107.小話『ミチ、現実逃避する』、『ルイナ、またもややらかす』
◆ミチ、現実逃避する
「―――ところで、ミチさん」
「……ん?」
それは隣国クォーツ公国へ渡るための関所、その近くに位置する町オーレイに宿を取ったルイナとミチの間で交わされた会話の一幕である。
今、彼女達は昼食の最中である―――いや、正しくはミチだけが食事を摂っており、ルイナはそれを眺めているだけである。
吸血鬼である彼女は食事を摂る必要がない。そしてそもそも彼女には味が分からない。無味なそれらを噛み、飲み込むのは惨めな思いがするだけで、苦痛であった。故に彼女は食事を摂らない。
その事情を教えられたミチは初めこそ1人だけ食べることに罪悪感を持っていたが、半年も経つうちに慣れてしまった。彼女は今、ベッドの上で足を投げうちくつろいでいるルイナに眺められながら、黙々と食事を口へと運んでいた。
ちなみに、ミチはエルフ族の外見になってからというものの頑なに右眼を開けようとしない。訳を問うたルイナに対しても『約束だから』と言って理由を教えようとはしなかった。
そんな答えだったからこそ、ルイナも無理して聞くほどのことでもないかと思い、それ以来訳を訊いてはいない。そして、わざわざ片目を閉じ続けるのも億劫という理由から、ミチは今右眼を覆うよう頭に布を巻いている。これであれば目を閉じ続ける必要もない。あのままずっと閉じ続けていたら、瞼と頬の筋肉が痙攣を起こしそうであった。
「……んっ―――どうしたの、ルイナ?」
そうして片目で過ごしているミチは口の中のものを飲み下してからルイナへ問い返す。そんな彼女に対し、ルイナはぼんやりと眺め返しながら問うたのだった。
「食事が終わったら、どっちから水浴びしましょうか」
「…………」
問われ、ミチは黙る。
水浴びである。沐浴場へ赴き、身や髪の汚れを落とし、身を清める行為―――宿屋に泊まり、ベッドの上で寝る以上、就寝前には済ませたい行為であった。それは彼女の乙女たる矜持である。
だが、不可能。沐浴場へは衣服を身に着けて入れるわけがない―――よって、帽子で髪の毛を隠す等の手段は取れない。故に彼女が沐浴場へ行くことは、不可能。
……つまり、彼女は魔素が回復するまでの間―――おおよそ向こう2週間は水浴び出来ないわけであった。
「……ごめん、ルイナ。聞かなかったことにするわ」
「え? あ、はい……?」
そうしてミチは向き直り、黙々と食事を再開し始めるのであった。
戸惑うルイナがミチの想いに気づくのは、沈鬱な表情で食事を続ける彼女の様子をしばらく眺めた後のことであった。
◆ルイナ、またもややらかす
「―――ところで、ミチさん」
「……ん、どうしたの?」
それは隣国クォーツ公国へ渡るための関所、その近くに位置する町オーレイに宿を取ったルイナとミチの間で交わされた会話の一幕である。
今、彼女達は就寝に向けての準備中である。常の旅装を脱ぎ、それぞれ寝間着姿へ着替えてベッドの上でくつろいでいた。ルイナはぼんやりと天井を眺め、ミチは水浴び出来なかった現実を恨めしく思いながら髪を梳く。もうしばらくしたら蝋燭の火を吹き消し、寝るのみであった頃。
ルイナがミチへと問いかけたのであった。
「今思ったんですけど、魔素譲渡の儀式をすれば魔素の回復を早められるんじゃないかと思って……」
「………」
言われ、ミチは黙る。
……正直、考えていなかったその方法。確かに以前、魔素欠乏に陥ったカリーナをルイナがその術で回復させていたなぁと思い出したが―――しかし思い直して頭を振る。
「ダメよ、あれって血を混ぜなくちゃいけないんでしょ? それだけは絶対に嫌」
ルイナが血を垂らし、それをカリーナの血流に流し込んでいた行為を思い出し、その方法を拒絶する。
人間種社会において、他人の血を取り入れることは禁忌とされている。それは生まれつき異種族混合の血を持つ者を『異端』とする制度とは全く別物であり、より単純な理由で禁じられている。
死ぬのだ。他人の血を自らの血流に流した者は、その異物たる血が元となり、内より壊れ死に至る。中には、親族間で血を交わすことが出来た事例もあるようだが、その成功要因は解明できていない。
よって、親族でもなければそもそも同種族でもないルイナの血を受け入れることは自殺行為に等しい。それに―――
「っていうか運よく生き残れたとしても、その時あたしってもしかしたら吸血鬼になっちゃうんじゃないの?」
ミチは昔聞かされた御伽噺を思い出していた。吸血鬼が自身の血を相手に流し込み、眷属として使役したという伝承を。
もしその話が本当であれば、血を受け入れることで良くて吸血鬼、悪くて死ぬ―――いや、この際良し悪しは逆にしても良いかもしれない。
ともかく、そんな利のない大博打に出るほど切羽詰まっているわけでもないのだ。ただ、水浴び出来ない―――それだけなのである。
そんな事情をミチは語って聞かせ、ルイナからの打診を断るのだった。
「なるほど……でも、儀式は血の共有をしなくても出来ると思いますよ?」
「―――そうなの?」
一方、話を聞き終えたルイナは魔素譲渡の儀式の仕様を語る。
かの儀式において最も大事なものは、繋ぐことである。相手と自分を繋ぐ媒介を用意し、繋げれば儀式は成り立つ。そこへ魔素濃度の高い触媒や血の親和性もあれば効率は良くなるが必須というわけではない。
あの時はカリーナを救う為に最善を尽くそうとした結果、血を注いだまでである。他人の血が混ざるとヒト族は死ぬということは知らなかったが、そういうことであれば血の親和性抜きにして試すくらいなら出来ると、ルイナは再度打診したのであった。
「ふぅ〜ん…」
ミチは唸る。聞くに損のない話であるように思えた。
「―――分かったわ。それならやってみましょうか。お願いできる?」
「はい、任せて下さいっ!」
こうして儀式の契りは交わされた。
今宵、自身はミチの役に立てるのだ。ルイナは鼻息荒くして頷き、喜々とした表情で儀式の準備を始めるのであった。
「―――我は君。血を結び、緒を紡がん」
木造の一間。四方に置かれたベッドの中心。そこにルイナは立ち、朗々と唱える。
彼女の身から魔素が零れ始める。それらは白の輝きを放ちながら宙を舞い、術者より命を与えられる時をひた待つ。
「―――君は我。血を捧げ、緒を絆さん」
やがて命じられた魔素が一本の軌跡を描く。それは彼女と触媒、そして神妙な面持ちでベッドに座るミチの胸元を繋ぐ―――此度、触媒として使われているのは前回同様ミチの血である。
コップに注がれたその血には、ミチとルイナの毛が一本ずつ沈められていた。彼女達を繋ぐ媒介である。しかしそれは彼女達を繋ぐ軌跡へと既に姿を変えている。
「―――我と君。血を倶にする朋なれば、頒とう。其は祖なる素、魔なる力を今与えん!」
そうして呪文を唱え終える、と同時にルイナは自身の中で魔素が減ったのを感じる。
「……っ?」
しかし、怪訝に呻く。放出できた魔素の量が想像以上に少なかったからである。
―――ここで、今更であるが彼女が自分の魔素許容量に対して、いかなる認識でいるかを改めて語ろう。
彼女は物心覚えてより長く血が飲めず、魔術も使えず、スキルも使えない『無能の吸血鬼』であった。その自己認識は、なんと今もって大して変わっていない。血が飲めず、魔術も使えず、何故かスキルだけ身についてしまった吸血鬼―――そんな認識を抱いているのである。
そう。彼女は未だに、自分が何故スキルを使えるようになったのか分かっていないのだ。その原因に心当たりは有れど、吸血鬼の血を吸うという行為がいかに異常で、いかに脅威であるかを認識していないのだ―――端的に言おう。彼女は『吸血』と『飲血』の効果の差を、知らないのだ。
『吸血』とは、吸血鬼にとって名を冠するほどに重要な特性である。血を吸うことによって彼らは対象の生気や魂までも吸い尽くす―――生気とは体力、魂とは魔素許容量の器である。彼らは血を吸えば吸う程、相手の強さを吸収することが出来る。ただ血に含まれている魔素を摂取するだけの『飲血』とはその効果は大きく異なるのだ。
そのことを、彼女は知らない―――当然である、誰も教えていないのだから。
吸血とは、ナトラサの街において窘められる行為であった。血を飲む悦びを覚えた子に対し、間違っても家畜の血をそのまま吸おうとしないことと、親より禁じられる行いであった。
―――吸血されれば、ヒトは血が枯れるよりも前に生気と魂を吸いだされ、屍となる。彼ら吸血鬼にとって家畜は重要な資源である為、欲に駆られて吸血しないことと口酸っぱく子に教えるのが親の役目であった。
逆に、血を飲むことを嫌がり続けたアリスに対し誰も吸血するなとは言わなかった。であるからして、そもそもその吸血とは何ぞやという教育すらしたことがなかった。そんなわけで彼女は、『吸血』と『飲血』の違いも分からない吸血鬼となってしまったのだった。
―――そうして今に話は戻るが、彼女は変わらず自分の魔素許容量は極めて少ないと思い込んでいるのである。その実、大人の吸血鬼6人分の魔素許容量を蓄え込んでいるにも関わらず。
彼女の認識では、自身の魔素許容量は例えるなら摘まめる程度の小さな杯。元々そこに入っている水の量は一口に飲み切れるほどの量しかない。他の同い年の吸血鬼が盆であったり大杯であったりするのに対し、何とも心許ない器であると思っている。
そして此度、そこから放出できた量は例えるなら小さな杯のふちから零れた一滴。その程度では魔術師であるミチの魔素枯渇を救うには足りない。不足が過ぎる。
「……ん、んんっ…!」
そんなわけで彼女は目を閉じ、歯を食いしばる。脳の負担を儀式の制御に大きく割り当て、せめてもう少しだけでも―――と思い、彼女は踏ん張る。
―――さて、彼女は大きな勘違いを侵している。彼女の魔素許容量は小さな杯ではない。盆や大杯、バケツや樽程度でも収まらない。
例えるなら今宵彼女が入った沐浴場、それである。
そして今、なみなみと水が張られた沐浴場の底に1つ穴が開けられる。果たしてそこより零れる水は一滴で済むであろうか?
―――断じて、否である。
「わーっ! 待った、待ったルイナ! ちょっと待って!!」
「……?」
儀式に集中しようとしていたところ、制止するミチの声が聞こえてくる。
何事かと目を開き、事態を確認しようとしルイナは―――
―――ブパァァァァァッ!!
「いっ、ぎゃあああああぁぁぁっ!!?」
「きゃぁっ!?」
彼女達を結んでいた魔素の繋がりが爆発するところを直視してしまう。
繋がりに詰め込まれた魔素は四散する。それはいずれも白の輝きを煌々と放ち、世界は一瞬で白色に蒸発する。
「……っ!」
真っ白である。視界の全てが白光に溶け、反射で目を閉じるが瞼の裏よりなお透けて白が襲う。
彼女は痛みを感じない。しかし眩しいという感覚は残っている。故に襲う眩さに負け、手で顔を覆う。
―――そうして耐えること数秒、やがて手の隙間より襲う白が落ち着いてくる。
「……?」
恐る恐る、手を外し瞼を開ける……と、何故か世界が赤と黒に焼かれていた。
……何度も言うが彼女は痛みを感じない。しかし傷みはあるのだ。今、彼女の眼は陽光直視よりも惨い仕打ちを受けたばかりである。故に目が焼かれ、視界がおかしくなっているのだ。
「っっっっ、っっぅぅぅ、ぅぅぁああ!! 莫迦ぁっ! やっぱり、莫迦ルイナぁっ!! っぁああ! 目が、痛いっ!! 痛いぃぃぁぁあっ!!」
そうして目の前にはミチ。目を手で覆い、ベッドから転げ落ちてなお床を転がり、悶絶している。
―――また、儀式は失敗してしまったのだ。とことん、自分は魔素譲渡の儀式と相性が悪いのだと嘆きながら、ルイナは床を転がるミチへ謝る。謝りながら、彼女の身を起こすのであった……
「……ん?」
「あれ、ミチさん……」
やがて2人の目の異常が収まってきた頃、彼女達の瞳に映ったのは赤色の髪。
常の柔らかそうな毛質に赤茶色の毛色。そして目は灰色より青色へ―――見慣れたミチの姿がそこにあったのであった。




