90.死への望み、等しい想い
「――――――」
言葉を紡ごうとして開いた口は、ただ無音を発するのみ。
彼、グーネルはこの場において、どのような発言をするが正しいか、刹那の間に思考する。
何故だ、どこで狂った―――彼は目の前の脅威を見下ろし、事ここに至った経緯を思い返し―――
(莫迦なっ……違う! そうではない!)
瞬時に思考を切り替える。
この場を切り抜ける為に、種を存続させる為に、化け物の怒りを鎮める為に―――経緯を振り返ることに意味などない。
それが虚勢であれば、まだ意義はあるのかもしれないが……目の前の化け物が瞳に映す色を見て、彼はその可能性を否定する。
そこにあるのは、憎しみだけ。決して鎮まらぬ怒りの眼であった。
自分達の、過去から今に至るまでの言動が、化け物の逆鱗に触れた。それを事実として受け入れ、今はこの場をどう切り抜けるか―――それが真の大事である。
「―――逸るな。ルイナよ」
寸刻の後、彼は抱く焦燥をおくびにも出さず、まとまらぬ思考のままにルイナへと語りかける。
これより話すこと、その一切を決して不審に思われてはならない。優位は未だ彼の手中にあると、彼女へ思わせなければならない。
その為に、彼は強者を演じる。
「我らを滅ぼすだと? 大きく出たな、ルイナよ。確かに一年前、我らは貴様に対し手の打ちようなく、好きなようにさせてしまったが―――今は違う」
「……そうですか」
彼の必死な騙りに対し、彼女の反応は非常に薄い。
落胆とも悲嘆とも取れるその声音であったが、違う。その眼を捉えているグーネルには分かる。
嘲りでしかなかった。脆弱な、矮小なる存在が何事か囀っているのを見ているかのように、彼のことを無味に眺めている。
―――まずい。まずい、まずい! 彼が抱く焦燥はますます焦げ付く。それを面に出さないよう―――しかし、抑えきれず僅かばかりに早口になりつつ、続きを語る。
「貴様のことはこの一年、ハヴァラをつけさせ調べていた。故に我らは、貴様が習得しているスキルのことを、全て把握している」
「……へぇ」
―――初めて、化け物の眼に負ではない感情の色が見えた。
それは興味、関心―――だが、本当に興味を抱いているのか、定かではない。彼にルイナの表情の機微など、分かるはずもない。ろくに会わず、ろくに話さず、血の飲めない異分子だと見下げていた娘となど、成人の儀になるまでろくに顔を合わせようとしてこなかった。
故に、この場において彼が信じられるのは、今生培ってきた鑑識眼―――それのみである。
そしてその眼は今、自己不審の様相を呈していた。その眼が捉えたものを、信じて良いのか定まらない。
それでも、信じて行くしかない。彼は口角を吊り上げ、余裕を演出し、ルイナを見下ろす。
「『光陰如箭』、『蟷螂之斧』、『長目飛耳』、『見敵必殺』、『無痛覚』……この5つだ。貴様が習得している力はこれで全てであり、これらのスキルに頼らねば貴様がろくに戦えぬことを、我らは知っている」
「……それで?」
それで? ―――それでではない。グーネルはルイナの返答に虚を突かれ、一瞬言葉を詰まらせる。
彼女が能動的に使用できるスキルは『光陰如箭』、『蟷螂之斧』、『長目飛耳』のみなのだ。これら3つのスキルだけでは、戦闘の技術も経験もない単なる小娘が、吸血鬼に敵う道理などない。
戦う理を強制する『見敵必殺』さえ発動させなければ―――つまり、例えば視覚外からの奇襲を行なえば、彼らは彼女を容易に殺せるのである。
『求生反射』さえなければ。
―――そう。攻めにおける『見敵必殺』同様、守りにおいてもスキル保持者へ合理を与えるスキルがある。
生きる意思を持ち続ける限り、危機へ必ず反応するスキル『求生反射』―――これと『光陰如箭』が併用できる彼女は、何があっても殺されることはない。どんな状況であろうとも、例え睡眠下であろうとも身体は勝手に反応し、何者かに捕らえられていようと発動条件を無視し、危機及ばぬ地へ身を遠ざける。守りにおける完璧な組み合わせである。
故に―――吸血鬼の誰であっても、何人がかりであろうとも彼女に害を為せる術はない。それが事実である。
―――しかし、その事実を彼女は知らない。自分が死なずの化け物であることを理解していない。
故に、『彼女の力の全てを知っている』という言は、それだけで彼女の暴走を抑える力となるはずであった。
……だからこそ、『それで?』と冷ややかに返されてしまったグーネルは思考を僅かに鈍らせる。しかし動揺を映さずに、彼は言葉を続けるのであった。
「それで、とは―――いやはや、かの姫はそこまで愚かであったか……理解できないのか? 貴様の力、貴様の弱点、それを我らは把握していると言っているのだ。つまり、『見敵必殺』さえ発動させなければ貴様など容易く―――」
「でしたら―――」
息を吐き、グーネルが呆れに語って聞かせていると、ルイナはその言葉を遮り、語る。
「―――私を殺してみせればよいではありませんか、グーネル公爵様?」
そして、せせら笑う。その唇を醜悪に歪ませ、可笑しそうに嘲笑う。
はったりに対して、化け物が乗ってきてしまった。本当に殺せるものなら、本当に恐れていないのなら、牙を剥け、突き立ててみせろ。そう言ってきたのだ―――彼は焦る。しかしまだ、道はある。
「重ねて言うが、逸るな、ルイナよ。我らに貴様と争うつもりはない。互いに無意味な血を流すよりも、貴様とは今後の不可侵を―――」
「……ねえ、公爵様―――」
カツリ―――と、音が鳴る。それは、踏み抜かれ、絨毯も床も消し飛んだ地肌に一歩を進めた、ルイナの靴音であった。
「茶番はもう、たくさんです」
「―――何?」
歩みを進め始めた化け物に、グーネルの思考が警鐘を鳴らし始める。
その歩みは死神の一歩である。彼我の距離はそのまま冥府への距離である。それが0になれば、訪れるのは確実な死―――だが、彼はその警鐘を掻き消す。今は怯えている時間など無い。
しかし消した矢先、新たに鳴り始めたのは焦りの鼓動。脈打つ。何をもってルイナが『茶番』というのか、それに対しての答えを、彼は1つしか見つけられなかったからである。
……そんな、いやしかし、まさか―――動揺を心中に押し留めたグーネルは、しかし続く彼女の言葉を聞く。
「本当は、私を殺せないのでしょう? ―――私、貴方達が危惧している『それ』を知っているんですよ?」
「―――」
グーネルはここへきて、アリスの背に控えるハヴァラを刹那に見やる。
昨日、彼から受けた報告では『求生反射』をルイナが知っているという情報は、無かった。だからこそルイナを追い込み、今も彼女を謀った。
それが―――前提であるその情報が間違いで、もし彼女が『求生反射』のことを知っていたのであれば―――ルイナの言う通り、彼の言動は茶番以外の何物でもない。彼の思考、彼の騙りは時間稼ぎにすらなり得ない。
しかしその視線を受けたハヴァラも、刹那の間に僅かに首を横へ動かすしか出来ない。彼がルイナへ尾いていた一年前より2日前まで、少なくともその間彼女は『求生反射』の存在を知っている素振りを見せなかった。
第一、そのスキルが発動したのは王都近くの森における、レンジャーから攻撃を受けた際のみである。その時、彼女にスキルを発動させた自覚はなく、そのまま『求生反射』の存在は知られていないままである―――はずだった。
―――彼らの視線の交錯は、一瞬。戸惑いも、一瞬。
しかし、その瞬間を化け物は捉えていたのだった。
「あははは! やっぱり、そうだったんだ!」
「っ……!」
謀られたっ―――! グーネルは瞬時に視線を目の前のルイナに戻すものの、時すでに遅し。化け物は悦を顔に映し、笑っている。
彼らの戸惑いが、その視線に射抜かれたのだ。戸惑うとはつまり、図星であるということだと―――しかし、グーネルは絶望に埋め尽くされそうになる思考を、奮い立たせる。
……まだだ。まだ―――否、絶対に、諦めるわけにはいかないのだ!
「―――何を悟った気になっているか解らぬが、ルイナよ。貴様がこの場で争いを選ぶのであれば、我らも手段を択ばぬぞ」
「―――………」
グーネルは強者を演じ続ける。主導権は自分達にあると眼で騙る。
……強気に出たその言は功を奏したのか、彼女は悦に入った笑いを潜め―――ふぅ、と短く息を吐く。
そして、カツリ―――と、甲高い音が響く。
「……グーネル公爵様。私、無能と言われ続けてきた者ですが、1つだけ特技があったんです」
カツリ、カツリ―――音が鳴る。化け物の足が、再び歩みを始める。
「それは、成り切ること。相手がどんな私を求めているのか察して、無意識にそれを私に当てはめること―――私、先ほどまで、まんまと成り切っていたんですよ? 死にたい、生きたくない、死んだほうがいいんだって」
カツリ、カツリ―――音が鳴る。化け物の言葉が、グーネルの表情を青くさせる。
「そんな特技があるなんて、自覚もなかったのですが―――でも、今なら分かります。貴方は私に死んでほしいって願っていたんです。だから、私は死にたいと願っていた。その想いは、同じなんです」
カツリ、カツリ―――音が鳴る。化け物の歩みは弧を描く。床に出来た穴を避け、壁に近づき、慣れ親しんだ灯の影に指を這わせる。
「ですから、私は気づいてしまったのです。私に死んで欲しいと願っているのに、貴方が手を出してこなかった理由を。私の心を傷つけることばかりして、回りくどく死んでくれ、死んでくれと繰り返し言ってきたわけを」
カツリ―――音が止む。化け物は足を止め、指を這わせた壁を愛おしく撫でる。この街で唯一、彼女を変わらず受け入れてくれる存在である。
「―――私が死を望まないと、私を殺せないのでしょう? グーネル公爵様」
「…………」
問われ、グーネルは―――何事も答えられない。
絶望に瞼を閉じ、見果てぬ天を仰ぐ。ああ、それを知られては、それを悟られては、最早手はないのだ。
例え、奇跡が起きてこの場を切り抜けられたとしても、もう二度と同じ手は通用しない。化け物を仕留める手立ては消えたのだ。
あとは、理性が―――同族を想う心が僅かにでも残っている可能性に賭け、それに付け入り、宥め、鎮め、何とか種を残せるよう、動こう。
しかし、それすらも彼は諦める。
「―――ねえ、何か間違っていますか?」
その声は、涼やかである。
しかし、眼が語る。唇も、冷ややかに嘲笑う。『言い訳はもうおしまいですか?』―――と。
―――彼に抗う術はない。もとより、誑かすには差があり過ぎた。絶大な力を前に、焦りと恐怖が滲んでしまったのだ。
「うふ、ふふふ―――」
答えぬ彼を、動かぬ彼を、最早抗いを見せぬ彼を、彼女は凍れる微笑でもって眺める。
―――おしまいである。ナトラサの街の終焉は、近くに迫っているのであった。
「ふむ…」
ただ1人、老紳士は場を眺め思案げに喉を鳴らす。
絶対の危機である。自身の、街の、種の存続の非常時である。
しかし焦らない。生命の危機に胸締め付けられるほど、彼は短く生きてもいなければ執着もない。
「仕方がありませんな」
ただ、化け物の向こう。絶望に打ちひしがれたように目を閉じる主人を見て、己が使命に則り動く。
影に溶け、結界を越え、安息に眠るかの者の肢体に這い寄る。
その気配に、その動きに、気づける者は誰もいない。
彼は影。どこにでも生まれ、どこへでも忍ぶ。死よりももっと、命に近い者である。
「起きて頂きますよ。背に腹は変えられませんからな」
そうして彼は空の右手を振るう。
否、いつしかそこには針が忍ばされている。そしてそれは紫に湿る先端ごと、眠る者へと突き刺される。
……微かに呻き声が聞こえる。しかし、その声が空へと消える前に針は抜かれ、安らかな寝息が再び聞こえ始める。
寝息を立てるその顔を、老紳士は細い目尻でもって見下ろす。その手には既に、針はない。
「束の間の、泡沫の現。お愉しみ下さい、アーデルセン様」
言葉は真摯に、声音は嘲りに。
老紳士は最後に小さく喉を鳴らすと、音も立てずにまた影へと消えるのであった。