小話『なんでもない一日』
「ん……」
微睡みの瞼の向こうで、薄い光がカーテンのように揺れ動く。
聞こえてくるのは、チチチと歌う小鳥のさえずり。
さらさらと流れる風の息吹。
通りを歩く人々の活気。そして―――
「おはようございます、ミチさん」
「…んー……おはよ、ルイナ」
近くからは、友の声。
瞼を開くと銀の髪と真紅の双眸。この世で初めて持った同性の友ルイナの、綺麗な顔。
―――朝だ。窓の桟から光が零れ、宙をところどころ白に染める。
「……ふぁ~、くぅ……」
口を開いて欠伸を吐き出す。目尻に溜まった涙を手の甲で拭いて、起き抜けの身体をう~んと伸ばす。
赤髪の魔術師ミチ、彼女は朝が相当弱い。
外で野営をしていたり、周囲に気の抜けない相手がいたりすればその限りではない。ただ、こうして気心知れた者と宿に泊まる分には気が緩む。そうなると、生来の朝寝坊気質が表へ出てくるのであった。
今も瞼をこすりベッドの上で身を起こしたものの、目が半分も開いていない。視界も思考もぼんやりさせたまま、彼女はしばらくの時をそのまま過ごす。
「………。……起きるか」
やがて、ぼそりと呟く。
そのまま微睡みと覚醒の間を彷徨い続けたい気も沸く。だが、ぼやけた視界の中、銀の影がちらちらと活動しているのを眺めていたら、自分ばかり寝ぼけてはいられないと理性が働き始める。
「……ん!」
彼女は気合を入れて瞼を開き、ベッドからえいやっと身を下ろした。
そして気合いそのままに床を歩き、姿見の前まで歩く……ただ残念なことに気合いが保たれたのはそこまでである。
鏡に映った生意気そうな顔と、好き勝手にあちこちへ手を伸ばしている赤毛―――見慣れたそれらを見てミチは、気合いを鼻からひゅるひゅると吐き出すのであった。
就寝前にどれだけ梳いてもこれである。彼女の髪質は芯の柔らかい、くせっ毛であった。母のような長くて綺麗な髪に憧れ伸ばしてきたものの、自分の髪質では伸ばせど下に落ちず先が浮いてきてしまう。
さらさらと流れるような髪になりたいのに、この憎たらしい赤毛は房ごとゴワゴワ揺れるように蠢く。ああ、髪質もまだ見ぬ父に似てしまったのだ。恨まずにはいられない。
……とまあ、しかし生まれ持ったものであるので仕方がない。彼女は嘆息しながら今日も意地悪な髪を梳き始める。
「あー、もうっ…!」
上から下へ―――きしっとたまに引っかかる枝毛の感触に、最近ろくな手入れをしてないからなぁと嘆く。
嘆くものの、仕方がないことである。仕方がないが……ああ、そう諦めてしまっては女を捨てている感じがしてならない。違う、違うんだ。これはもう……うん、いや、考えるのをやめよう。
「………」
そうして彼女は櫛に抵抗を感じても無心で梳く。
梳く。
梳き続ける。
「ミチさん、準備終わりました。何か手伝いましょうか?」
「んー。大丈夫」
髪と格闘していると、背中より声をかけられる。姿見越しに見てみると、すっかり旅装へ着替え終えたルイナが立っていた。
彼女はミチと違って、朝に強い―――吸血鬼のくせに朝に強いってどういうことだと、ふっと息を漏らしてミチは静かに笑う。
ルイナは常にミチより先に起き、てきぱきと準備を終わらせる。彼女が眠そうに欠伸をしていたり、うつらうつらと舟を漕いでいるところは見たことがない。吸血鬼というのはおよそ、疲れ知らずの連中なのだろう。
そして羨ましいことに、ミチはルイナに寝癖がついているところを見たことがない。
彼女の髪は煌めかんばかりに艶があり、遠目に見ても分かるほど芯がしっかりしてる直毛である。
羨ましい……風が吹くたびに靡く銀のカーテンを、ミチは密かに憧れの目で見ているのであった。
「それより機嫌良さそうね。昔の夢でも見れた?」
「いえ、残念ながら」
ミチは髪を梳きながらルイナに問う。それは決して夢見の良さを問うているわけではない。
前世の記憶―――ヒト族であった頃の記憶をルイナは夢として見ることがある。残念ながらその夢によって思い出せた記憶のうち今のところ母親捜しに役立つものはなかったが、それでも夢を見た後のルイナは今のように上機嫌であることが多かった。
故にミチは問うたのであったがどうやら推測は外れたようである。ただ、鏡の向こうで首を振りながらもルイナは気落ちした様子もなく微笑んでみせた。
「でも代わりに良い夢が見れました。ミチさんと学校に通いながらスキルの練習していた時の夢でした」
「そうなの? ふふ、懐かしい。もう1年くらい前の話になるのね」
そうして昔の話に花を咲かせてみる。ルイナが喜びの表情でもって語るそれは、ミチにとっても大切な思い出の一コマである。
……そういえばと、ふとミチは思う。
夢を見ずとも最近のルイナは上機嫌であることが多いように思う。それはオーレイの町―――ルイナが1人で依頼を受け、血と泥と涙に汚れながら帰ってきたあの時からのことであるように思う。
あの時、ルイナの身に何が起こったのか。ミチは未だそれを聞いてはいない。聞いた方が良いのか悪いのか、それすらミチは分からない。
しかしルイナは言ったのだ。整理がついたら話すと。
であれば自分にできることは待つことだけだ―――いや、そもそもこの悩みすら杞憂であるのかもしれない。今の彼女の表情と応対を見ても、そこに憂いの影はない。
傷ついた彼女が自身の力で立ち上がれたのだとしたら、自分が話を蒸し返すのはお門違いである。自分は彼女にとっての友であり、親ではない。依存させることが目的ではなく、あくまで隣に並び立つ者である。
故に彼女は聞かない。問わない。疑問に思わない。ルイナが1人で立つ姿を見て頷き、自分が考える正しい友の在り方に忠実たろうと振る舞う。そう決めていた。
「……よしっ!」
そうして経つこと十数分。鏡の前で赤毛と格闘していたミチは体裁を整え終え、遅れて旅装へと着替え始めるのであった。
「………」
ぶすっと頬を僅かに膨らませ、唇を真一文字に結んで、ミチは目の前の者を見ていた。
彼女がいるのは小さな町の冒険者ギルド。旅の途中に立ち寄って、今日初めて入る場所であった。
この頃、冒険者ギルドに入る度に彼女は今のように憮然とした表情を浮かべてしまう。
何故か? ―――理由は2つある。
まず1つ、視線がやたらと痛いのだ。
彼女達がギルドに入ってより受付へ歩くに従って、ギルド内に満ちていた喧騒が波が引くよう消えていく。机を囲んで話し込んでいた同業者たちが口を閉ざし、眼光鋭く自分たちを睨みつけてくるのだ。
それらの視線は邪な感情が入ったものではない。女、それも見た目は魔術師と神術士の2人組である。腕の良さは外見だけでは判断できないだろうがそれぞれ需要の高い職業である。我先にと声をかけ、仲間に誘ってくる輩がいてもおかしくない。
それが全くない。遠巻きに見られるだけである。普通であれば怪しむべき視線であったがミチの口からは嘆息しか零れない。この状況に至る理由を、彼女は知っていた。
『白銀と暴風』という詩がある。それはキルヒ王国にて俄かに流行った冒険譚である。
純白の装束を纏い、光り輝く銀の髪を靡かせ、不殺の心を語った美貌の女戦士『白銀』と、赤い髪の魔術師『暴風』。彼女らが、危機に陥った若き冒険者達を英雄的且つ劇的に救う英雄譚を謳った詩なのであるが―――そこで謳われている『白銀と暴風』の2人組こそ、ルイナとミチのことなのである。
その詩は王国どこへ行っても流行っていた……普通に聞けば与太話にもほどがある内容である。故に流行は一時的なものになるはずとミチも我慢していたが、実際には全く鎮まることがなかったのである。
何故か? ―――実際に見目麗しい白銀の少女が隣に赤毛の童女を侍らせ、実入りはいいが危険度と緊急度が高い【緊急】扱いの依頼を電撃的にこなしては、用は済んだとばかりに町を足早に去っていくのを見れば詩の内容が本物であるかもしれないと実しやかに囁かれるのもおかしな話ではない。
聞く側の人間は1割信じて9割疑っているくらいの割合だろうとミチは期待していたのだがその実、拮抗していた。実際に彼女たちが戦っているところを見た者はそれこそ詩に出演している若き冒険者達だけであるのに、彼女らがギルドに報告した戦果だけで詩の内容に真実味を帯びさせてしまっていたのであった。
そしてその詩は国をまたいでここ、クォーツ公国でも耳に入ってくる。何故か? ―――吟遊詩人も冒険者である。国を渡るのに費用も時間もかからない。つまり、彼女たちを謳った詩は国境を越えどこへでも広がっていく。
ミチは絶望した。今ではそれぞれ『白銀』はルイナ、『暴風』はミチと名前付きで謡われることも多くなったその詩である。もはや個人を特定されたその詩が『彼』の耳に届いたらどうなる?
……やめよう。この件で頭を抱えた夜は数えきれない。彼女にはもうどうすることもできない話なのである―――人生、諦めが肝心である。
―――ということでこの国においてもルイナとミチの容貌と素性は割れており、ギルドを歩く銀と赤の組み合わせを冒険者たちは真贋問うような鋭い目で追うのであった。
とまあ、ここまでは良い。ミチとしても受け入れざるを得ないと諦めた範疇である。自分が蒔いた種であるし、誰何された折に名を明かしたのも自分である。故にこれは諦められる。
「どうも! ルイナ様、ミチ様、ようこそ当ギルドへお越し下さいました! さあさっ、こちらへお掛け下さいませ!」
「………」
しかし解せない。ミチは受付の机の向こうで相好崩し、揉み手でもって擦り寄ってくるギルド職員の気色を苛立たし気な表情でもって睨み返すのであった―――彼こそ、ミチが苛立たしげに表情を歪めている第2にして本命の理由である。
あの詩が流行っていたキルヒ王国でさえ、ギルドからこんな扱いを受けたことはなかった。あくまで一冒険者として真っ当な応対を受けていた。
しかし、これである―――初めて来たギルドだ。この職員と顔を合わせたのは今回が初めてであるし未だ名乗る前である。
それなのに向こうは上客でも扱うように口角を吊り上げ、『接客』してくる。たまには馴れ馴れしいギルド職員がいても構わないだろうがこれはそういったものとは明らかに異なるし、そもそもこういった扱いを受けるのは今回が初めてではない。クォーツ公国に入国してしばらく、どこのギルドに入っても同じような待遇を受けている。
「ルイナ様、まずはこちら近隣の町村における石造りの宿の情報でございます。お納めください」
そしてこれである。こちらから情報売買の話を持ち掛けるよりも先に求める情報が差し出される。普通であれば『情報がない』という情報を買うことすらお金がかかるのに、無償で提供されるのである。
近隣の村と宿の名前が描かれた羊皮紙、それを差し出されルイナは『ありがとうございます』と言って微笑のままに受け取る。
―――気持ち悪い。ルイナはどう思っているかは知らないが、ミチはこのやり取りに嫌悪感を抱いていた。
自分達は冒険者である。自分の意思で道を決められる者である。その意思を、自由を、踏みにじられている気がしてならない。
「そしてミチ様。申し訳ございません。『魔術師ジュレー』なる方についての情報は未だ入手できておらず―――」
「そう、分かったわ。ありがとう」
だからミチは硬貨を机の上に置く。宿の情報と父の情報、合わせて銀貨6枚。キルヒ王国で情報を買っていた時よりも1枚多い代金である。
「み、ミチ様っ、頂けません! 私どもは―――」
「関係ない。行くわよ、ルイナ」
「はい、ミチさん」
そうして彼女達は受付を去り、依頼掲示板の方へと向かう。掲示板はごまを擂ることなくその場に佇むのみである。
実入りの良い依頼があればそれを受ける。なければ町を去る―――いつも通りである。そこに彼女達の自由があり、意思がある。
近づいてこようとするギルド職員を横目で睨みつけながら、ミチは今日も依頼を探すのであった。
「……はぁ~」
夜。稼ぎの冒険を終えて戻ってきた宿の部屋。沐浴と食事を終えたミチはベッドにごろんと寝転がる。
寝転がって……腕を枕に横を向きながら、アンニュイに息を吐いてみる。悩める乙女にため息はつきものであった。
「ミチさん。どうかされましたか?」
その零れた息を聞きつけ、杖を磨いていたルイナが小首を傾げてミチを見る。
「ん? いや……なんでもないわよ」
「? そうですか?」
微妙な間を持たせた返答に、ルイナは更に首を捻ってみせた。しかしミチが軽く首を振ってみせると、目を僅かに丸くさせた後、再び杖の方に向き直ったのであった。
「……ふぅ」
そしてミチは再び息を吐く。ただそれは先のものほど大仰なものではなく、鼻から小さく息を吐いてみせた程度のものである。
「……ふむ」
……そこそこ大きい。彼女は視線の先にあるものを指してそう心の中で形容する。
見つめる先のルイナは13歳だと聞く。13歳といえば成長期、育つ者もいれば全く育たない者もいる、乙女にとっても男児にとっても微妙に微妙な時期である。
ただそれはヒト族においての話であり、例えばエルフ族なんかはヒト族と比べ2~3倍ほど成長が遅い。それを思えば自身の背丈含めた成長具合にも納得は出来る……が、確信はない。この成長の遅さは流れる母の血のせいであると思っているが、果たしてそうでなかったら?
……ミチは頭を振り、幾度となく身を震わせてきた懸念を思考より追い出す。今はルイナのことである。
彼女は13歳。であるのにその成長具合ときたら……まあ! なのである。ミチは幾度となく、道行く男がルイナの美貌と肢体に見惚れ、鼻の下を伸ばしている光景を目にしてきた。
……いや、その視線を羨ましいとは思わない。ルイナも最近ようやくそういった視線に慣れてきた……と言うべきか意識してしまうようになったと言うべきか、体を捩って視線を躱す仕草をするようになってきた。
ようやく13歳、男の視線に邪なる心が乗っていることに気づき始めたのだろう。ただ同性たるミチの視線に気づかないあたり、まだまだである。
ちなみに、自身は未だそのような経験1つたりとて無い。断じてない……考えていて悲しくなるが無いものは無い。
花も恥じらう18歳、胸も無ければ背も小さい。花というより蕾である。ああ、どうしてここまで世の中不平等になれるのか……
と、考えても仕方がない。成長の具合などひとそれぞれ。世間的に見ればルイナの方が異常なのである。13歳であれほど育つのは……うん、ルイナの方がおかしいのだ。
……ついこの間までは、確かにそう思っていた。
「ねえ、ルイナ」
「―――はい、なんでしょう?」
先より自身をじーっと見つめ、険しい表情だったり悲しい表情だったりの百面相であったミチが声をかけてきた。ルイナはその視線を気まずく受けつつも先の返答があったから素知らぬふりをしていたのだが、ようやく声をかけられた。
ほっと小さく息を吐いてから、彼女は返事をしたのであった。
「『大地の割れ目』で会ったやつらの中に1人、女の子がいたでしょ?」
「……? ああ、リカのことですね」
「そう、その子……いくつなの?」
問われ、ルイナは首を傾げてみせる。いくつ―――とは、恐らく年齢のことであろうと推測できる。しかしそれを聞いてくる意図が掴めない。
ただ、掴めないもののミチの表情は真剣そのもの。何か重要な意図があるに違いない。そう確信しルイナは分かる限りに答える。
「えっと、多分13歳か14歳だと思います。あそこにいたのは一緒に成人の儀式を受けた子しかいなくて、誕生日が分かればどっちか分かるとは思うんですけど―――」
「そう、分かったわ。もういい、ありがとう」
「??? あ、はい。どういたしまして…?」
言われ、ルイナは釈然としない気持ちながらも、何故か憔悴しきった様子のミチを見て頷く。そうして再び杖の表面についた汚れを拭き始めたのであった。
「………」
13歳、もしくは14歳。ミチはその回答を胸の奥で反芻する。
……でかかった。背丈ではない。背の高さはルイナの方に軍配が上がっていたが、ミチは瞼の裏に残る衝撃的な光景を指してそう形容した。
「13、さい……」
なのに、でかかった。
……ああ、違うんだ。きっと、吸血鬼が異常なんだと彼女は思い始めた。
これは決して個人の間の不平等ではない。種族の差なのだ、埋められぬ溝なのだ、争いの種なのだと、そう思った―――そう思わなければやっていられなかった。
……ああ、背が欲しい。胸が欲しい。小さいと馬鹿にされない身体が欲しい。ミチは今宵も密かに胸中で泣き、無情の夜を明かすのであった。




