116.悲しい世界
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暗い。紅い。手も赤い―――
寒い。冷たい。頭が重い―――
ここは何処だ。わたしは誰だ。
わたしは―――そうだ。私は、私。
何処かは分からない、誰かは分からない。
だけどいっぱい、死んでいる。
死んでいたら、心は足りない。命は心、心は世界。
このひとたちは、心を失くした。あのひとたちは、世界を失くした。
だからきっと、幸せなんだ。心を失くせば、傷つかない。
「ぅ―――ぅっ―――」
「……、……っ……」
誰かの嗚咽が、聞こえてくる。
誰かの息遣いが、聞こえてくる。
歩いて、彷徨って、見つけたその手。拾って、抱いて、担ぎ上げる。
歩いて、迷って、見つけた木の棒。拾って、担いで、肩に置く。
命は心、心は世界。世界に縛られているひと達は、悲しい、悲しい息を吐く。
私もまた、生きている。心を失わず、世界を眺める。
悲しい、悲しい、世界に生きる。私は息を、吐き続ける。
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「……はぁ~…」
チーチカの口から、憂鬱が1つ零れる。今日も冒険者達に大層汚されるであろう机と床を拭きながら、彼女は心のしこりを胸から吐き出す。
―――ギルド職員である彼女の朝は早い。日の出とともに起き始める冒険者達、彼らは身支度と朝食を手早く済ませるとギルドへ足早にやって来る。そうして依頼が貼り出されている掲示板を眺めながら、パーティー内で相談したり、他のパーティーと情報交換したりと―――大体、朝の6時頃になるとギルドの席は熱気で埋まる。
そんなわけで、彼らを受け入れる側であるギルド職員の朝は、より早い。日の出よりも早くに出勤し、屋内の清掃から依頼内容の更新などを行なう。
彼女―――チーチカもまた、そんな職員の1人である。この職についてより1年半。ようやく日常業務に慣れ始め、粗暴な冒険者の扱いも掴み始めた頃合いの職員である。
「はぁ~……」
そんな彼女の表情は、今は暗い。そして吐き出す息も重たい。昨日は久しぶりに仕事で失敗してしまった日であった。
今、危険地帯とされている東の森を、農夫の少女へ薦めてしまったのだ……いや、彼女としては薦めるつもりは毛頭なかった。『通常』、この町近辺での採集場所であると教えたつもりで、そこは今、薬草採集に適していない場所だと説明するつもりであった。
だが、農夫の少女は説明途中で駆け出し、ギルドを出て行ってしまった。慌てて追いかけたものの姿が見えない。一生懸命、町の東へ走って追いかけたが、全く姿が見えてこない。町行く人に訊ねても目撃情報が得られず終いであった。
彼女は急いでギルドに戻り、上司へ報告した。自分のミスで、東の森へ農夫を派遣してしまったと―――それを聞かされた上司は苦く表情を歪めながら、それでも静観することを彼女へ告げた。
東の森には現在、とある目的の為に威力偵察に向かわせている冒険者が多くいる。薬草採集をしている農夫がいれば彼らが警告を出してくれるはずだ。
それにギルド職員である彼らに戦闘力はない。その時は既に昼時を過ぎていて冒険者も全員町の外。東の森へ追いかけようにも、追いかけられる人材がいないのである。
よって静観。上司にそう告げられ、彼女は不安と自己嫌悪渦巻く中、胸中で必死に少女の無事を祈るのであった。
―――そうして一夜が明けてしまった。結局昨日、あの農夫であろう銀髪の少女は戻ってこなかった。
不安が募る。まさか、もしかして、やっぱり―――ああ、もしそうだったら、わたしはなんて事を…!
―――ギィィッ……
「……!!」
自己嫌悪の坩堝に陥り始めた彼女は、しかし、ギルドの扉を開ける者の姿を見て、驚愕に口を開く。
その口から、声は漏れない―――予想を越えた衝撃を受けると、ヒトは声すら出なくなるのだ。
それほどまでに驚いていた。そこへ姿を現したのは昨日、東の森を紹介してしまった銀髪の少女―――だと思われる、何かであった。
『何か』―――それを咄嗟に形容するのは、彼女には難しかった。
しかし、見れば見るほど驚愕に満ちていく反面、徐々にその全容が掴めていく。
―――血だ。昨日は全身を純白に包んでいた装束が血に濡れ、黒味を帯びた紅で汚らしく染まってしまっていた。
それは服だけに留まらない。息を呑むほど整っていた顔も、見惚れてしまう程に綺麗であった銀の髪も、雪のように白くたおやかであった手も腕も、全てが紅に汚れている。
そして、瞳―――吸い込まれそうなほどに美しかった深紅の瞳には、今、生気が灯らない。暗く、暗く、沈んだ色をしている。
チーチカは、口をぱくぱくと開け閉めし、しかし何事も呟けない。無事で良かったの一言も、その様子はどうしたのかとの一言も、何事をかも告げられない。
―――ザザ、ザザッ……
やがて、血に染まった少女は扉をくぐり、中へ入る。紅は垂れない。既にそれらは乾き、滴らない。
しかし引き摺られ、床を汚す物がある。音を立てて少女の後ろをついて動くものが何であるのか、チーチカは視線を移し―――
「……ひ、ぃっ!!」
喉を引きつらせ、悲鳴を上げる。
少女が後ろ手に引き摺るもの―――それは1本の木の棒と裸の女。木の棒には3人のヒトが吊るされており、合計4人。
それら全てが身体中に傷を負っており、それに、それに―――顔が無残に潰されている者もいる。凝固した血の跡は、彼らの顔であった部分から足先までを細く伝い、まるで無念を咽び泣く涙のようであった。
「………」
戦闘経験もなければ、損傷した死体などろくに見たことがない。チーチカが悍ましい亡骸に声を失くしている間にも、血濡れの少女は木の棒と裸の女を肩に担ぎ直し、ギルド内部へ歩みを進める。
「―――このヒト達、持って帰ってきました」
「えっ、は―――えっ、えっ?」
そうして固まっていたチーチカの前へ少女は歩み寄り、亡骸をそっと床に置く。
「……!!」
そして、気づく。顔が潰されていた遺体にばかり気を取られていたが、他の2人―――棒で吊るされている真ん中の女性と、縛られていない女性には、息がある。傷は多く、息も細いが、彼女達は確かに生きている。
「す、すぐに手当てを―――!!」
気づいた彼女は即座に動く。傷を負い、運び込まれた冒険者の応急処置であれば場数を踏んでいる。急いで救急用の薬草入れを取りに行きながら、大声で奥に控える職員を呼ぶ。
薬草の効能による自然治癒に任せていては、死んでしまうかもしれない。莫大な費用がかかるが、専門の医師による治療が必要である。金より命が大事であると、彼女は判断を下した。
駆けつけた先輩職員に医師の手配を任せ、彼女は懸命に手当てを施す。傷口を綺麗な布と水で洗い、薬草を磨り潰しあてがい、煎じて飲ませ、出来得る限りの処置を施す。
―――5分か、10分か、あるいは1時間以上か。時間の感覚が狂い、正確な時間も測れない中、やがて医師が駆け付ける。後の治療を彼に任せ、ようやく彼女は額に溜まった大粒の汗を拭うのであった。
経過していたのは、ほんの十数分であった。
「……ふぅ……」
彼女は胸に溜まっていた昂りを、大きな息でもってを吐き出して―――そして、後に残された亡骸を見下ろした。
見覚えのある顔であった―――いや、実際そこには顔はない。見覚えがあるのはその風体と髪色くらい。装備は剥がされ恥部も胸部も曝されている。異性の裸を見るのは初めてであったが、込み上げてくるのは乾いて冷たい、空しさだけであった。
Cランクの戦士ヒューイと、Dランクの魔術師チュイ。先ほど病院に運ばれていったDランクのレンジャー、エルドラとで、パーティーを組んでいた彼らであった。
彼らはみな、同じ村の出身だと聞いていた。それも今は亡き、魔物に滅ぼされた故郷の出だと、チュイからお酒の席で語られた。
戦士のヒューイは実力もあるが向こう見ずなところもあり、背伸びをしてCランクの依頼を受けることもままあった。それを日頃窘めていたチュイ、面白がって笑っていたエルドラ。彼らはこのオーレイの町のギルドでも若い部類の冒険者で、良いムードメーカーにもなってくれていた。
……自分も、自惚れ気質なところだけが弱点の、それ以外は完璧だったヒューイみたいなヒトと冒険してみたいなと夢見ていた。同時に彼らが抱く正義感に憧れて、歩み行く背中を見ながら自分の出来ることで応援したいと思っていた。
ヒトを魔の手から救いたい。自分たちのように滅んだ故郷に遺されて、無惨に喰い散らかされた家族の亡骸を見て、吐きながら泣く運命にあるヒトを救いたい。その為に魔物を一匹でも多く狩ってやると―――彼らは語り、そして実際に多く魔物を討伐してきた。それをチーチカはギルド職員としての立場から支え、戻ってきた時には安堵と喜びでもって迎え入れてきた。
だけど―――そうか。死んじゃうのか、ヒトって。冒険者って。
こんなにも呆気なく。
想いも祈りも関係なく。
―――死んじゃうのか。
「死んじゃったんだね……」
呟き、亡骸を見下ろす。ツンと鼻を抜ける刺激が、途端に目頭を熱くさせる。
―――いけない。泣いちゃダメだ、まだ。
そう、だってこれは仕事なんだから。
自分はギルド職員。彼ら冒険者の冒険を―――その行く末を支えて送り出してあげるのが、自分達ギルド職員の使命なのだから。
「きちんと、弔って、あげるから……」
絞り出すように、そう呟く。
その場に傅く。傷つき倒れた身体を、いたわり、癒すように―――優しく撫でる。
彼女はギルド職員。冒険には決して出ないが、冒険者の一番近くに寄り添う友なる存在である。
「とむら、う……?」
ふと、チーチカは自分以外に、そう呟く声を聞く。
見上げると、血濡れの少女が焦点合わさず宙を見ながら、ふらりと振り返るところであった。
行先は、ギルドの入り口―――外へと通じる、扉の方である。
「待っ―――」
「……いかなきゃ」
彼女は止めようとした。聞きたいこと、聞かなければならないことはたくさんある。
故に、止めるために立ち上がる。
―――しかし、止める為の言葉が、続かない。
まるで夢遊病患者のように、ふらふらとした足取りで歩く少女―――彼女の背に、かけるべき言葉が見つからない。
確信する。彼女は自分よりも傷つき、そこに立っている。それでも歩き、行かなければならないどこかへ行こうとしている。
自分に、その歩みを止める権利はあるのだろうか?
自分に、その歩みを止められるだけの理由はあるのだろうか?
―――無い。そんな権利も理由も、見つからない。
チーチカは少女の背を追い、外へ出る。そして少女の行く先を見送った。
少女の姿は、今度は見えた。ゆっくりと、左右へ振れながら道を東へ進んでいく。
その背中を彼女は見送る―――やがて東の空に昇った陽光が少女の姿を搔き消すまで、彼女はその場に立ち、見送り続けたのであった。




