1.無能の吸血鬼
「はぁ……」
アリスは自室の窓辺に立ち、眼下に広がるナトラサの街を眺め、大きくため息を吐いた。
彼女の視線から見える家々の明かりの中、ほかの吸血鬼の家族たちが美味しそうに『赤ワイン』を傾けながら談笑している様子を見て、彼女の心は底なし沼のように鬱々としたものになっていく。
「どうしてあんなに不味いものが飲めるんだろう?」
『赤ワイン』、それはナトラサの街で飼われているヒト族の血のこと。アリスにはあのどろどろして生臭くて舌がうぇ~となる感覚がとても耐えられない。それはもう、頑張ればどうにかなるというレベルを超えている。口が、舌が、胃が受け付けてくれない、言ってしまえば全身全霊をもって拒絶したい味。
それを皆は飲んでいる、それもすごく美味しそうに。
皆がおかしいのか? いや、そうではないことをアリスは知っていた。
「私だけが、おっかしいんだ~」
アリスは少しでも気持ちが上向くように、リズムをつけて自嘲してみる。しかし気持ちは晴れない。ますます情けない気になってくる。
コンコンッ―――
すると、唐突に窓が2回ほど軽い音を鳴らして揺れる。アリスが長窓の上の方を見やると、屋根の上から伸びてきた腕が窓を開けてくれと指示しているところだった。
アリスは溜まっていた息を軽く鼻から出してから、窓を開けた。そして開けられた窓目掛けて、屋根の上からひょいと飛び移ってきたのは一人の少年だった。
「アリス姫、ご機嫌麗しゅう」
少年はアリスへの挨拶とともに窓の桟枠から部屋に降り立ち、その場で礼をしてみせた。端正な顔立ちと、軽く中腰になり腕と背を曲げる貴族流の礼が様になっているその出で立ちを見て、しかしアリスは詰まらなさそうにじっと目と唇を細めた。
「これはこれはグーネル公爵家のところの好色嫡男様でいらっしゃいませんか。お帰りになられる部屋か、お泊りになられる部屋をお間違えではございませんか?」
「好色とはこれまたお厳しい。私が心に決めた方は貴方様ただ御一人だというのに」
「親同士が決めた許嫁だからといって遠慮することはございませんわ。あなたが別の女に同じことを言っていたとしても、私は全く気にしませんもの」
「……全く?」
「ええ、全くこれっぽちも。心の一欠けらさえも動じずに祝福の言葉を送ってあげられるほどに」
「……そこまで言われると、さすがにへこむよ」
それまで礼をしたまま大仰な口調で語っていた彼は、唐突にその口調を崩す。それと同時に礼も解き、たははと後ろ髪をぽりぽりと掻き出した。
「どうしたのアリス、今日は随分と不機嫌じゃない」
「今日がその……赤ワインの日だったの…」
「あー、そっか。それは大変だったね」
少年の口調につられるよう、アリスも口調を崩す。これが本来の彼と彼女の話し方と距離感である。先ほどの会話は、ほんの戯れであった。
「それで、今日は何しに来たの?」
「うん、実は僕昨日までちょっと遠出しててさ。それでアリスにお土産を持ってきたんだ」
そう言うと少年は、空のままアリスへ手を指し伸ばした。
「……わぁっ」
しかし次の瞬間、何もなかったはずの彼の手には二輪の白い花が摘ままれていた。
アリスはそれが自分に差し出されているのだと気づくと、その花に恐る恐る手を伸ばし受け取った。
「実は渓谷の外まで連れて行って貰えたんだ。そしたら花が咲いているのを見つけてさ―――この街、花なんて咲かないだろ? アリスにも見せたいなって思って」
「……ありがとう、カネル。花なんて、初めて貰った気がする。
可愛い、それにいい匂い―――」
アリスは匂いに誘われるがままに、花に顔を近づけゆっくりと息を吸った―――この年中冷たく暗い街では嗅げない、暖かい風のような匂いを感じた。
「……それにしてもカネル、外に出してもらえるようになったんだね」
「あ、うん。魔素の扱いと魔素量でお墨付きを貰えたから、狩猟隊の見習い扱いで外に連れて行ってもらえたんだ」
少年―――カネルはそう言って、興奮した様子で外での出来事を語り始めた。渓谷の外の様子、渓谷から離れたところにある森林地帯、そこで見つけた獲物と戦闘したこと。獲物に対して自分がいかに優勢に立ち振る舞えたか、そして隊の先輩たちに筋が良いと褒められたこと。しかし、自分がまだ大人たちに遠く及ばない実力しか持っていないと自覚出来たこと。
それらを聞いた上でアリスは、『それでもカネルはすごいわよ』と称賛したのだった。彼はアリスが持っていない―――生涯持てないであろう『吸血鬼としての力』を大人たちに認められたのだから。
ナトラサの街を出るには、街の外でも生きていける力と知識を示さねばならない。半人前と認められれば一人前の随伴として、一人前と認められれば単独でそれぞれ街の外に出る許可を与えられる。
知識の方はそれほど難しい壁ではないのだが―――力の方の壁が高く、半人前と認められる平均年齢は15歳である。それにも関わらず、アリスと同じ10歳にして街の外に出ても良いと認められたカネルは破格の早さであった。
吸血鬼において力とは即ち、魔素の変換効率と許容量の二項が肝要とされている。
魔素の変換効率については、より少ない魔素で魔術の行使や肉体強化を行えることであったり、消費量はそのままに魔術やスキルの恩恵を大きくしたりすることを指す。修行や訓練を通してもこの魔素変換効率は変わらず、コスト優先であるかパフォーマンス優先であるかは個人の生まれ持った才能に左右されている。
また魔素の許容量について、吸血鬼は飲血を行うことにより自身の保有許容量以上に魔素を取り込んだ際、緩やかにではあるがその許容量が増えていく。一度に大量の魔素を取り入れても許容量の伸びは変わらない為、単純に言えば吸血鬼歴が長いと魔素量が多い、という図式になる。
しかしこの許容量の伸びというのも個人の素質に左右されるものであり、例えばここにいるカネルが10歳にして『半人前』の平均値たる15歳相当の魔素を保有することもある。
そしてこの二項を重要項目とし、あとは知識として若干の政治的な絡みや吸血鬼としての意識など細かい確認が取れれば、娯楽が無い、景色の変わり映えが無い、つまらないナトラサの街から外へ出ることが出来るのだ。
カネルは吸血鬼に生まれて10年、より強力な能力の行使を目指しての訓練と毎日飲血によっての魔素補充をし続けた結果、半人前としてようやく街の外への外出許可を得られたのだった。長年の努力が実を結んだこともあって、彼の喜びは口から出て留まることを知らない。
一方、アリスは半人前どころか論外である。
魔素の許容量については血を摂取していないことから生まれた時から全く増えていない。例として挙げると、そこで喜々とした表情を浮かべているカネル―――彼が生まれた時と現段階の魔素許容量を比較すると五倍の差がある。
同種族内でも生まれた時の許容量に若干差はあるがそれは誤差といっていい範囲である―――つまりはアリスとカネルの間には、およそ五倍もの許容量の差があるといっても過言ではない。
そして最も致命的な問題が魔素の変換効率である。この項に関して、ナトラサにいる吸血鬼内でアリスの『左』に出るものはいない。
アリスは飲血や吸血による魔素許容量増加をさせていないものの、身体そのものは吸血鬼である為、その身に宿る魔素は他の魔族や人間種とは比べ物にならない程ある。その為、身体を構成する為の魔素を若干削っての力の行使というのは本来何の問題にならないはずだった。
―――そう、はずだった。
彼女が世界で最も簡単な魔術―――人間種の魔術師でも使える一般的な魔術を行使しようとした時、魔術は不発に終わりなおかつ、彼女は顔を真っ青にして倒れてしまった。
いくら許容量が生後増えていないとしてもこんな簡単な魔術くらいなら10や20は打てる。そう信じていた両親は彼女が倒れた原因を魔術ではなく突発性の病気だと推測し、大慌てで医者に見せたのだがそこで衝撃の事実を知ることとなる。
アリスの魔素保有量が生命の危機に及ぶ限界量を下回っていたのだ。
これを聞いた両親―――及び、後から状態を聞かされたアリスは愕然とした。吸血鬼が身体を保たせるためにおおよそ必要な魔素保有量は、生まれた時の魔素許容量を基準にしておおよそ半分である。これを吸血鬼内では『限界量』と呼ぶ。しかし、これは生と死の狭間を行き交う水準での話になってしまう為、通常の話で言えば限界量より少し加減し、3分の2を下回らないように注意するというの常識であった。
それが一発の―――それも最も初級の魔術を普通の威力で行使しただけで限界量という危険域を通り過ぎ、生命の危機に及ぶ重体となってしまったのだ。そして更に恐ろしいことに、魔術が不発に終わったのは身体の自己防衛機能が働いた為であり、もし仮に行使できてしまっていた場合より多くの魔素を消耗していたこととなり、恐らく彼女は死んでいただろうと医者が判断したことである。
これが意味することは、彼女の魔素変換効率が想定よりも恐ろしく低い(しかも少なくとも並みの吸血鬼の10~20倍という水準で)ということだった。そしてそれは『血が飲めない』という彼女の性質と相まって、彼女を『無能の吸血鬼』と評する要因となったのだった。
『無能の吸血鬼』アリス―――彼女にちょっとした転機が訪れたのは、それから一年後のことであった。