11.アリスの本音
ナトラサの街より洞窟をひたすらに歩いて2時間。ヒトより『大地の割れ目』と呼ばれている大渓谷の最下層に到達するまでそれだけの時間がかかる。そして更にそこから渓谷の裾合い沿いに伸びる、細い峠道を伝って登ること3時間。これだけの時間をかけて吸血鬼は地表に到達できるのである。
そして地表では近くを人間種が通らないか監視し、通った場合にはその動向を観察、もし万が一にも峠道に近づいてくることがあれば捕獲する任についている者たちがいた。
彼らは夜間であれば地表に顔を出し周囲の警戒に当たれるが、太陽の出ている日中は山道を少し下ったところで『遠聞』のスキルを使用して近づく人間種がいないかを警戒しているのであった。
「……ん?」
そんな彼らの耳に、複数の足音が聞こえてくる。それは峠道の下の方からであり、そちらから聞こえてくるのは仲間の吸血鬼のものである。一応の警戒はしつつ姿を現すのを待っていると、現れたのはやはり同族である吸血鬼であった。
「へ、陛下っ! 全員、敬礼!」
「「はっ!」」
しかし、いつもの狩りや採集に行く者達ではなく、自分たち吸血鬼の王―――吸血王アーデルセンであったことに驚きつつも、監視者たちは敬礼を以って王を迎えいれたのだった。
「―――うむ。ご苦労」
「「「はっ!」」」
王が手ぶりで道を開けるように促すと、監視者たちは細い峠道に左右へ分かれ道を作る。そこを王が通り、王に続く者達も通っていく。
そして監視者たちは息を呑んだ。王の後ろを歩く、絶世の美少女の姿に。
その姿は血塗れであり、髪も地面に垂れるほどに長く、遠目に見るとみすぼらしい、顔をしかめてしまうような風貌であった。
しかし、間近に見た彼女はそんな印象を覆す程に美しかった。若干の幼さが残りつつも大人への変貌を花開かせつつある可憐な顔立ち、そしてそこに浮かべている妖艶で蠱惑的な表情。白銀の髪も純銀も斯くやと言わんばかりに艶を放っており、すらりとした痩躯の身体に、女性特有の膨らみが正装越しに慎ましく主張している。
果てしなく女性―――あるいは少女として、魅力的であった。
監視者のうち、若者達はその顔を緩ませ、もしくは上気させその者の行く末をじっと見つめていた。そして唯一の古参である監視者は、その存在感が若き頃の吸血妃リリスフィーにあまりにも似ていた為、その者が何者であるのか思い巡らすのだった。
結局彼らはその者が、闘争の儀においてはまだ幼い姿であった、吸血姫アリスであることを最後まで見抜けなかったのだった。
「―――ここが地上、なのですね」
アーデルセンの後ろを歩くアリスが目の前に迫った、渓谷の出口―――地上を見上げ、呟いた。彼女にとって初めて見る外の世界、外の景色である。
時は朝方。太陽は東の空より昇り世界を照らす。見上げた先の渓谷の出口を横殴りに陽光が差しているのが見える―――陽光に焼かれ、砂となって死にたい。アリスが望んだ死に方だ。
「―――アリス……」
地上手前まで来た以上先導する必要はない。アリスに前を譲り、道を開けた王は娘の名を呼ぶ。その声に籠った感情は計り知れない。恐怖、不安、憂慮、危惧―――そして最後に首をもたげてくる親心。
名前を呼んだ後に、何と声をかければ良いのだろうかと王は苦悩する。
彼女が少しでも心変わりをして生きたいといっても、自分たちはそれを認められないだろう。そして戦いになればここにいる全員があっという間に殺され、吸血され、その魔の手はナトラサの街まで伸びる。そうなれば大量虐殺、そして生き残った―――いや、生き残らされた吸血鬼たちはヒトと同じようにアリスへ血を捧げる家畜と成り果てる。
そんな恐ろしい幻視が見える。吸血鬼の最後の砦たるナトラサの街がそのまま地獄の檻へと姿を変えるのが目に見える。
早く死んでほしい、早く消えて欲しい、このような恐怖と破壊の権化は存在してはならない。だからこそ彼女が死を望むのであればそれを叶えようと応じた。しかし―――その一方で、道すがら冷静さを取り戻してきた心が本当にこのままでいいのか? と疑問を呈してくる。
ここに至るまでに、家で過ごしていた妃リリスフィーにも勿論、事の顛末を説明をした。アーデルセンの口から語られる衝撃的な内容―――娘の『異端』認定、吸血鬼殺し、民への一方的な虐殺―――それらを語って聞かせると、その場でリリスフィーは顔を白くし気を失った。
もしアーデルセンが逆の立場であっても、その内容を一纏めに聞いていたら卒倒していただろう。それぞれの事柄が若干の時を置いて立て続けに起こったことであり、アーデルセンも覚悟をしてその場その場に対応出来たのだ。
それに民の前、臣下の前であったからこそ、親としての自分が打ち砕かれても王としての自分が身と心を支えてくれたのも影響した。それが、事は急を要するばかりに一息に説明したのが悪かった。アーデルセンは深く後悔していた。
今、目の前で娘が死に逝こうとしている中、臣下に抱かれ運ばれてきたリリスフィーは未だ目を覚ましてはいない。
アリスが一度振り返り、目を瞑ったままの母と苦り切った顔をした父を見る。その表情は目の前に迫る死を極めて冷静に受け止め、まるで散歩にでも行かんばかりに平静な顔をしていた。
「父様、母様、本当に今日までありがとうございました。私を、吸血鬼として『異端』であった私をここまで育てて頂き、ありがとうございました。私は最期まで、父様と母様に感謝をし、消えて逝きたいと思います」
そしてその場で礼をする。
彼女は死の間際においても動揺せずに言葉を紡ぐ。ここまでの胆力を、娘はいつの間に身に着けたのだろうか。闘争の儀においてだろうか? それとも吸血した時に心も成長したのだろうか? それとも気づかないうちにずっと前から持っていたのだろうか?
―――この土壇場においても、死を望んでしまっている今でも、娘の成長を喜ぶべきなのだろうか? ……そのようなことを考えている自分に、ほとほと嫌気が差す。
「先立つ不孝をお許しください。
しかし私の生が、父様と母様、それに民へと迷惑をかけると思います。なので、私の死を以って愛するナトラサの街に、永い平穏が訪れるように願います」
―――果たして、本気で彼女は死ぬつもりなのだろうか?
たしかに、自分たちは彼女の死を望んでいる。その爪が、牙が、いつ気が変わって自分たちに向けられるかと思うと、一刻も早く死んでほしいと願っている。
しかし、それは自分たちの都合であって彼女はどう考えているのだろうか? ……分からない。その発している言葉は本心であると信じたいが、自分達に都合が良すぎはしないだろうか?
―――問いただした方が良いだろうか? それに、時間を置いて自分も娘も冷静になって改めて話せば、もしかすると他に良い解決策があるのではないだろうか? 第一、リリスフィーも意識を失っているままだ。あれはアリスに甘く、アリスを溺愛している。このまま別れの挨拶もさせずに死なせて良いのだろうか?
アーデルセンの自問自答は続く。が、ついぞその口が開かれることはなかった。死に逝こうとするアリスを止める勇気がなかったのだ。
―――否、止めた末に生きたいと懇願された場合にアリスを再度死地に追いやる勇気がなかったのだ。
そうして誰しもが言葉を発しないまま、アリスは地上へと歩を進める。渓谷の出口、そり立つ渓谷に空いた穴、地上へと繋がる細道。そこは陽光が燦燦と輝く、吸血鬼にとって死の大地。
そこへアリスは今、足を踏み入れた。
「…っ」
今まで淡々と、あるいは妖艶な雰囲気を漂わせていたアリスがその足―――未だ靴しか出ていないが、身を震わせ歩みを止めた。その背中を見て、王は震える。化け物と言えど死は怖いらしい、しかしそこで歩みを止められると困るのだ。
鋭い眼力をもって、王は―――そしてその周りにいる者全てが、アリスの背を注視した。頼むから逝ってくれと、強い意志を持って。
「………」
そして王たちの願いが叶ったのかアリスの震えが止まり、彼女はもう一歩を進んだ。二歩、三歩―――彼女の身体は完全に、陽の光のもとへと堕ちた。
「……これで、吸血鬼として死ねる―――」
そうして陽光へ向き、両腕を伸ばしてその死の光を一心に受ける。
やがて時を待たずして彼女の身体は朽ち、砂となって消えていく。
こうしてナトラサの街、そして王たちの身は救われたのだ―――
――――――――――ドサッ…
「……ひっ、ぐっ、ぅぅ……」
その場に崩れ落ちる音が響く。
そして嗚咽の声が漏れ始める。それが誰の口から出ているものなのか、この場にいる誰しもが最初は分からなかった。
「ぅぅ、ぅううううあああああっ…!! うあああぁぁ…っ!」
やがて嗚咽は慟哭に変わり、その叫びに籠る感情が悲しさであることを誰しもが理解した。
その場に泣き崩れ、悲嘆に叫んでいる者は砂にならずその身を保ったままの、アリスであった。
「うあああああぁっ…! …ああぁぁっ、ああぁあぁぁっ…!!」
言葉にならない悲しみを、意味を持たない叫びをもってさらけ出すアリス。
心は溢れる悲嘆と絶望で埋め尽くされ、痛みを感じないはずの彼女に痛みを与える。
―――死にたかった。
彼女は闘争の儀を行った洞窟で吸血鬼たちを殺した後、我に返って恐怖した。
自分の身体が勝手に動くこと、大人たちをいとも容易く殺せること、その血を求めていること、そしてそれらの行為に全く忌避や罪悪感を覚えず快感と愉悦に塗れた自分の心に。
更なる血を求めて心が躍っていることが分かる。洞窟の外に出ればたくさんの『ご馳走』があるのを知っている。たくさん嫌な思いを強いられてきたんだからその仕返しをしてもいいんだと心が囁く。
無理矢理ヒトの血を飲ませてきた敵を、自分を『異端』宣告してきた敵を、そして自分を殺そうとしてきた敵を、全部殺してしまえと、心が、口が、表情が語る。
その甘美なる復讐心をアリスは、抑え込んだ。
敵じゃない! 彼らは敵じゃない!
ヒトの血を飲ませるのは吸血鬼として当然! 『異端』だって、覚悟していたこと! それに、殺そうとしてきたのは先に私が吸血鬼を殺したから!
私は―――まだ、吸血鬼の仲間でいたいっ!!
しかし、どうやって仲間だと言い張る? どうして仲間だと言い切れる?
吸血鬼より『異端』とされ、同族の血を吸う自分を、彼らはどうして仲間だと認める? どうしたら仲間と認める?
ヒトの血を飲むか? 母と父に縋りつくか? それとも無理やり力でねじ伏せるか?
違う! 違う!!
そんなこと―――出来ない。ヒトの血は飲めない。父様と母様に頼っては巻き込むだけ。それに、力によって作られるのは恐怖だけで仲間じゃない!
私は、私は吸血鬼に戻りたいんだっ!
なら、諦めるしかない―――
自分は『異端』であり、同族を殺してしまった。
最早自分を仲間と認める者はいないだろう、行為によって、血によって、力によって仲間であると縋りつく方法を捨てるのであれば。
自分は死ぬまで『異端』であり、同族殺しと見られるだろう。
―――だったら……
「だったら、吸血鬼として、死んでやる……っ!」
そうしてアリスは吸血鬼としての死―――太陽に焼かれ、砂となって消えることを選んだ。
生きているアリスを、誰も仲間として見なくてもいい。その代わり死んだアリスを、色々おかしかったがやっぱり吸血鬼であったと思ってくれれば、それでいい。
このまま生き続け、仲間に恐れられ、仲間の血を啜ってどんどん心が歪んでいく生よりも、今のままの自分で、アリスはアリスとして死んでいきたかった。
そして吸血鬼として死ぬために、彼女は仮面をかぶった。血を求めてならない化け物の顔になるよう―――いつもは優しく理性的である母が、血を求めてならない時に浮かべる妖艶な笑みを顔に貼りつけた。
同族の血を飲み、更に血を求めている化け物が来たら、外の民や父はきっと恐怖するだろう。
そして力を振るい、手も付けられない化け物であると知ればきっと絶望してくれるだろう。
そこで死を求めれば、自分の好きなように死なせてくれるはず、アリスはそう考えていた。
事はうまくいった。しかし、力の振るい方が分からず、身体が勝手に動いてしまったせいで更なる同族殺しを犯してしまった―――そのことへの罪悪感は、血を吸ったことによる快感で塗りつぶされた。
そして地上への道が開かれた。アリスは生まれて初めて外の空気を感じ、生まれて初めて空を見た。
それらは陰鬱であるナトラサの街とは大きく違い、外の広大さや解放感を予感させた。しかし、それらをアリスが享受することはない、日中に地上へ出た吸血鬼は砂となって消える。それをアリスは望んでいる。アリスが外の世界を知る機会は、ない。
そして地上へ至った。
目の前には陽光照らす地上があり、数歩先に進めば死が落ちる。アリスは、自分の死を願っている顔の父と未だ目を覚まさない母に謝罪と礼を言って死地へと足を伸ばした。
「…っ」
靴のつま先が地上へ出た瞬間、今まで見て見ぬふりをしてきた恐怖が溢れてきた。
今から自分は、死ぬ。死んだらどうなるのか、なんてことをゆっくり考える時間は今までなかった。
死ぬのは怖いんだろうか? 痛いんだろうか? 苦しいんだろうか?
死んだら自分はどうなるのだろうか? 消えてなくなるのだろうか? それともずっと苦しかったり痛かったりするのだろうか?
帰りたかった。戻りたかった。あのナトラサの街に、平穏と暮らしていた日々に。
振り返りたかった、足を戻したかった。でも、後ろから突き刺すような強い視線を感じる。
死ね、死ね、死ねと。熱と冷たさをもった視線が、呪いのようにアリスの背中を刺す。
振り返って、その視線を宿す父の瞳を―――見たくはなかった。
―――後ろに戻れないのであれば、前に進むしかない。アリスは死への恐怖を無理矢理消し、部屋から外へ出るように陽光照る場所へと躍り出た。
渓谷の出口、そり立つ壁の合間に出来た穴、そこから横に伸びる細い道とその先に見える地上―――そして眩しい太陽。
眩しかった。直接見るに能わず、彼女は目を閉じた。
そして全身で陽を浴びるように腕を伸ばす。やがて呪いの影響か、身体が熱を発し始める。砂と消えていくときも間もなくと思えた。
「…これで、吸血鬼として死ねる―――」
こうして死んで、自分は吸血鬼として認めてもらえる。恐怖で足が震えはじめ、心が凍り付くほど怯えそうになっているのに、必死にそれを飲み下す。今しばらく―――もう少し待てば自分の身体も心も、この恐怖も悲しさも寂しさも、全部砂と消えるんだから―――
………そしてその時は、訪れなかった。
「うあああああぁっ…! …ああぁぁっ、ああぁあぁぁっ…!!」
アリスは泣き叫んだ。
太陽にすら、吸血鬼だと認められなかった。
呪いにすら、吸血鬼だと認められなかった。
誰も、何も、神ですら概念ですら、自分を吸血鬼だと認めようとしない。
だったら自分はいったい何なのだ!
吸血王アーデルセンと吸血妃リリスフィーの間に姫として生まれ、12歳となるその時まで必死に不味いヒトの血を飲む努力をしてきたのは、いったい何のためだったのだ!
仲間に吸血鬼として認められたい一心で、死を決意して仮面をかぶり、化け物を演じて父や民に恐れられようとしたのは、何のためだったのだ!!
全てに怖がられ、恐れられ、遠ざかれようとしたのは、最期に全部、仲間として認めてもらいたかった! ただ、本当に、それしか自分の心の寄る辺はなかったのに!!
なのに―――全部、踏みにじられた。
心は砕け、溢れる涙は止まらず、ただただ意味のない叫びが口から洩れていく。
「アリス……お前は……」
アリスに近づく者がいた。父、アーデルセンだった。
彼は―――気づいてしまったのだ。この泣き崩れる娘の姿こそ、本性であったと。
自分たちを恐怖に陥れ、殺すしかないという考えに陥らせ、死地へと追いやらせたのも、全てが娘の企みであったと。
己が吸血鬼として認められず、吸血鬼と殺すか殺されるかかの戦いをするより、これ以上罪を負わずに同族として死にたかったのだと。『これで、吸血鬼として死ねる』という言葉が彼女の本音であったと、ようやく気づいたのであった。
しかし、それは叶わなかった。何故か彼女は陽光に焼かれることも砂となることもなく、五体満足でその場にいる。それは吸血鬼であるという呪いを、彼女が持っていないということに他ならなかった。
「あぁぁぁっ……っ! うあああぁぁっ……!」
彼女の慟哭は治まらなかった。
その間、誰も彼女の傍に寄るものはいなかった。当然である、彼女のいる場所は陽光のある場所。吸血鬼が立てる場所ではない。ほんの数歩の距離であるのに、その間を隔てる溝はこの渓谷よりも何よりも深かった。
「あぁぁぁっ、ああぁっ、…………あぁ……」
―――やがて、アリスの嗚咽は止まる。
ゆらりと生気もなく立ち上がると、壁に空いた穴、地上へと続く道へと歩みを進め始めた。
「っ! あ、アリス! お前どこに―――」
「陛下、おやめくださいっ! それ以上は危険ですっ!」
彼女の様子に、行く先を案じたアーデルセンが近づこうとするが、近くにいた吸血鬼がそれを身を挺して止める。アーデルセンも、はたと気づいて動きを止める。このまま進めば、止めに入った者共、砂となって消えてしまう。
その様子をアリスは、感情の抜け落ちた目で見ていた。
「あ、アリス! お前、どこに行こうというのだ!」
「―――どこ、へ? どこかへ、行けるのでしょうか、私? 吸血鬼、じゃない……じゃないから、どこかへ、行ける?」
「アリス! おいっ、しっかりするのだっ! アリス!」
「私、どこ、行けば、いいでしょう? もう、戻れ、ない。吸血鬼じゃ、ない、から……」
アーデルセンの必死の声に対して、アリスの言葉はおぼつかない。
死にそうな声である。いや、彼女の心は死んでいるのだ。もう、そこに立って歩いているのは彼女の意思ではない。ただこの場にいたくもないという願いが身体を動かしているだけだ。
「父様、私、父様の、子なの、ですか?」
「なっ、何を……当たり前だっ! お前は私とリリスフィーの娘、間違いなく、嘘偽りなく、私達の子だっ!」
アーデルセンは憤慨した。
リリスフィーの腹が次第に膨れていきまだ見ぬ子の成長を喜ぶ日々、生まれる我が子の無事を案じる日々、そしてリリスフィーが突然苦しみだしお産が始まった日、苦しむ妻を近くでただ見ているしか出来なかったあの時、そして生まれた珠のように可愛らしい我が子、自分と妻の名前の一部を与えアリスと名付けた日、妻の乳を飲みすくすくと育つ子を見て喜ぶ日々、離乳食として与えるご飯を味がないと言って食べたがらない手のかかる娘、そして3歳となり血を飲める歳になって初めて飲ませようとした時の娘の嫌がる姿、初めて血を飲ませた時の苦しむ姿、その時より始まった苦悩と絶望の日々―――そして最後に訪れた、絶望に心枯れた今日という日。
アリスは紛れもなく自分の娘であったし、それを証明できるのはこの場において自分しかいなかった―――娘は、自分を吸血鬼であると信じていた心の拠り所、父と母から生まれた子だということすら疑っているものだと悟ったアーデルセンはそれを否定した。
それを見てアリスは瞳に一瞬、感情を乗せて答えた。
「―――それが本当だったら、どれだけ良かったか……」
その表情は自嘲と諦めを映していた。
「ま、待てっ! アリス、待ってくれ! アリスー!!!」
アリスは地上へ出た。広大な大地、見渡す限りの地平線、視界を遮るものは何もない。
その空虚な目に空虚な光景を映しながら彼女は吸血鬼の街ナトラサを去った。
彼女の姿が見えなくなった渓谷に、何ら力も言葉も及ばなかった父の、無念と後悔の慟哭が響き渡った。




