった。
その赤い液体を飲み干した彼女を見て、呆然としていた父の顔と引き攣っていた母の顔に―――