10.狂気
―――その時、血呑みの儀において様々な不測の事態が発生したが為、混乱に陥っていた群衆たちを落ち着かせるよう働きかけていたグーネル公爵は、どよめく声とつんざく悲鳴を群衆の奥より聞いた。
何が起こったか、手元に残しておいた腹心である部下―――ハヴァラを探りに向かわせた。
隠密の行動に長けるその腹心は蠢く群衆の波を影のようにすり抜け、そしてどよめきの中心にいる者を見て刮目した。二度も瞬きを繰り返し、己の眼に狂いがないかを確認した。
それだけ衝撃的な光景だったのだ。しかし、命を与えられて動いている彼は己の動揺をそれ以上認めず、主のもとへと戻った。一刻も早く知らせなばならない。この緊急事態を―――!
「―――何っ!? それは真……いや、違う。その場へ案内せよっ! 今すぐにだ!」
報告を聞いたグーネル公爵は内容の真偽を問おうとするが目の前の腹心がそのような嘘をつく男であるはずがない。『それ』が真実だとしたら、彼に求められるのは迅速な行動と確認である。事は急を要し過ぎた。
王へ跪き、同行を願って彼らは『それ』に向かった。そして―――
「あ、アリス……なのか?」
吸血王アーデルセンの口から出たのは、弱々しい誰何の声であった。
「―――父様」
そして目の前の『それ』は、はっきりと応えたのだ。
『父様』と―――それは父の声に是と答えた娘の言葉であった。
『それ』は両手に四つの干乾びた『モノ』を持っていた。
『モノ』はそれぞれだぶついた衣服を身に纏っており、その裾から覗けるのは無数に皺の寄った焦げ茶色の何かであった。それぞれが独特な指輪やタリスマンなどの装飾をぶら下げており、4つの『モノ』がそれぞれ別個のものであるということが分かった。
そして、『モノ』には枯れ果て認識しづらくなってしまったが、それぞれ別の顔がついていた。
「ディ、ディーゼル…!?」
群衆の中から一人の婦人が飛び出す。『それ』の持っている『モノ』―――吸血鬼の身体の一つに向かって、走り寄る。
「………」
『それ』は手に持っている干乾びた死体を一瞥し、どれが婦人のいう『ディーゼル』なのか分からず、全てを前に放り投げる。宙でばらばらに解かれた四つの身体のうち、一つを婦人は抱え上げその顔を見た。
「ディーゼ、っ―――し、死んで……うそ、うそよ……ディーゼル!! あああぁぁぁ!」
そして婦人は泣き崩れた。愛する者のあまりに非道い亡骸に、凄惨な表情に、惨い最期に。
その慟哭に、群衆の多くは同情の視線を送っていた。
しかし、アーデルセンとグーネル公爵は絶えず『それ』を見ていた。
見覚えのある顔、正装に合わせて装飾させた王家由来の指輪―――それくらいしか、『それ』をアリスと判別できるものはなかった。
全身を濡らす赤黒い染み。それはすっかりと渇き、広がる様子がないことから彼女の血ではなく返り血によるものだと推測できた。
艶やかな白銀の髪。それは血呑みの儀に際しては肩口までの長さであったものが、背丈を通り越し地に扇状へ広がるほどに伸びていた。
身体も、新成人であるものの三歳分ほど成長が遅れていたものが今やその齢より三歳ほど上に見えるほどに成長していた。
そして顔―――どことなく見覚えのあるその顔は、あどけなさを感じた従来のアリスよりも、その麗しき美貌を振るいアーデルセンの心を射止めた、若き日の妃リリスフィーを想起させるほどに可憐に変貌を遂げていた。
アーデルセンがこの者をアリスと推定できたのも、身に着けている指輪とリリスフィーに似た顔立ちであったが為である。もしそれらの判断材料が取り除かれてしまっていたのなら、彼でもこの者を、迷い込んできた人間種もしくは他種の魔族であると断じていただろう。
「アリス、アリス…なのか。本当にお前なのか……しかし、その姿はどういうことなのだ…?」
「―――分かりません、父様。ただ、襲ってきたこの者達の血を吸っていたらこのような姿に―――」
ザワザワザワッ―――
アリスの言葉を聞き、群衆がざわめく。
アーデルセンは愕然と口を開き、グーネル公爵は目を見開く。
―――グーネル公爵は考えていた。何故自分の部下、それも全員が死んでいるかだ。全員、それぞれがスキルや魔術の熟練者であり、このナトラサの街において強者の部類に入る者達だった。それが全員、死亡。一方それを成し遂げたアリスに傷を負った様子はない。
戦闘にもならず一方的な虐殺となるほどにアリスは強かった? ―――いや、それは息子であるカネルから聞かされている儚げな印象のアリスとは乖離が激しすぎる。
それに、王が心を痛めるほどに血が飲めないことは知っている、初級魔術で危篤になるほど許容量が少ないのも知っている、戦闘に耐えうるほどの魔素を保有していない、これは間違いなかった。
ならば何故、奴は無傷で生き、部下は死に絶えたのか?
―――その答えを、アリスは口にしたのだった。
吸血!
なるほど、言われてみれば吸血処分されるヒトの死体と部下の死体は酷似していた。いつも見ているヒトの死体は老いた者ばかりの為、吸血されると枯れ枝のように細くなるが、今回は未だ瑞々しい若者であったが為に顔の判別が利くほどには身体の形状が残ったのだろう。
そして吸血とは、吸血鬼において名を冠するほどに重要な能力である。
飲血では血中魔素しか摂取できないのに対し、吸血では血中魔素、体内魔素、生気、魂、その全てを同時に摂取するのである。
その魂―――と言われているものが、魔素許容量の器であるとされている。つまり吸血すれば、その蓄えられている魔素を許容量の器ごと取り込めるのである。
大人の吸血鬼のうち、誰が最初に吸血されたか分からないが、その者を吸血するだけでアリスの力は格段に上がっただろう―――ヒト一人の吸血とはその効果は数百、あるいは数千倍の差がある。
そうして油断か混乱しているうちに更に別の者が吸血でもされようものなら―――残る部下たちだけで敵う相手ではない、化け物の誕生だ。
そして目の前のアリスは最終的には手配した部下全員分の器と魔素を手に入れたのだ。恐らく、手に入れた過剰な生気は彼女の肉体の成長や髪の伸長に充てられたのだろうと推測できた。
―――ともかく一刻も早く、迅速に対処しなければ取り返しのつかない事態になる。現状の推測と確認を行っていたグーネル公爵は次の差配に頭を巡らせた。
アリスはただじっと、吸血鬼の群衆を見回していた。
群衆も、王を含め誰もが呆然としていた。
考える時間はまだ僅かにあると―――そう思った矢先、ただ一人動く者がいた。
「あん、たが……っ! ディーゼルの、仇!!」
「なっ!? よせ、やめ―――」
グーネル公爵の制止の声は間に合わず。部下の亡骸に身を寄せていた婦人がわなわなと身体を震わせ、アリスに飛び掛かった。
―――ドシャァッ!!
吸血鬼において、婦人だろうが子供だろうが戦えぬ者などいない。その夫人も中級スキル持ちの、ヒトで例えるなら一流の戦士クラスの実力の持ち主だった。
しかし、あっけなく。ほんの一度瞬きする時間もあっただろうか? それほど短い時間の中で、飛び掛かろうとしていたはずの婦人は、逆にアリスの手により胸を貫かれていた。
その貫手は、どの吸血鬼の眼にも止まらぬ速さであった。
「がっ……ぎぃっ……!」
「ああ、ごめんなさい。身体が勝手に―――」
苦痛の呻き声をあげる婦人。それに対してアリスは表情を変えることなく謝罪し―――、いや、その顔を次第に妖艶なものに移していく。
「このままじゃ、勿体ないわね。いただきます―――」
「えっ、ぐ、ぎゃあああああああ!!!」
アリスは婦人の首筋へ歯を立てる。その歯はずぶりと皮膚を貫き、中から溢れる血を急速に吸い上げていく。
自分の身体や精神を構成しているはずの血が、魔素が、魂が、生気が抜け出ていく。婦人は身と心がばらばらに砕けていく苦痛と恐怖に絶叫を上げる。
「あ、ああぁぁ、ぁぁぁ……」
そして愛する者と同様、やがて完全に生気を失った抜け殻と成り果てた。時間にして僅か10秒―――その間に婦人を構成する全てを吸いだしたアリスは、快感に打ち震えた表情で出涸らしを投げ捨てた。
「「「「「………」」」」」」
その光景に、群衆のざわめきは止まった。
過去、吸血鬼を吸血する者がいたという話は聞いたことがない。同族であるから、という理由ではない。とても飲めるような味や臭いではないからだ。
飲血ですら叶わない。飲めれば、吸えれば、吸血鬼としての己の力を更に増強させてくれるものだろうという話は分かる。しかし、飲むに能わない。臭いで鼻は曲がり、口に近づければ吐き気を催し、一口含んだものなら身体は拒絶反応を起こし胃液ごと吐き出す。
そんな状態になるにも関わらず飲もうとする者は『異端』というよりも『異常者』だろう―――その『異常』の体験がアリスにとっての『日常』であったことに気づいた者は、この場において少なかった。
そしてしばらくの静寂の後、群衆にざわめきが戻り始める。
目の前にいる者が自分たちにとっての捕食者であることに気づいたのだ。圧倒的な力を持ち、自分たちの命を吸う者を恐れないわけがない。
いつ逃げるのか、それとも皆で攻撃した方が良いのか、群衆は周りの者の様子を互いに見合い、動く時と動き方を見定めていた。
「―――父様、お願いしたいことがあります」
しかし、動きはアリスの方に現れる。
彼女はその場にかしずき、首を垂れる。その仕草は血濡れになっても様になる、姫に相応しい出で立ちであった。
「……、なんだアリス、申してみよ」
もはや『異端』であることかどうかは関係ない、言葉を交わさなければならない状態である。
その為、父は娘の言葉に反応する。
「―――私を、殺して下さい」
ザワッ―――
群衆全員の息を呑んだ音が一瞬、大きなどよめきとなる。
アーデルセンもその中の一人であったが、いつまでも呆然としておれず、我に返り続きを促した。
「―――如何な心算だ、アリス」
「はい。『異端』となった今、この狭いナトラサの街で永い生涯を一人で過ごすのはあまりに辛い。更に『異端』となった要因が私の血の好みであることを自覚しました。
―――この甘美なる味、匂いが目の前にあれば私はそれに狂い、どうしても啜りたくなってしまうんです。
今後、それに耐えられる自信もなく約束も出来ず、これ以上誰かを殺める前にどうか、尊厳のある死を賜りたく―――」
「ふ、ふざけるなっ! 『異端』の分際で、ヤーツァルやヒューゴを殺しておいて今更何が尊厳―――」
その時、群衆より吸血鬼の青年が飛び出してきた。
―――恐らく、死んだグーネル男爵の部下の知人であったのだろう、彼は一歩を踏み出した。
―――グシャァアッ!
「―――えっ?」
瞬間、音もなく影もなく、光のように動いたアリスの貫手により喉を貫かれてしまったのだった。
「がっ、ひゅっ…!」
「―――ああ、またやってしまいました……ごめんなさい。いただきます」
「や、ひゅっ、っっっっっ―――!!!」
喉を貫かれた彼はまともな悲鳴を上げることもなく、アリスに全てを吸いだされ瞬く間に物言わぬ抜け殻となった。目の前で起こった凄惨な虐殺に、群衆は悲鳴を上げることもなくただその場に固まった。
「……アリスよ、何故その者を殺した。訳を言え…!」
そうアーデルセンの問う口調は震えていた。
アリスの強さに対しての恐れが半分、アリスの非情な行動に対しての怒りが半分、それらの感情を最早王として押し殺せずにいた。
「―――ごめんなさい、父様。何故か私、敵意を向けられると身体が勝手に反応してしまうんです。なので父様、そのお怒りになった顔は止めてください。うふふ、手が勝手に動いてしまいそうです」
「なっ…!?」
妖艶な笑みを浮かべ言ってくるアリスの言葉に、アーデルセンは驚き自らの手で顔の半分を覆い隠した。
恐怖したのではない。もちろん彼女の忠告を聞いて怒りを隠そうとしたのは事実であるが、あまりの告白の内容に、そしてそれを笑みを浮かべて語るアリスの変貌ぶりに驚き、開いた口を塞ぐ為でもあった。
―――この、目の前の化け物は、いったい誰なのだ。あの愛らしくも憂いを持った娘は、どこへ行ってしまったのだ……
「―――失礼します、陛下」
そしてアーデルセンの近くにグーネル公爵が寄る。その顔をアーデルセンの耳元に近づけると、周りに聞こえないように小さな声で腹心による具申、そしてそれを自ら見て判断した結果を報告し始めた。
「陛下、姫は敵意ある者に対しての奇襲スキル、『見敵必殺』を使っていると思われます…」
「なっ、『見敵必殺』だと? 上級スキルではないか…?!」
「はい、それも同時に動きの速さから『光陰如箭』も使っていると思われます。また、貫手の威力から『金剛力』以上の増強スキルの併用も考えられます…」
「なっ、なっ……」
アーデルセンの開いた口はもはや塞がらない。喘ぐような呻き声しか上げられない。それでもグーネル公爵の言葉は続く。
「―――また、これは私の部下からの具申になりますが。彼女の痛みを感じないという肉体的異常、これは感覚は残して痛覚のみを除外するという『無痛覚』のスキルによるものではないかと……」
「……何という、何ということなのだ……」
アーデルセンはそのとても信じられないような状況を聞き、しかしそれを否と断じることが出来ず、信じられないような面持ちでアリスを見る。
吸血鬼はスキルを習得するにあたり、魔素許容量から必要な分を資源として削る。例えば下級スキルであれば飲血で増える1年分、中級スキルであれば10年分、上級スキルであれば100年分がおおよその目安である。
もちろん、魔素の増える量に差があったり習得に相性があったりしてその限りではないことが多いが、平均寿命が180年ほどである吸血鬼において上級スキルを1つ持っていればそれはもう立派な熟練戦士として吸血鬼内でも名を上げられる。
それを少なくともアリスは上級スキルを2つ持ち尚且つ中級スキルも2つ持っている―――どう計算しても12歳の吸血鬼が持てる力ではない。
吸血鬼を吸血することによって怪物が生まれる―――それも、ごく短時間の間に、手も付けられない程強大な。
これを野放しにしたらどうなるか? ―――ナトラサの街は目の前の化け物の手によって簡単に壊滅するだろう。既に今の彼女ですら誰も見切れないほど速く動き、速く殺せる。そしてそれは吸血鬼を殺せば殺す程強くなるのだ……アーデルセンの目は、最早アリスを娘としてでなく、死をもたらす化け物としてしか映していなかった。
そして絶望の表情を浮かべるアーデルセンに対して、グーネル公爵はただ首を横に振る。
「陛下、申し訳ございませんが、今に於いては姫の申し出を受け入れるしか手がありません。ひとまず、ここは姫にスキルを解除頂き―――」
「それは出来ないのです、グーネル公爵様」
二人の囁き話に割って入って来たのはアリスであった。
聞こえないはずの声量で話していたアーデルセンとグーネル公爵はぎょっとしてアリスを見る。
「だって私、今おっしゃっていたスキルを使っているのかどうかも分かりませんもの。
『見敵必殺』? 『光陰如箭』? 『金剛力』? まったく分かりません。でも、『無痛覚』だけは自覚出来ます。おっしゃる通り、感覚はあって痛みだけ無いんですよ。長らくこの状態に心を痛めておりましたが、得心致しました。ご説明頂き、ありがとうございますグーネル公爵様」
「なっ……」
この場において場違いなまでに微笑むアリスに、絶句してしまうアーデルセン。
対してグーネル公爵は「『遠聞』、もしくは『長目飛耳』か…」と忌々し気に呟くのだった。
「さあ、父様。話を戻しましょう。
―――私を殺してください、父様。これ以上血を欲する前に、これ以上『餌』が飛び出してくる前に。でないと私―――うふふ、思わず殺してしまいそうになりますわ」
そう言って妖艶に舌なめずりをするアリス。その姿は、血を目の前にした妃リリスフィーそっくりであり、こうした顔になった際の彼女は自制が利かずに更なる血を求めてワインを傾けるのだった。
それを知っているアーデルセンは背筋を凍れる電流が走ったのを感じる。全身の肌が総毛立ち、化け物への畏怖に口の中がからからに乾く―――早く、一刻も早く、この化け物を殺さなければならない。
「わ、分かった―――お前の望むように死を与えよう。それで、良いな?」
「ええ、うふふ。ありがとうございます、お優しい父様」
その場において二者は片や慄き、片や笑っていた。
この際、慄く方が死を与える側、笑っている方が死を享受する側である。
倒錯した親子の感情、立場、表情―――そうして彼らは親子最後の約束を果たすべく、死刑台へと向かっていくのであった。