114.価値観<結ー下編(上)>
「いやぁぁぁっ!!!」
「っ―――」
その悲鳴は、突如として聞こえてきた。ルイナはびくりと肩を揺らし、周囲を見回す。
ヒトの、女の声であったように感じる。しかし、背に庇う彼女からではない。ずらりと周りを取り囲むオーク―――彼らの向こうから聞こえたように感じた。
オークの身体により視界を遮られ、『長目飛耳』すら効果を為さない。その声がどこから聞こえて来たのか分からぬルイナに対し、
「フム、目ヲ覚マシタカ」
オークロードの彼グリードは顎に手をかけ、愉悦を含んだ声音でもって振り返る。
その視線を受け、オーク達が左右に割れて道を作る―――その先に、
「あっ―――」
見覚えのある者がいて、ルイナは思わず声を漏らす。
そこにいたのは金髪、赤髪、黒髪の3人組―――先の昼、ダンテを追って現れた彼らであった。
彼らは掲げられた1本の丸太に両手を縛られ、横並びに密接して吊るされていた。
そして、無傷ではない。装備を剥がされ、曝け出されている肌のあちこちに裂傷や痣が垣間見える。
「いっ、いやぁぁぁあっ!! なにこれっ、なんでっ…!」
今、悲鳴を上げ、顔に恐怖を浮かべているのは赤髪の女であった。彼女以外、両隣に吊るされている金髪の彼と黒髪の彼女の2人はぴくりとも動かない。至近の隣で叫ばれているにも関わらず、目を覚まさない。
「……?」
そこまで眺めて、ルイナは違和感に首を傾げる。
赤髪の彼女は取り囲んでいるオークの群れでなく、なぜか両隣にいる仲間を見てこそ顔を引き攣らせていた。いったい、彼女は何に怯えているのだろうか―――関心を持ったルイナは途端、視覚が鋭くなるのを感じる。
「……っ」
そうして『長目飛耳』を発動させた彼女の目に映ったものは……金髪の彼、黒髪の彼女。彼らの潰されている、頭であった。
元々顔のあった部分が、造形の何も分からないほどに潰されていた。
生きてはいまい。歯のようなものが数本、血塗れの肉塊にこびりつき、身体が揺さぶられる度にこぼれ落ちそうになっている。目は飛び散ったのか影もなく、所々に覗ける白いものは恐らく、粉々に砕かれた骨であろう。最早そこが顔であったと判別つく要素は額より上、肉塊にこびりつき残っている髪だけであった。
「………」
……それ以上、仔細を見る気も起こらない。彼女が悲鳴を上げた真の理由も分かった。
途端、『長目飛耳』は効果を失くし、通常の視界が戻ってくる―――ルイナにとってその死に顔は、既に遠くの光景である。
「ヒューイ、チュイ……っ!! いやあああぁぁっ!!!」
しかし、赤髪の彼女にとってはそうではない。両隣には潰された仲間の顔。前を向いては、自身を取り囲むオークの群れ。下を向けば、装備の全てを剥かれた自分の裸体―――意識を回復させたばかりの自身を襲う、あまりの理不尽に彼女は叫ぶ。
頭を振り乱し、もがく。腕を縛る縄がギチギチと鳴るも、解けない。足も、両隣の屍に括りつけられ動かせない。
「いやぁっ…いやぁっ! なんで、なんでぇっ……! ヒューイ…、チュイ……!」
彼女は何にも抗えない。恐怖と絶望が心を埋め、より悲痛に泣き叫ぶ。
「モットダ! モット啼カセヨ、ヨリ喚カセヨ!」
一方、その場で苛烈に吼える者がいた。
オーク達は振り返る。その咆哮を上げたのは、彼らの王グリードであった。
「我ラ眷属ノ恨ミヲ存分ニ籠メヨ! 存分ニ嬲リ、存分ニ啼カセヨ!」
―――オォォッ!!!
天地が震える。オーク達は得物を打ち鳴らし、王の言葉へ咆哮をもって応える。
そのまま視線が向かうは赤髪の彼女―――天地をも揺らす情動が、己を突き刺す害意へ変わり、彼女は悲鳴を忘れて歯を鳴らす。滴るものが、地を濡らす。
彼女がいるのは既に知ったる世界ではない。生き地獄―――尊厳も安楽もないこの世の底で、死ぬまで心を磨り潰される運命に、彼女は乗せられてしまったのだった。
「―――、してください」
「……何?」
だが、その場で小さく呟かれた言葉がある。
その小さな声に、グリードだけが反応し振り返る。
その言葉―――それは彼の目の前、彼を睨み上げるヒトの少女から、漏れ出たものであった。
ルイナには、彼の気持ちを正確に知ることは出来なかった。
その憎しみの発露が何からもたらされたものなのか。過去に強くヒトを恨むきっかけとなる出来事があったとして、それがどういったものであるのか。そしてどれほどヒトを憎んでいるのか。その全てを知り得なかった。
―――しかし、何となく、分かるものがある。彼女も怒ったことがある。憎しみなのか恨みなのかよく分からない感情が、心と身体を乗っ取って、とにかく感情をぶつけたい、苦しさのもとを断ち切りたい―――そんな想いで、父と故郷を滅ぼそうと思った過去がある。
目の前の彼と、あの時の自分は、もしかすると似ているのかもしれない。憎しみは簡単に心を飲み込んで、ひとを傷つけることを正当化させてくれる、甘い呪い―――そこで一歩を踏み出せば、きっと元には戻れない。彼はもう、あの時の自分よりもだいぶ先に行ってしまっているんだと、ルイナは思った。
彼の行いは、彼の中では正義なんだと悟った。憎む相手を傷つけることが、きっと、甘くて甘くて仕方がないんだと。
でもそれは悪意からではない。ヒトにとって悪意でしかないそれは―――彼にとって、復讐なんだ。
自分もあの時思った。自分を傷つけてきた世界の全部を壊し、全部を殺して、復讐してやると。それときっと、同じなんだ。
だから、彼女は思った。彼はきっと、悪い奴ではないんだと。
ヒトにとってはどうか分からない。だけど彼は仲間を大切に思っているだけの、ただの魔物なんだ。彼が今、彼らが今、行なおうとしていることや行なってきたことは、酷いことだと思う。
だけどそれは、憎しみのあまりにそうしているだけで―――きっと、その憎しみさえ無ければ、彼らはきっと良いひとなんだ。彼らともきちんと話が出来れば、さっきの彼―――ダンテとしたように、穏やかに語れることだって出来るかもしれない。
悪い奴じゃないから、殺しちゃダメだ―――ルイナは、せり昇って来た最後の思考も違和感なく受け入れ、杖を握り、口を開く。
「解放してください」
意思は決まった―――もし、憎しみが晴れることがないのであれば、無意味に傷つけられる目の前のひとを助けたい。彼女は憎しみに囚われた彼を見上げ、その言葉を紡いだのであった。
「……何?」
問い返される。振り返り、遥か高くから睨み下ろしてくる眼光が、苛立ちと不快感を露わに映す。
「解放してください。あのヒトも、このヒトも」
それでもルイナは怖気づかない。彼が今、自分に求めているのは恐れて震える自分であると悟る―――その求めに、彼女は応じない。決して彼女は屈さない。
「―――ハッ」
僅かな沈黙の後、しかし巨体が鼻を鳴らし、嘲笑う。
「解放ダト? スルワケガナイッ! 存分ニ我ラノ恨ミヲ心身ニ刻ミ、嬲リ、殺シテクレル!」
「……それで、あなたの恨みは晴れるのですか?」
聞きたかった。その答えで態度を変えようとは思わないが、それでもルイナは聞かずにはいられなかった。
この仕打ちに、この非道に、意味があるのか。ないのか。
彼女達の痛みに、彼女達の涙に、彼女達の悲痛な叫びに―――意味はあったのか。なかったのか。
「ッ、フザケタコトヲッ!!」
―――しかし答えは、猛りの叫びであった。
「貴様ラヲ根絶ヤシニスルマデ、我ラガ恨ミ、晴レヌト知レ! 悪逆非道ノ人間種共メッ!!」
―――オォォッ!!!
吼える。王の叫びに応じ、民もまた咆哮する。
渦巻く熱気が行き場を失い、暴力となって赤髪の彼女を襲い始める。上がる悲鳴は罵声に掻き消される―――その光景を、ルイナは悲しみの感情をもって眺める。今すぐ跳んで、助けに行きたい衝動に駆られる。
しかし―――目の前に立つ彼が視界を遮るように仁王立ち、行く手を阻む。
「貴様モマタ、嬲リ尽クシテクレヨウ! 腕ヲモギ、足ヲ裂キ、恐怖ノ底デ震エル貴様ヘ、ヒトノ死肉ヲ喰ワセテクレルッ! 貴様ラ人間種ニ殺サレタ同胞ノ恨ミ、死ヌマデソノ身ニ焼キ付ケテクレヨウ!」
怒りに叫び、殺意を振りまく彼。
―――それに対して、ルイナは、
「……そうですか」
答え、目を閉じる。
―――なんて、残酷なのだろう。彼の語る仕打ちは酷く、惨い。
しかし怒りは湧いてこない。込み上がってくるのは別の感情。
―――彼らが抱く憎しみには、何の意味も見えない。晴れることは永劫なく、抱く分だけ悲しみが増える。
それでは誰も救われない。彼らも、ヒトも。憎しみと痛みが増え続けるだけ。
だったら憎しみを捨てればいい―――ただ、そんな簡単にいかないことは知っている。
だって自分もそうだったのだから。自分も、憎しみに駆られた自分を止められなかった。
……だったら、自分を止めてくれたものは何であったか。彼女はそれを思い返し―――
「―――分かりました」
ルイナは応える。
「憎しみに囚われた、悲しいひと達―――あなた達にこれ以上、ひとを傷つけさせるわけにはいきません」
杖を両手に確と握り、未だその眼は開かない。
「私があなた達を止めてみせます―――かかってきて下さい。私の準備は整っています」
「ッ!」
グリードは無声で、鉈を抜く。
どこまでも心を逆撫でしてくるヒトの娘に、一撃を振るう。
―――その一撃の音を、ルイナは知覚する。到達するまで、残り一秒とない刹那の世界。
「――――――」
目を、開く。開けて見えるは瞑る前と変わらぬ、悲しい世界。
そこへ鉈が視界に入る。風を切り裂く音が耳を襲う。自分の非力な腕では止められない、重たく危険な一撃である。
しかし、彼女は目をそらさない。鉈の先端より根元の方へ視線を動かし、やがて振るう相手を視界に入れたその時、彼女の身体は―――
「オ待チクダサイッ、グリード様!!」
「ッ!」
…………鉈が宙で制止する。
ルイナの視界は鉈を振るうグリードの巨体を映している―――しかし、身体は勝手に動かない。
―――やがて鉈が引かれる。ルイナを見下ろす瞳には変わらず憎悪が籠っているが、行動が示す通り害意は薄れたのであろう。
そうして彼は苦々しく表情を歪め、行動を諫めた声に振り返る。
「何ノツモリダ、ダンテヨ」
彼の視線の先、民の波を割って表れたのは―――鞘を支えに歩く配下、ダンテであった。




