124.あなたも、ころさないと、いけないん、だから
「……、…っぐ―――」
目を覚ましてすぐ、後頭部を襲う鈍痛に低く悲鳴を上げ、彼はその場で身じろいだ。
なんだ、何があった―――彼は自身の寝ている場所が路地裏の小道であることを見て悟り、頭を振った。
確か―――そうだ。自分は件の『異端』を目撃し、追跡した。そしてこの場所で捕らえ、異端審問官の名のもとに尋問していた。そうであったはずだ。
それから―――それから、どうした? 思い出せない。確か、変な小娘が任務を邪魔してきたような気がする。そして、異端審問官の記章を見せようと思い至ったところで、記憶が黒く塗りつぶされている。
……何が起こった? 彼は未だに痛む頭を手で押さえ、呻きながら身を起こす。
「あ、起きちゃったんですね」
軽やかな女の声が聞こえる。彼は聞き覚えのないその声にびくりと一度体を震わせ、聞こえてきた方へと顔を向ける。
女が1人、そこにいた。純白の装束を纏った線の細い形の者―――薄暗がりの路地裏に、似つかわしくない出で立ちの娘であった。
「―――おい、娘。そこで何をしている?」
彼は訊ねる。娘の傍に同僚が伏していた。距離にして十数歩先の路地に倒れたままの彼は、先からぴくりとも動かない。恐らく、先までの自分と同じく気を失っているのだろうと察した。
そしてその同僚の胸元辺りに少女が手を伸ばしていた。意識がないのを見越して物盗りか―――そう推測した故、彼の声音と視線には威圧と棘が多分に含まれていた。
「…? 何って―――」
一方、圧を当てられたはずの少女は穏やかに手を引き戻す。その顔には罪悪感も動揺も見られない。もし物盗りであれば大した演技力である。それとも、単に自分達を介抱しようとしてくれていただけなのだろうか? 判断はつかない。
「……いや、まあいい。それよりも―――」
そう。それよりも、である。
気を失う前まで対峙していた少女。彼女はどこへ行ったのだろうか。自分はどれほどの間、気を失っていたのだろうか。分からない。
それに、自分が追っていた『異端』の姿もここにはない―――奴は動けるような状態ではなかったことから、なるほど、邪魔をしてきたあの娘が連れて行ったと考えるに易い。
果たして、あの娘の行ないが自分たちの正体を知った上でのことであるのか判断はつかないが―――『異端』に味方する者は誰であろうと『異端』である。今すぐ追いかけてあの娘にも『異端』の烙印を捺さねばならない―――と、己が役目を思い出し、彼が地に腕をついて立ち上がろうとした時である。
「ああ、動かないでください」
白衣の少女が、彼の目の前に忽然と姿を現わす。音もなく、予備動作もなく、瞬きする前までは確かに十数歩先の地にいた少女が、刹那の間隙に彼へと迫る。
「……?」
それはあまりに速すぎる接近であった。故に少女の出現は未だ彼にとって認識の外である。
しかしふと、急に覆いかぶさってきた影の存在に気づき、訝しんだ彼が天を見上げたその時には……もう、全てが遅かったのである。
「ぐっ、げ―――!!」
ゆっくりと伸びてきた手が彼の首に絡みついたかと思うと、次の瞬間、信じられないほどの圧が喉を締め付けてくる。奥に残っていた息が微かに漏れ出た後、彼の喉は何物をも通さぬほどに塞がれてしまう。
「あなたも殺さないといけないんですから。大人しくしていてください」
そして聞こえてくるのは涼やかな声。目の前に映る表情は慈愛に溢れる微笑。まるで子をあやす母親のように、そこから覗ける感情はひたすらに穏やかなものであった。
それでも、喉を締め付けてくるそれは怪力。明確な殺意が圧と一緒に伝わり、彼は必死にそれに抗う。
異端審問官―――ラサ教会きっての武闘派である彼らである。鍛錬を積み、戦法を学び、自身を護る術も知っているはずの彼である。
しかし、まったく、歯が立たない。身体を捩ろうとしても、指を引きはがそうとしても、身体を押し込もうとしても。何をしても少女は動じない。
動かない。離れない。剥がせない。
「っ―――! っ、っ―――!!!」
目に映るこの細腕のどこにっ、どうしてっ、これだけの怪力が宿るっ!? 彼は薄れゆく思考の中で不条理と、抗えぬ絶望に憤慨する。
首筋に力を入れ、せめて血流だけでも確保しようと足掻くが無駄である。力を入れた分だけ絞まる力も増していく。
抗えない―――絶対に抗えない。絶望の黒が視界を段々と染めていく。それでも救いを求め、手を動かす。必死に、暴れる。腰に帯びていた剣の柄を握るも、既に手の先に力が入らず。手より滑り落ちていった剣の重みが、彼をますます絶望へと追い込んでいく。
それでも彼は暴れる。もがく。抗って、足掻く。手の先が死に触れたように、凍えて冷たく感じようとも―――彼は少女を殴り、押し返し、全力で抵抗した。
やがて彼の指先が何かを掴んだ。それが何であるのかも分からないまま、彼はそれをひたすらに押して抗う。引いて抗う。それが己の救いになると、縋って、信じて。
しかし、それは抵抗の合間に曝け出された、ただの、娘の髪であった。引こうが、娘はびくとも動じない。痛みも嫌悪感もその顔に映さず、ただ、ただ、微笑んでいた。
「ありがとうございました。あなたたちのおかげで1ついいことがありました。本当に、ありがとうございます」
対して、白い少女は笑みを浮かべて何事かを言う。
「でも、あなたはわるいひとだから―――」
スッと、少女の顔から何かが剥がれた気がした。
それが何なのか、彼にはもはや考えることすら出来ない。
黒く染まる。視界も、思考も、世界も、何もかも―――
「しんで」
そしてブツッと変な音が聞こえたのを最後に、彼の意識は永遠に失われたのだった。
「ミチさん、お待たせしました!」
「っ、遅いわよ、ルイナ! 早く来なさいっ!」
小道へと続く入り口。そこでルイナの帰りを待っていたミチは焦りを表し、思わず声を荒立ててしまう。しかし、自身が発してしまった声の大きさを自覚し、口を噤んで周囲を見渡す。
往来を行く人々は、ミチの声に振り返ることなく道を往く。ひとまず安堵のため息を吐き出しながら、ミチは愛馬テトへ跨る。
「…さっさと町を出るわよ。今ならあたし達の正体がバレずに済むかもしれないんだから」
「分かりました、ミチさん」
そうしてルイナもテトの背に乗る―――常より狭い背である。ルイナはミチの前に載せられている荷物を見て、口を開く。
「起きませんか?」
「…そうね」
ミチは応えながら、目の前に晒されている2色の髪にふと気がついて、自身が被っていた帽子を少年へ被らせる。
「このまま置いていくわけにもいかないし、連れていくしかないわ」
「…そうですね。分かりました」
言いながら、ルイナはミチの腰に手を添える。手綱を握るのはミチであり、それに掴まるのがルイナの常であった。
「もう忘れ物はないわね?」
「はい、もう大丈夫です」
「そう―――なら、お願いテト」
そうしてミチが囁くようにテトの耳元で言うと、彼は一度小さく嘶いて駆け出す。
『魔術師ジュレー』のいる町トンイル―――複雑な思いを抱きつつも此度、ミチは町を去ることを決意したのであった。