小話『ルイナ、ミチに魔術のイロハを教わる(その2-後編)』
「さてここで1つ、途中式を書くためには普通、筆以外にも何か書く対象物が必要になるわよね。例えば羊皮紙とか―――まあ、こんな算術の問題解くのに羊皮紙使うような莫迦はいないでしょうけど、あくまで例として取り上げるわね」
そう言ってミチは地面に『羊皮紙』と描く。
ちなみに、羊皮紙とは羊に限らずありとあらゆる動物、獣、魔物の皮を原料として抄造されている、この大陸で最も流通している紙のことである。
原料とする皮によって品質は大きく異なるが、羊の皮を用いた純正な羊皮紙は記憶媒体としての保存性・保管性に優れており、記載内容を長く保持する必要があるものに使用される―――ルイナの身近なところで例を挙げると、冒険者証明がこれである。
他にも、大陸で流通している写本や製本、巻物についてはほとんどが純正な羊皮紙によって作られている。しかし、羊一頭から取れる羊皮紙は1メートル四方ほどしかない為、値が張る。手の平サイズに裁断されたものですら、大銅貨3枚ほど―――およそ1斤のパンに相当する値となる。
純正には劣るが近しい品質を保てる原料として牛や馬もあるが、これらの動物は労働用としての価値が高く安易には屠殺されない。故に供給量に劣り、品質で劣るのに値が張るという逆行現象が起こってしまっている。故にあまり使われていない。
他に魔物の皮を素材にした羊皮紙も出回っているが、これらは完全に粗悪品である。風合い悪く、時とともに端よりぼろぼろと崩れていき、尚且つ雨に濡れればインクが滲んでしまう―――ルイナの身近なところで例を挙げると、冒険者ギルドに貼られている依頼要綱がこれである。
長くとも半年くらい保てば良いものに使われ、情報更新が適宜求められる街角の掲示貼りや店頭の販売促進といった用途に用いられることが多い。
―――といったように、羊皮紙は原料によって大きく値段や用途が変わってくるのだが、それでも算術の途中式を書くような行為で消費するのは贅沢以外の何物でもない。
故に、ここに魔術を算術と置き換える非現実さが垣間見えるのだが、先達に倣って述べる以上、仕方がない。ミチは若干の居心地の悪さを押し殺しながら、地に書いた『羊皮紙』の隣に『=思考』と書き加えたのであった。
「ここで言う羊皮紙は、魔術行使における『思考』の役割を担っているわ―――集中力って言葉に置き換えてもいい。あたし達魔術師は集中すればする分だけ、途中式を書ける空間を広げられる。
簡単な魔術であればそう集中しなくてもいいけど、難しい魔術になればなるほど思考を集中させないといけない。そうしないと計算の途中で羊皮紙が切れちゃって、答えが出ないままになっちゃうからね―――魔術で言うと、情報が完成しなくて魔術が不発になっちゃうってことになるわ」
「……なるほど」
集中力が足りなければ魔術は不発に終わる―――そう聞かされルイナは、自分が生まれて初めて魔術を使った時のことを思い出すのであった。
アリスとして生まれ、7歳を迎えたある日のことである。吸血鬼としての父アーデルセンに呼ばれ、『魔撃』の詠唱を教わり、両親見守る前でそれを唱え―――気を失った過去。
当時、その『魔撃』が不発に終わった為に一命を取り留めたが、行使に成功していたら魔素枯渇を起こし命はなかっただろうと医者に告げられた……あの時、魔術が不発に終わったのはこの集中力がなかったせいであろうか? とも彼女は思ったのである。
彼女はその時、両親が望む姫たらんとは思っていたが魔術の行使に対して前向きな姿勢で取り組んでいたかと問われれば、否である。心の底では嫌々であったと思う。当時の自分は、期待に応えようと振る舞っていたが内心不貞腐れてもいたように思う。
故に集中せず、魔術を行使しようとして失敗した―――逆に、それで良かったのだ。集中し、何としてでも行使させようと気負っていたらきっと魔術は発動してしまい、自身は命を落としていた。
恐ろしい想像であった。ルイナは胸を透く戦慄を飲み下し、『ちなみに―――』と口を開くのであった。
「魔素変換効率って、この例えだとどういう扱いになるんですか?」
ルイナは自身の魔素変換効率が他人より非常に劣っている自覚があった。何せ、ヒト族よりも魔素許容量が多いはずの吸血鬼の身であるのに『魔撃』一発で魔素欠乏に陥るのだ。
他人と同様の魔術を行使しようとした時に、消費する魔素量が自分は極めて多い―――その自覚があるからこそ、彼女は今でも魔術を行使しようと思わない。
そして問われたミチは一瞬思案気に、目線だけで三角帽子の鍔を見上げ、やがて口を開いた。
「………字の大きさ、になるんじゃないかしら。字が大きいと同じ式を書くだけでもインクの消費量が多くなるから、同じだけインクを持っていても不利になるわね」
「なるほど……分かりました。ありがとうございます」
聞きながら、ルイナは考える。自分は字が大きいのだろうか? それとも、そもそもからしてインクの量が少ないのだろうか?
ルイナは自身が魔素欠乏に陥った過去2度の経験を思い返し―――しかし、答えは出ないと思って小さく頭を振った。どちらにしろ、彼女の中で『魔術を使えない』という結論は変わらないのである。
そしてこの話の本題は、実はまだである。ミチは一度咳ばらいをし、言葉を続ける。
「―――それでここからが本題なんだけど。魔術っていうのは行使するごとにこの羊皮紙を新しいものに変えないといけないのよ」
「新しいものに、ですか?」
ルイナはミチの足元に描かれた『羊皮紙⇒新品にしないと新しい計算が出来ない』という文字の羅列を見ながら、不思議そうに小首をかしげる。
「そう。次の計算をしようとした時に、羊皮紙に別の式が書いてあったら邪魔でしょう? 魔術に置き換えると、前の魔術の制御を捨てて、新しい魔術の制御に集中しなくちゃいけないの。だから、魔術を複数同時に行使するなんて出来ないはずなのよ」
「……なるほど」
ようやく話が当初の疑問への回答に行きつき、ルイナは合点の行った声を上げる。
つまり、描ける羊皮紙は1枚。そこに描ける式は1つだけ。だから魔術の複数同時行使はできるはずがない―――
「……? でも、ミチさん。ソーライが同時に魔術を使っているところを見たんですよね?」
「そう! そうなのよ……あいつは両手に別の杖を持って、1つで詠唱魔術、1つで法陣魔術を行使してたわ。どう考えても、詠唱しながら魔法陣を描いてたようにしか思えないタイミングでね」
詠唱魔術と法陣魔術、それぞれ様式の違う魔術ではあるが、行使の起点が杖に魔素を通すことは共通項である。故に先の説明にあった『羊皮紙は毎回新品にしなければならない』といった制約に変わりはない。
「う~ん……でも例えば2本筆を持っていれば、両手で式が書けますよね? 頑張れば何とか―――」
「……あんたは2つ同時に難しい計算が出来るの? 431×502と965×227を同時進行で計算できるんだったら、もしかしたら初級魔術くらい同時行使できるかもしれないわね―――でも、本当に同時よ? 一個の計算を終えてからもう一個、なんて考えだったらその時点で制御を捨ててることになるからね」
「……ごめんなさい。私には無理です……」
呆れ口調で言われ、ルイナは脳内で暗算を繰り広げようとする間もなく諦めた。1つでも精いっぱいなのだ。2つも言われると頭がこんがらがってしまう。やる前からお手上げであった。
「……とまあ、そういうことよ。同時に計算しようとしたってどうしても集中が削がれる。実際、さっきもどっちか片方に集中した途端、もう片方の杖から魔素が抜けていったわ」
そう言って、ミチは裾にしまい込んだ短杖を外套の上から撫でる―――ものは試しとオーレイの町で買った安物である。材質から形状まで何ら好みの仕様ではなかったが、実験目的であれば構うまいと銀貨2枚を支払った。
そうして先ほどの実験、事はそう上手くいかないということが十二分に分かった。杖に魔素を込めるところまでは出来たがそこから先、情報を作成していく工程に移ろうとした時点で片方の集中が削がれる。
そうすると杖に込めていた魔素が制御を失い放出される。慌てて制御の手綱を引こうとすると今度は反対の杖からも魔素が出て行ってしまい、悪循環であった。
そもそも、単純に2本杖を持てば良いなんていう簡単な方法であればとっくに世の魔術師は複数同時行使の術を手に入れているだろう。そうでないということはつまり、そんな単純ではないということの裏付けである。
「……まっ、気長に色々試してみるつもりよ。実物は見たんだから、絶対に不可能ってわけでもないでしょうし」
そうしてミチは地に靴をこすり付け、今まで地に描いていた文字を消す。三角帽子も荷袋の上に置き、空を見上げる。
紅い陽は沈み、徐々に深まっていく紺がそこにある。
本日の冒険も終了である。彼女達はその晩を、互いに見張りに立ちながら寝て過ごすのであった。




