94.アリス
―――私の右手は、父様の左胸を正確に突いた。
―――抵抗は、ない。
ただ、懐に潜り込んだ私は、大きな腕に抱きしめられる。
熱い―――熱い何かが、私を濡らす。
そして、撫でられる。頭の上に、大きな手のひら。
温かい―――そして、優しい感触。
私は――――――笑えない。
笑え、なかった。
「……っ、ぐ、っ、ぇっ―――」
―――だめ、だった
………泣いて、しまった。
「なん、でっ、っ、―――なんで、っ……!!」
叫ぶ。あまりの理不尽に、泣き叫ぶ。
―――私の身体は、勝手に動かなかった。
……知っていた。父様が構えても、『見敵必殺』が発動しなかったから。
だから、父様は、私に―――何もするつもりがないって、知っていた。
ただ、そこで私を待っていただけって、知っていた。
―――私は、それを、知っていた。
それでも、私は、父様を殺したかった。
殺して、化け物になりたかった。
もうこれ以上、誰かを信じるのは……誰かに裏切られるのは、嫌だったから……
「どう、してっ―――」
でも、私は、裏切られた―――
私はまた、自分の力に、裏切られたのだ。
「どうしてっ……!!」
私の右手は―――何でも貫くはずの『蟷螂之斧』は、胸を貫けず。服と皮膚の薄皮を裂いただけで、一切の力を発揮せずそこに留まっていた。
―――私は化け物。最強の存在。
だから、笑っていられた。
だから、心を失くしていられた。
でも―――これじゃあ……これじゃあ……っ!
「アリス―――!!」
「……!!」
強く、抱きしめられる。
私を濡らす涙が、多くなる。
「私を殺したいのなら殺せ! だが、ただでは死なん! お前を同族殺しに、悪の道になど走らせはしない! 私の命に代えてでもお前をここで止めてみせる!」
「っ……」
「アリス、我が愛しの娘よ! ―――すまなかった。
私は、泣くなと言って、お前から笑顔を奪ってしまった。他者と比較して、お前から幼さを奪ってしまった。血を飲めと言って―――お前から、お前らしさを奪ってしまった…」
「っ……」
「私は間違えていた。色んなことを、色んな場所で、間違えてしまっていた。娘ではなく、姫を選び。子ではなく、民を選び。愛ではなく、誇りを選んでしまった。
―――その全てが間違いだった! 私が真に必要としていたのは―――いや! 私が本当に欲しかったものは、選ばなかった方だったのに! 私が本当に大切にすべきは、選ばなかった方だったのに!! ……その過ちに気づけたのは今更で―――本当に、本当に、今更で………」
「っ……、っ……」
「だから、アリス! 憎みたくば私を憎め! 殺したくば私を殺せ! 私には罪があり、お前にはそれを裁く権利がある!
―――だが、1つだけ願いを聞いてほしい。民には……街の者には手を出すな。
お前は強くて優しい子だ。誰かの為に何かを為せる子だ。だが一度街の者に手を出せば、お前はきっと自分を許せなくなる。後戻りが出来なくなる」
「っ―――!」
「これだけは、勝手な願いだと笑ってくれるな…! 私の―――私達2人の、願いだ!
姫だとか王だとか妃だとか、そんな役割は関係ない! ただ1人、愛する娘に対して―――私達2人から唯一願う、望みだ。
―――幸せを望める道を、お前に歩んで欲しいと願っている、親心だ……!」
…………ああ。
「頼む、アリス…!!」
……そうか。
「私の、最期の、願いだ……!!」
これが、父様の、本心なんだ……
「アリス……!!!」
だったら、私は―――
私の、本心は……
…………。
……ああ、そっか。
「………っ」
―――やっぱり。
「っ……、っ」
―――やっぱり、この右手が。
………私の本心なんだ。
「……父様を殺しちゃったら、私、絶対に自分を許せなくなっちゃうよ……」
「ッ、あ、アリス……?」
抱きしめてくる、力が緩む。
その隙に、抱く腕の中から頭を這いだす。目の前に、紅い瞳。
私とおんなじ、目つきの悪い、深紅の瞳―――涙で濡れているのも、私とおんなじ。
言ってやりたい。この瞳に。
聞かせてやりたい。この分からず屋に。
伝えてやりたい―――私の、今更を……!!
「―――父様なんて…………大っ嫌い!!」
「なっ―――」
止まらない。
「何でも私のこと分かったような顔をして、父様、私のこと、なんにも分かってないっ! 父様を殺して、それで幸せの道を歩けだなんて―――そんな勝手な言い分!
無理に決まってるでしょう!? 民よりも何よりも、父様が歯止めにならないでどうするの!? 私は血も涙もない娘なの?! もし父様を殺して我に返ったら、死にます! 自殺します!!
―――嫌い! 私のこと何にも分かってくれていない父様のことなんて、大っ嫌い!!」
「なっ……い、いや、アリス――――」
言葉が止まらない。
「吸血鬼だって、嫌い! ヒトを飼ってて野蛮だし、血を飲めないと変人扱いされるし、異端とか変な制度があるし!!
この街のことだって、嫌い! 暗いし、陰気だし、空は見えないしお花も生えないし、狭いし、土臭いし、良いところなんて1つもない! 大っ嫌いよ、こんな街!!!」
「アリス、お前、いったい―――」
あふれ出る言葉が、止まらない。
「カリーナのことだって、大っ嫌い!!
私のことなんて、まったく見てくれなかった。いっつも父様と比べられた。いっつも、父様のことばっかりしゃべってた! カリーナは、私のことなんて父様の付属品くらいにしか見ていなかった! 絶対そうよ!!
それに、あそこにいるグーネル公爵なんて、もう大大大っ嫌い!!
何よ澄ました顔して、焦っているのバレバレなのよ!! 私がそんなに怖いんなら、素直にそう言ってよ! 私が嫌いなら、はっきりそう言ってよ! 私に死んで欲しいのなら、もっと傷つけないで済む方法を考えてよ!!
私だって……生きているのよっ、心があるの!! 民の為だとか国の為だとか王の為だとか、そんなに他人のことを考えるのが偉いんなら、私の気持ちも少しは考えてよ!!
異端だとか敵だとかなくても、共存、できたでしょう…!? 私は、一日一杯の血で十分だった! 私は、我慢の出来る子なの!! こんなに吸血鬼がいるんだったら、私1人を養うくらい、どうってことなかったでしょう?!
他人を蔑むのはやめてよ! 蔑まれたら、追い込まれちゃうでしょう!? 追い込まれたら―――敵になるしか、なくなっちゃうでしょう!?
私は―――ただ、静かに暮らしたかっただけなの……!!」
「……アリス」
溢れる想いが、止まらない。
「―――だけど……!!
だけど!! 私は、私が一番嫌いだ!!!
悪いことは全部他人のせいにして!
それを口に出さないでため込んで!
耐え切れなくなったら、力で解決しようとする。笑って、心を誤魔化そうとする。強がって、痛みを知らないふりする!
全部、全部壊そうとして!
その理由を他人のせいにしようとして!
泣いたら泣かせた奴が悪いんだって!
怒ったら怒らせた奴が悪いんだって!
自分の悪いところ、全部見ないふりして!
……最低なやつよ、私。私が一番、私のことを蔑ろにしている。
私は、自分勝手な私のことが―――大っ嫌い!!」
「アリス―――!」
――――――声が、漏れる。
私はまた、強く抱きしめられた。
強く、強く抱きしめられて―――でも、もう胸の中には何もない。嫌いなものは、全部、全部、吐き出した。
―――そこを代わりに埋めてくれるのは、抱擁の温もり。濡らしてくるものの、熱さ。
………私―――
「―――私、生きて、いいの?」
「っ、ああ!!」
「―――私、本当に、生きていても、いいの?」
「ああ!!」
「私―――わ、たし、をっ、…許して、くれ、ぅっ、るの?」
「ああ!!!」
……嬉しい。
「……許して欲しいのは、私の方だ、アリス。
私の為に傷ついてくれて、私の為に頑張ってくれて―――ありがとう、そして……すまなかった」
「っ! ぐっ、ぅぅっ―――!」
……嬉しい。
「―――泣いていい。
甘えていい。
血など飲めなくたっていい。
私達はただお前が生きていてくれれば、それでいいのだ―――アリス。私達の、可愛い、アリス」
……あぁ。
うれ、しい―――
「ひっ、ぐっ、う、ぇっ、お、とう、さ、ぁぁぁぁっ!! ――――――」
その慟哭は今度こそ、求める者の胸の中で受け止められる。
悲しみは涙となって、寂しさは嗚咽となって、彼女の内より流れ出ていく。
―――夜が明ける。
すれ違い、一度は歪んでしまった繋がりを正すように、親子は語らい、お互いの本心を伝え合うのであった。




