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121.わたし、とっても、いいこ、だから

 



 浮かぶ月は雲に覆われて、足元までを照らしてくれない。夜の帳が落ちた町を、酒気を振りまきながら歩く男がいた。


 勝手知ったる道である。酒に酔えど、多少暗がりの道を行くに問題はない。今宵も酒で腹を満たし、陽気なままに家へ向かう。食欲を満たした彼は、瞼を襲う睡眠欲に抗いながら帰路を行く。


「はぁ~……ん?」


 空へ荒々しく息を吐きだした彼は、しかしふと、視界の端に奇妙な女の背を捉えて、立ち止まっては首を傾けた。


 脇の小道。暗さが籠るその道に、1人で歩く少女が見える。暗がりでよく見えぬが、身を覆う衣服が季節に似合わず薄手であるように男は感じた。


 そんな女が手に何も持たず、俯き加減にふらふらと歩いているのだ。酔った頭なりに彼は関心を持ち、脇道の入り口に寄って立った。


「―――、―――」


 近づいてみると、何事か呟いているのが聞こえてくる。その声は囁きに近く杳として聞こえない。ただ、やはり遠目で見た時の違和感通り、彼女が着ているものは部屋着あるいは寝間着のような、非常に薄い衣服であった。息が白む季節はまだ来ていないとはいえ、出歩くにしてはあまりにも不自然である。


「……」


 男は誘われるように小道へと入る。細かな道理など考えられぬ。ただ、薄衣の裾より伸びる肢体を見て、彼の喉は静かに鳴った。


「―――だめ、―――てる…」


 少女の足取りは遅い。酔った彼の歩みでさえも、十数秒ほどで追いつくほどに。そして、これだけ近づいても少女の呟きの全貌は掴めない。


 そもそも、男の関心は既に声へ向けられてはいない。腰まで伸びる艶やかな髪、すらりと伸びる肢体の美しさ、どこを見ても傷や汚れ1つない肌。男は先ほどまでとは違う、別の欲求が昂ってくるのを感じた。


「…お嬢さん、こんな夜分にどうしたね?」


 それでも彼は自制する。如何に滾ろうとも倫理観が欲求を押しとどめる。彼は社会を生きる個であり、彼女もまた同様の個である。酔った頭であれ、根付いた社会性が彼の情動を鎮めていくのであった。


「―――だめ、これも、いき―――……」


 しかし彼の声に応えはない。少女は変わらずふらふらと歩き、どこへなりとも行ってしまいそうである。聞こえてくる言葉もやはり断片的であり、それは誰かに向かって語られているというよりも、ただ何となく呟かれているもののように聞こえる。


 彼は少女が酔っている可能性に思い至った。酩酊し、着の身着のまま外へ出てしまい、彷徨っているのではないかと察したのである。


 それであれば話は早い。彼女を保護するのは倫理観に基づく行為である。そうして彼の情動を抑える理性が、ほんの少し削られたのである。


 彼は赤ら顔に愛想笑いを浮かべ、朗らかに声をかける。そして少女の前に回り込んで、更に話しかけようとしたところで、息を呑む。


 美しい―――彼は女を褒める言葉を多くは知らなかったが、その中でも最上級の言葉が漏れ出るのを止められなかった。


 整った目鼻立ち、伏目がちな瞼から伸びる長い睫毛まつげと小ぶりな唇。月が雲に隠れた薄暗がりの中でさえも、確信できる美の極致。年のころは成人後の16か17といったところか―――熟れの未だない、可憐さと美しさを両立した、魅力的な容姿。


 思わず、手を伸ばしてしまった。もはや頭に籠る熱は酒故のものではない。ただでさえ薄く削り取られていた彼の倫理観や理性は、圧倒的な美の前に砕かれたのであった。


「……あ」


 ただ、男には少女へ触れるつもりはなかったのである。ただ、手を伸ばしたかっただけなのだ。夜闇に浮かぶ美を前に、夢幻でも見ている気がして、届けば霞むものであると思い込んでいたのだ。


 だが、男の手は確かに少女に触れてしまった。それは胸元に軽く触れただけのものであったが、男は指先に衣服の薄さとその先にある膨らみ、そしてそこから込みあがってくる己の熱を感じたのであった。


「………」


 少女が立ち止まる。自身の胸元に触れている手から視線をゆっくりと動かし、目の前に立つ彼の顔を見上げる。


 真紅の瞳。男は夜闇の中でも存在感を放つその眼から、目が離せなくなってしまう。


 すぅ―――と、少女が息を小さく吸う。そんな些細な音でさえも、少女の口が奏でていると知れば魅力的に感じる。男は既に、虜であった。


「あなたは―――わるい、ひと?」


 そうして少女の口が奏でた音は、男の背筋に衝撃を走らせる。


 震える声音であった。しかし恐怖ではない―――期待するような熱、縋るような弱さ、それらを確かに感じる、蠱惑的な声であった。


 瞬間、男は少女が何を求めているのかを察した。昂る情動が彼の身体を滾らせる。


「……どういうことだい?」


 しかし訊ねる。男が見ている者は未だ夢の向こうの存在である。己が手が触れているのは今だけで、吹けば飛ぶような幻やもしれない。


 それを確信に変えるべく男は問うた。そしてそれに対する少女の答えは―――


「あなたは、わたしから、うばってくれるひと?」


 事ここにいたり、男は確信した。少女は奪ってくれる者を探していたのだと。


 震える声音が、縋るような眼差しが、期待するようにつぐんだ唇が―――己の情を正義のものへと変えた。


「……そうだよ、お嬢さん。君が望むのなら、私は奪ってあげてもいい」


 そうして欲望と一緒に曝け出されたのは自己顕示欲と、ほんの少しの嗜虐心。どちらが求める側で、どちらが叶える側なのか。行為においての優位がどちらにあるのか問うべく、男は少女の髪へ手を伸ばしながら言った。


「―――よかった」


 対して、少女は安堵の表情を浮かべる。


 やがて抱かれることを望むように腕を伸ばしてくる。男は動かず、ただ抱擁を迎えるべく腕を広げ―――







「―――ゲ、ェッ…!?」


 そして奇妙に喉を鳴らした。


「わたし、あなたみたいなひとを、さがしていたの」


 何かを少女が言っている。だが、それへ応えたり訳を問うたり、出来る状況に男はなかった。


 首が絞められている。少女の両手に絞めつけられ、息を吐くことも吸うことも出来ない。


 心臓と脳を繋ぐ血管が圧迫され、急激に視界が白んでいく。痺れるほどに冷たく感じる指先で、少女の手を振りほどこうと必死に抵抗するが、指一本すら引きはがせない。


 それどころか、自身の足が宙に浮いている感覚さえする。下を向くことすら出来ない彼にはそれが錯覚なのか現実なのかの判断もつけられないが、現に彼の足は地を離れている。少女1人の細腕で、大の大人が持ち上げられているのだ。


「あなたみたいに、ころしていいひと。ああ、よかった。ほんとうに、ありがとう」


 何かを少女が言っている。その言葉の意味を、意識が霞んでいく男には理解できなかったけれど、自分にとても不都合なことを言っていることだけはその表情から理解できた。


 満面の笑み。男はその笑顔を視界に焼き付けながら―――やがて意識を手放した。









 一陣の風が、衣の裾を撫でていく。誰もが動きを無くした路地裏の中で、やがて手のひらは開かれた。


「………」


 ドサッと、重たい音が微かに響く。いつしか表情を失くしていた少女は息を深くまで吸い込み、やがて雲の切れ目から姿を現した月を見上げてから、ゆっくりと息を吐きだしていく。


 吐き出しながら、視線を地面の方へと動かしていく。そこにあるのは、物言わぬ躯が1つだけ。


「……あは」


 少女の顔に、笑みが戻る。


「よかった、よかった! しんだのが、わるいひとでよかった!」


 少女は笑う。笑いながら、震える両手を腹に押し当てる。


「よかった! だいじょうぶ、わたしは、うしなわない。だいじょうぶ! だいじょうぶ!」


 あはは、あははと笑いながら、少女は来た道を戻っていく。足取りは、男と会う前よりもしっかりとしたものになっていた。


 しかし、かじかんだ手がいつまで経っても温まらない。摩っても摩っても、いつまで経っても震えは止まらない。



























 明くる朝。


「……ん?」


 一夜を過ごし、トンイルの町へ向かうべく宿の外へ出たミチは、通りに集まる人だかりを目にするのであった。


 彼らは細い道の奥を覗き、何事かひそひそと囁き合っている。そしてひしめき合う彼らの間を、屈強な男たちが割って入り、小道と通りをせわしなく行き来している。見慣れぬ腕章をしているが恐らくこの国、あるいはこの地方での自警団であろうとミチは察した。


「何かあったのかしらね?」

「どうやら、ヒトが1人死んでいるみたいですね」


 関心を寄せ、近づいていこうとするミチの隣から声が聞こえる。彼女の隣にいるのはもちろん、旅の供であるルイナであった。


 ミチはルイナの顔を一瞬見やり、それから群がる野次馬を見た。ルイナは『長目飛耳』でもって彼らの話している内容―――あるいは、その奥で現場検証している自警団の声を聞いたのだろう。となると、この場で最も情報を聞くに易く、また確度が見込めるのは彼女において他にいない。


「事件なの?」

「いえ、どうやら酔っぱらい同士の喧嘩みたいです」

「そう」


 それを聞いて、ミチは怒らせかけた肩を撫でおろした。弱者が一方的に嬲られたわけではないのならそれでいい。自分の出る幕はないと悟り、ミチはテトを引く手に再び力を込めた。


「行くわよ、ルイナ」

「あ、はい! ミチさん」


 そうして彼女達は町を去る。




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