122.灰色の町トンイル
センセンの町を発って、十日が過ぎた。
「ミチさん、とうとう着きましたね」
ルイナは焦げ付くような暑さを注ぐ陽光に目を細めながら、感慨深げに呟いた。
―――センセンの町から街道をしばらく歩き、途中で道を外れてぶつかった山脈を超えた先。彼女達を出迎えたのは灰色の砂丘であった。
見渡す限りの灰色の景色の中、時折砂に埋もれた遺跡の痕が見えるもそこにヒトの気配はない。ルイナが集中して中の様子を覗くと、中にいるのは魔物や獣の類であることが多かった。
昼間の砂丘の暑さを嫌って夜行性であることの多い彼らであるが、それでも時たま遺跡より顔を出し唸りをあげてくるものもいる。
しかし、害意を僅かにでも見せたが最期、彼らは『見敵必殺』に排除される運命にあり、旅路のちょっとした障害にもなりはしない。ルイナ達の旅路は常と同じく、いたって平穏なものであった。
むしろこの地を行くにあたって、最大の障害は砂であった。この地の砂と蹄の相性が悪く、テトが常に脚の裏を気にするような素振りを見せていた。速さも小走り程度しか出せず、鞍も常とは違う揺れを尻へと伝える。
それ故か、ミチがつらそうに腰に手を押し当て、ぐりぐりやっていた。それを見てルイナはそういうものかと思い、自身も腰に手を当ててみたのだが、そこから返ってくるつらさは微塵もなかった。
そしてこの地を舞う灰色の砂塵は、髪や睫毛によく絡んだ。まとわりつく砂を嫌ってミチが帽子を目深に被り、三つ編みの後ろ毛も全てしまい込んでいたのを見て、ルイナも倣ってフードを被ることにしたのである。
彼女自身は砂がどれほど舞い上がってこようと別段不快に思わなかったのだが、時たますれ違うヒト達も皆思い思いの方法で髪や顔を隠していたのを見てやはり、そういうものかと思うのであった。
そんなこんなで砂丘をひたすらに進み、やがて見えてきたのは赤や黄色が目立つ煉瓦造りの街並み。陸の孤島、年中灰色まみれの町トンイル―――そこにとうとう辿り着いたのであった。門をくぐって町へと踏み入れ、彼女達は大通りを歩き始める。
「…それにしても、すごいヒトですね」
そしてすれ違うヒトとぶつからないように気をつけながら、ルイナは背のミチに向かって感嘆の声を投げかける。
近くに街道はなく、辺り一面砂まみれ。砂丘の周りも山に囲まれており、極めて辺鄙な土地柄である。正しく、陸の孤島と形容せずにはいられぬ町であった。
それにも関わらず、町は賑やかであった。道を行きかう荷車や人通りの数は街道沿いの町センセンにも勝り、ともすれば広さこそ比べるまでもないものの、キルヒ王国の王都バザーに匹敵するのではないかとルイナは感じた。
さて。街道から遠く離れたこの町が、どうしてこれほどまでに栄えているのか―――それはこの地の特異性に由来する。
この地の名前を『ラサ砂丘』という。そして、この地へ無限に敷かれた砂こそその昔、人間種を絶滅の危機に追いやり、最後にはラーの奇跡によって砂と化した吸血鬼たちの成れの果てであった。
吸血鬼たちの死骸ともいえる灰色の砂。それは風に舞うものの周囲の山を越えられず、幾百年と経った今もなおこの地に留まり続けていた。これら灰色の砂の上では作物は育たず、水も溜まらず地の底へ沈んでしまう。特段舞った砂を飲み込んで悪影響を及ぼすことはなかったが、およそヒトが生きるに易しくない土地である。
しかし、それでもラサ教信者はこの地をラーが最初に奇跡を起こした聖地として崇めた。遠くに住む者は数年に一度、近くに住む者は数カ月に一度のペースで巡礼に訪れる場所となったのである。
そうしてヒトの出入りが生まれれば討伐・護衛など依頼が生まれ、冒険者が集う。冒険者が集まれば消耗品や装備品などの需要が生まれ、商人が集う。商人が集まれば物流が生まれて物が集まる。物が集まれば生活の基盤が築かれ、ヒトも集まる。
この地が聖地となって数百年。住まうに能わなかった土地は多くの需要に迫られて日進月歩、住環境が整えられてきた。
そして今、トンイルはクォーツ公国内でも有数の地方都市となった。周囲の環境から街道を引くこと自体は諦められてはいるものの、ヒトの出入りは日で数百人規模となっている。勿論、町に住むヒトや冒険者の数も多い。
―――と、そんな事情を知りもしないルイナは目の前を行き交う往来の多さに目を見開き、ただただ驚いた素振りをしてみせるのだった。
しかし、それもほんの僅かな間のことである。上げた感嘆に応じる声がなく、疑問に思って振り返ってみると、そこにいたのは自分の声に反応することもなく、辺りをきょろきょろと見回しているミチの姿であった。
「………」
ルイナは刹那の間、無表情を世に晒す。しかし、一瞬のうちに微笑を作ってから、朗らかに口を開いたのであった。
「ミチさん―――お父さんを探しているんですか?」
その問いに対しての答えはすぐに得られた。
びくりと跳ねる肩。まるでいけないことを咎められた子供のような顔をしたミチに対して、ルイナはますます口角を上げ、目を細めるように努めたのであった。
―――どうしよう。
時は若干遡る。ミチは、ともすれば大仰に吐き出しそうになる息を飲み込みながら、それでも道を歩んでいた。
父がいるとの情報を聞きつけ、センセンの町を発ってから十日が経つ。その間、常に彼女は『父に会って本当に良いのか』と自問自答を続けてきた。
今まで生きてきた19年の中で、父の存在を心から求めた瞬間は多くある。そして、その求めが叶えられたことは一度としてなかった。
その度、傷ついてきたのは自分であり、母であった。古き日の彼女は、いつの日か自分や母を救ってくれる存在として父を夢想し、夢の中でそれに甘え、涙とともに目覚める時を過ごしていた。
しかしいつしか、それは変わった。
願えど叶わず。呼べど来ず。求めど祈りは砕けるのみ―――そう。ある日、彼女は悟ったのだった。父は、自分達を捨てたのだと。
自分達を見捨てた父など頼るものか。彼女は父に縋ることをやめ、夢の中での父は罵倒を浴びせる存在に変わっていった。起きた時の涙はなくなったが、かわりに怒りで散らす物が増えてしまった。
そして更に時は流れ―――ミチは大人になった。大人とはつまり、自制のことである。
居ない存在に腹を立てても仕方がない。この世にいない存在に何かを求めたって仕方がない―――そう、ミチは父を亡き者と思うことにしたのであった。
本当は自分達を捨てるつもりなどなかったが、どうしても帰れぬ事情が出来て―――そう、それは例えば不慮の事故で死んだことが望ましい。そうして父は自分達を思いながらに死んでいき、自分達は不幸にも遺されてしまっただけなのだと。そう、腑に落とすことに決めたのであった。
その考えは至極、理にかなっていた。その考えが正であると証明することは出来ないが、同時に誰にも否定できない。その考えが事実であると思い込むだけで、彼女は前を向くことが出来たのであった。
自分は見捨てられた子ではない。
自分は不必要とされた子ではない。
自分はこの世にいて良い子であるのだ、と。
そうして盤石な礎を手に入れて、彼女はそこから成長を遂げる。更なる大人へ、更なる彼女自身へ―――それはつい最近まで築かれてきた、確かな彼女の自己同一性であった。
―――ただ、本人がその考えを事実であると強く求めていただけに、その妄想を否定できる事態があることを想定できていなかったのである。
父の生存。ただ1つ、これを知らされただけで彼女の中での礎が揺らいだ……父を前にして、自分は自分のままでいられるのだろうか?
……会わない方が良いのではないかと、弱気になっている自分の背こそ押したくなる。
それでも彼女は歩みを進めてしまった。何故か?
旅立つ理由、旅の理由。それらを自ら口にした事実が引き綱となって、腕と首と足を縛り、彼女をこの地まで引き連れてきてしまったのであった。
「………」
彼女は辺りを見回す。噂に聞くラサ教の一大聖地、ラサ砂丘のただ中にある町トンイル―――多くのヒトが行き交う町である。賑やかな声が耳に多く届くが、そのどれもが言語化されずに流れていく。
この人だかりの中に、父がいるのだろうか? 自身の父というくらいだからきっと、柔らかそうな赤い髪をしているのだろう。それ以外の特徴を、実はよく知らない。
自然と視線が赤いものを追ってしまう。赤い鞄、赤い食べ物、赤いターバン、赤い髪の毛―――はっと見つけたその髪を目で追うと女性のもので、ほっと胸をなでおろす自分がいた。
……ちぐはぐであった。自身の行動のどれに本心があるのか分からぬまま、彼女はそれでも目が勝手に動くのを止められなかった。
「ミチさん―――お父さんを探しているんですか?」
「……っ」
そんな折、突然ルイナに問われてミチは僅かに肩を揺らしてしまう。未だ定められぬ心を見透かされ、立場を決めろと責められた気がした―――そんなはずはないと、分かっていながらに。
「―――そうよ」
何とか、平静を装って答える。
だって、そもそもそれ以外の答えはあり得ないのだ。ここへ来たのは父に会うため以外の目的はなく、ルイナには自身の母親捜しを中断してもらってまで付き合ってもらっているのだから……
会いたくないと言っていいはずがない。思っていいはずがない。―――と考えながら、ふとルイナを言い訳に使っている自分に気づく。
どうしたいのか。どうしたらいいのか。決めきれない自分に苛立つものの、その苛立ちをバネにしてどちらにも背を押せない自分の不甲斐なさに、彼女は再び鼻の奥でため息を漏らすのであった。
「そうですよね! ミチさん、頑張ってお父さんを見つけましょうね!」
一方で、目の前のルイナは笑顔の花を咲かせ、道を歩き始める。いかにも彼女らしからぬ大仰な笑顔であったが、それがなおもミチの心をささくれ立たせる。
陰気な感情を自分が表に出してしまっていることは理解している。心の底から母親に会いたがっているルイナからすれば、せっかく父の足取りが掴めたにも関わらず喜びもしない自分の様子から、その心境の端を捉えることは容易だっただろう。
励ましてくれていることは分かっている。あの時、吸血鬼の街へ向かっている最中に彼女へしてきたように、彼女もまた憂いてくれているんだと、分かっている。
それでも、今しばらくは時が欲しいと願ってしまう。足は勝手に進むのに、目は勝手に赤を追うのに。
覚悟か、踏ん切りか。それがつくまでは、父と会いたくないと彼女は願ったのだった―――
「―――! ―――っ、――!」
「ん?」
そうして願ったからか。それとも彼女の意識がそれを求めたからか。どんな理由にしろミチの耳へ、かすかに聞こえてくる音があった。
雑踏の音に紛れ、おかしな声が聞こえた気がした。ふとミチは足を止め、往来の中で首を動かす。手綱をひかれ歩いていたテトも主に合わせて足を止め、前足で地を掻いて首を振る。
見渡す限りではおかしな様子は見当たらない。道行く者も、むしろ往来の真っただ中で足を止めたミチ達をこそ奇異の目で見てくる。
気のせいだったのかしら……? ミチはそれでも違和感を拭い切れず視線を動かし、最後にルイナの顔を見上げて悟った。
「……なるほどね」
ルイナの視線の先を追いかけ、通りの脇に伸びる路地を見る。
「ルイナ、何か変な声が聞こえた気がするんだけど」
「えっ、あ……はい。そうですね、私にも聞こえています」
言葉を選ぶようにルイナは応える。表情には戸惑いらしきものが浮かべられていた―――耳の良いルイナのことである、そちらの方向で起こった何かを既に察しているに違いない。そしてそれが良からぬものであることをミチはルイナの声音より見抜いた。
通りの端へ歩み寄り、路地の入口に立ってみる。往来の喧騒に負けて聞こえにくいが、耳をすませば微かに聞こえる。何かが叩きつけられるような音、がなり立てられる怒声、たまに上がる苦悶の悲鳴―――
「行くわよ、ルイナ」
「えっ……はい、ミチさん」
先までとはうってかわって、ミチは足取り確かに路地へと入っていく。その眼には先までの迷いはない。
何が起こっているのかは分からない。ただ、黙って見過ごすことは決して出来ない。これが今の彼女の生き方であり、生きる理由でもある。それは先まで彼女を悩ませていた父とは関係のない―――関係ないはずの、彼女の矜持であった。
そうしてテトをその場で待たせ、ミチは細い路地裏を進むのであった。後に続く者の戸惑いを気にも留めず、迷いなくその歩みを進めていく。




