92.遠き日の夢、今届く想い(後編)
「いつまでも、幸せに暮らしていければ良かったのにね……」
何かが軋む、音が聞こえた。
私には、それが何かは分からない。しかし、何かが壊れた、予感がした。
―――おかしい。リリスフィーはあの時、『いつまでも幸せに暮らしましょうね』と言ったはず……
『っ―――』
いや、待て。おかしい。私は今、何を考えていた? あの時とは、いつのことだ? いったい、私は何を知っているというのだ?
狼狽える。目に入るものは変わらない。私の部屋、灯る明かり、熱をもって見つめてくる愛しのリリスフィー……
「―――ねえ、あなた」
そのリリスフィーが、私の知らない言葉を語る。
「もうそろそろ、起きませんと。アリスちゃんに怒られてしまいますわ」
『ア、リス―――?』
誰だ、それは―――知らない。それはまだ、私が知らないはずの―――
『っ!!!』
軋む音が、再び聞こえる。
同時に、頭に走る、鋭い痛み―――頭を振って、それを追い出す。
『―――何を言っているんだ、リリスフィー。私はもう起きているではないか』
「いいえ、あなた―――あなたはまだ、夢の中。幸せな、幸せだったあの頃の、夢の中」
そう言って、リリスフィーは手を差し伸べてくる。
頬を撫でられ、溢れてくる幸せの感情と―――
何故か、涙。
『……っ、違う。違うぞ、リリスフィー。ここはお前が、生まれてくる子はどんな子でしょうねと聞いてくるところだ。そうだろう?』
「………」
手を握る。細い、小さな、手であった。
そうだ。リリスフィーの手は、小さかった。リリスフィーの腕は、細かった。
『それで、私はこう答える―――娘であれ、息子であれ、よく笑い、周りを癒し、そして民を良く導く者になって欲しいものだと』
「―――そうですね」
リリスフィーの頬が、おかしそうに笑う。
そうだ。リリスフィーの微笑みは、美しかった。リリスフィーの笑顔は、いつも私を癒してくれた。
『そして、その為にはよく出かけ、よく民のことを知り、よく世界を知ることが大切だ。読書も大切であるが、本当に大切なことは外でこそ学べる。活力と好奇心を持った子に育って欲しいと、私は答えるのだ』
「―――そうですね」
リリスフィーの瞳が、眩しそうに細められる。
そうだ。リリスフィーの豊かな表情が好きだった。私は、リリスフィーの全てを愛していた。
『そして何より、強くなって欲しい。血を飲み、魔術を修め、スキルを身に着け、誰にも負けぬ力を手に入れて欲しい―――そうして私が生きている間に王位を継がせ、子が王を務めるところを見たいものだと……私は…っ、答えたのだ…』
「―――……そうでしたね」
リリスフィーの瞳から、涙が一筋零れ落ちる。
そうだ。リリスフィーといれば幸せであった。リリスフィーと共にいるだけで、私は幸せだった。
『私は―――私はっ……』
私は―――共に、生きたかった。リリスフィーに、生きて、欲しかった。
―――ああ、分かってしまった。もう、分かっている。これが夢でしかないことくらい。
リリスフィーは、死んだ。死んでしまったのだ。
もういない。どこにも、いないのだ―――
こうして夢で逢うしか出来ぬリリスフィー。ああ、何たる、愛しさ。そして、何たる、残酷さ。
込み上げた熱が氷のように冷め、生きる喜びが絶望へとすげ変わる。
そして、夢は夢であると知り、私は覚めて泣くのだ。もう、幾度繰り返したか分からぬ目覚めである。
―――軋む音が、鳴り響く。ああ、夢が終わる。これは夢だと気づいてしまって、いつもそこで覚めるのだ。
リリスフィー……ああ、リリスフィー……ひと時の温もりは、心に欠片も残っていない。あるのは、心を埋めるのは、悲しさだけ。
せめて最後に、抱きしめたい―――しかしその願いは、いつも叶わず。私は夢から覚めていく。
私が伸ばした腕は宙を掻く。
掻いて、感じるのは微睡の重さと冷たさ、そして暗さだけ。
そうして私は悲しみの海に、永劫、溺れ続けるのだ……
しかし、今。
「でもね、あなた―――」
手を、握られる。
引き寄せられる。
抱きしめられる。
私は今、リリスフィーの、胸の中にいる。
―――――――ああ、ああっ、リリスフィー……
その時、私は愛する者の温もりを、確かに感じるのだった。
「あなた、その時、こうも言ったのよ。
だが、結局はどんな子であろうと構わないって。
笑わずとも、他人とは話せる。
外へ出ずとも、子は育つ。
血を飲まずとも、生きていける。
大切なのは子が自身の道を見つけた時。
道を逸れず、道を恐れず、突き進む意思さえ持ってくれたらいいって。
親として出来ることは、間違った道を選ばないよう、見守ることだけだって。
そう、あなたは言ったのよ」
―――ああ、そうだった。
そうだったな、リリスフィー……
「その時、私もね、どんな子だっていいって答えたの。
だって、生まれてきてくれるだけで、嬉しいんですもの。
私をお母さんって呼んでくれて。
あなたをお父さんって呼んでくれて。
私はお母さんになって。
あなたはお父さんになって。
私たちは、1人、大切な家族を迎えいれて。
―――それだけで、幸せなの。
よく泣く子だっていい。
お母さんに甘えてばかりの子だっていい。
全然血を飲みたがらない子だっていい。
大切なのは、その子が、その子なりの生き方を見つけた時。
それを応援してあげることじゃないかしらって、思うの。
失敗しても、慰めて。
悪いことをしても、話を聞いて。
喧嘩をしても、仲直りをして。
もしも家出した時には、探し出して。
何か良いことがあった時には、喜んで。
1つ1つ、思い出を増やしていって。
―――そうやって、その子のことをずっと見続けてあげるのが、私たちの役目じゃないかなって、私は言ったの」
―――ああ、そうだった。
本当に、君は、その通りだったよ、リリスフィー……
「―――ねえ、だから。お願い、あなた―――」
胸に抱く、リリスフィーの感触が、薄れていく。
軋む音は聞こえない。これはきっと、夢ではない。
―――夢なんかで、あるはずがない。
「―――――――――――――――」
―――ああ。
分かったよ、リリスフィー。
私は、きっと君の願いを――――――いや。
私たちの願いを――――――――――
「っ―――」
目を覚ます。
長い、長い眠りから彼は解放されたのだ。
―――ずっと、ずっと悪い夢を見ていた気がする。子を失くし、妻を亡くし、国を捨て、部屋へ籠り、己を失くし、違う女を妻と思い込み、抱く。
そして最後は―――、最後に―――
「っ!!」
彼は身を起こす。
気づいたのだ。気づかされたのだ。胸が叫んで、想いを発して。
その全てが、現実であることに―――
そして、為すべきことがあることに―――
「どうされたのですか、あなた?」
声を掛けられる。
問われ、彼は隣を見る。そこにいたのは、一糸纏わぬ女であった。彼女は彼にしな垂れかかり、その双丘を彼に押し付け、微笑みかける。
水色の双眸、銀の髪―――およそ、共通するのはそれだけの、まったくリリスフィーと似ても似つかぬ女。
彼は悟った。この女だ―――この女を、自分はリリスフィーと思い込んでいたのだ。
「っ―――すまない!」
「えっ、きゃっ―――!」
彼は彼女を押しのけ、立ち上がる。
妻の幻影はちらつかない。彼が愛する者は、今、彼の胸の中に遺っている。
―――探さねば……!
彼の想いは1つだけ。
彼を動かすものは、ただ1つの想いだけ。
その想いは、大きく、重い。
2人分の願いが1つに重なり、労苦を背負うに慣れた彼は、彼らしく眼を見開く。
強い意思でもって現実を睨む―――彼が嫌い、彼女が愛した瞳が、そこに戻った。
(……アリスちゃんを、きっと―――)
……アリスを、必ず―――
「救ってみせる!」
彼は脱ぎ捨てられていた服を引っかけ、部屋を出る。
彼が今生、生きる目的は既に1つ。
娘を救う――――ただ、それだけである。
「ふふ、うふふ―――」
そうして部屋を出た彼は、その現実を知る。
破壊された廊下、地に伏すカリーナ、絶望に瞼を閉じるグーネル公爵。
そして、可笑しく嗤う、見慣れぬ少女の後ろ姿―――
しかしそれは彼にとって、決して忘れることの出来ない背中であった。
あの時、死を望み、睨んだ。
あの時、追えず、見送ることしか出来なかった。
―――愛する娘の背中に、間違いなかった。




