8.異端<ディパイア>
―――アリスたちの前には5人のヒトが並べられている。黒毛が一人、赤毛が一人、金毛が一人、茶毛が二人。彼らは闘争の儀において彼女たちの前に立ちはだかった生贄たちであった。それぞれが喜々とした表情で腕の皮膚を切り、目の前の大きな杯に向かって血を流し込んでいく。
それをカネル、リカ、ソーライは神妙な顔つきで見つめており、対してアリスは鬱々とした目で見やるのであった。
それは遡ること二日前―――
「…血呑みの儀?」
アリスは困惑の感情をそのまま表情に映し、言われた単語を問い返した。
「そー、血呑みの儀ー。まだ成人の儀、途中だったからねー」
アリスの疑問の声に、毎日部屋へお見舞いに来るリカが答える。
そう、彼女の言うように今年の成人の儀はまだ終わっていない。今年は儀式の最中にイレギュラーなことが多く、その最たる例が健闘したアリスが意識不明のまま目を覚まさないということであり、儀式の続きは彼女が目覚めるまで延期となっていたのである。
つまり彼らは未だ新成人として迎えられておらず、仕事を割り振られる選別の儀もしていない為全員が無職なのである。リカが毎日アリスの部屋に入り浸ったり、ソーライが自身の魔術研鑽に日夜を問わず精を出していたり、カネルが狩りにいく大人たちに片っ端から付いていくのも、皆時間を持て余している為なのである。
そんな、自分のせいで皆の成人入りを遅らせてしまっている現状を知りアリスは不安―――自分が血を飲めるかどうか―――はこの際飲み込み、血呑みの儀への参加を表明したのであった。
そして今、血呑みの儀が始まろうとしている。
周りには今年鳴り物入りで新成人を果たす彼ら――― 一流の戦闘力と判断力を持つカネル、神術を執行するリカ、若くして中級魔術まで使うソーライ、そしてマディラータを打ち破ったアリスを一目見ようと多くの見物客が押し寄せていた。
(どうしたらいいの……)
アリスはこの場に置かれてなお、途方に暮れていた。この日に至る二日間、何とか血が飲めないか試さなかったわけがない―――試した結果は惨敗であった。
いくら痛覚がなくなっていても嫌悪感はなくならないらしい。あの味と臭い―――口に近づけるだけで酸っぱいものが喉元まで押し寄せてくる。口に含んだが最後、堰が決壊したように吐き出してしまう。
あの成人の儀の日まで確かに飲めていたはずがのもの、また飲めなくなってしまっていた。それが何故かはアリスには全く分からず、事ここに至ってはもう、途方に暮れるしかないのであった。
「さあ、今宵成人を迎える者達よ! 見事闘争の儀の試練に打ち勝った者達よ! 汝らを新たなる仲間として、我らは万感の想いを持て迎えいれよう!」
血呑みの儀における演説も闘争の儀と同様、アリスの父アーデルセンが行っていた。彼の式辞に合わせ、ヒト五人分の血が混ざりあった液体を揺らし大杯がアリスの目の前に置かれる。
「若人達よ! 自らの手で討った人間種の血を飲み交わし偉大なる吸血鬼として契りを果たせ! さすれば汝らは今宵、真に吸血鬼として認められるのである!」
そしてアーデルセンの言葉は終わる―――アリスは大杯の周りに何も置かれていないことを確認すると、もしかして、と思い父の顔を見る。すると父は、周囲にばれないように小さく頷いた。
それを見て横目で隣を見る。アリスの隣にいるのはカネルだ。カネルもアリスとアーデルセンの意図を汲み小さく頷く。
それを見て意を決したアリスは大仰に杯を手にし、口へつけて中身を流し込んだ―――ふりをする。
そう、血呑みの儀は血の回し飲みなのであった。そうであれば飲めなくても飲んだふりをすればバレない。次に飲む者が中身が減っていないことに疑問の声を上げなければ良いのである。
順番は親の身分の順番に並べられている。そうなると最初に飲むのが王族であるアリス、次は公爵家であるカネル。カネルはもちろんアリスの味方なので全力でアリスの嘘を庇う。
これが血の飲めないアリスにとって成人の儀を乗り越える方法であり、アーデルセンにとって血が飲めずに成人の儀を迎えた娘を守る唯一の方法でもあった。
アリスは必死に飲むふりをした。異臭が鼻にこびりつき、吐き気が込み上げてくるのを必死に耐える。血を唇で堰き止め、緊張と不快感でカラカラに乾く口の中で必死に唾を作りそれを嚥下して喉を揺らす。
そして杯を下ろす。唇についた血は取り出したハンカチで拭う。いかにも、勿体ないけど舌で舐めとるのが卑しく見えるので拭き取りました、と見えるように上品に拭う。完璧に、演技をこなした。
パチパチパチ……
拍手が起こった。周りの大人たちによる、新たな仲間が誕生したことに対しての祝福である。アリスは見事血呑みの儀を為し終えたのである。安堵のため息とともに微笑を浮かべ拍手に応えると、杯を横にずらしカネルのもとへと―――
「その儀式、少し待って欲しいっ!!」
と、突然拍手に沸く群衆より分け出てきた一人の男が待ったの声を上げる。何事かとその場にいる全員がその男を見ると、新成人の中より反応があった。
「ち、父上?!」
その声を上げたのはソーライであった。ソーライが父と呼ぶ彼はライドン男爵、渓谷近辺の人間種の動向を監視し目撃者を捕縛する重要な任務の責任者である。
「陛下、非礼を承知で歎願したき儀がございます。どうか、ご聴許頂きたく願います!」
ライドン男爵は新成人たちに背を向け、アーデルセンの方を向き頭を地に擦り付け陳情する。彼の出現に、アーデルセンは嫌な予感を覚える。タイミング、口上、必死さ、それら全てから彼の言う儀の内容を察したからだ。
しかし、それを受け入れることは出来ない。負の感情を決して表情に出さず、あくまで平静にアーデルセンは応える。
「……下がれ、ライドン。この場は祭事であって政の場ではない。儀があるなら―――」
「恐れながら、陛下! この祭事に対しての重大な儀でございます! どうか、どうかご聴許を賜りたく!」
ライドン男爵のその必死な様子に群衆はざわめき始める。ライドン男爵の実直ぶりは民の間で有名であった。良くも悪くも政治に向かないと言えば良いだろうか、彼は絶対に自分にも他人にも嘘を許さず真っすぐに己を貫く。だからこそ彼が口を出したことによる騒動は絶えず、実力はあるのに未だに男爵位であるのだ。
しかし上から好かれずとも民からは好かれる、そんな人物であった。だからこそ群衆はライドン男爵の次の言葉を求め、王へ仰望の眼差しを向ける。アーデルセンはそれを受け……、否と言えるだけの材料も未だないため、仕方なく首肯する。
「―――良かろう、申してみよ」
「はっ、ありがとうございます!」
そうしてライドン男爵は振り返り、アリスの前に立つ。サッと手を振り上げると、それを合図に部下が近づき彼へと何かを渡す―――そしてそれをアリスへと差し出した。
「アリス姫! どうかこの血を飲み干し、姫は血が飲めぬという我らの猜疑心を払拭して頂きたく存じます!」
「えっ……」
ザワザワザワッ―――
「ちっ、ライドンめ。余計な真似を……」
彼の一言に群衆のざわめきは最高潮に達した。そして列席者の中の一人、カネルの父であるグーネル公爵はその様子を見て人知れず舌打ちをする。
部下よりライドン男爵の手に渡ったのはグラスであった。その中には並々と血が注がれており、そこから漂ってくる異臭がアリスに『この血は飲めない血だ』と認識させる。グラスを受け取ることも拒絶することも出来ず、アリスは戸惑いの目をアーデルセンに向ける。
「―――ライドンよ、そなたは何を言っているのか分かっているのか?」
「はっ! 私はかねてより噂として流れている、姫は血が飲めぬという話に大変心を痛めておりました。そのような話が市井の間で真であると噂をされてしまえば姫をはじめ陛下、貴方の血と名に謂れもない傷がついてしまう。不忠にも疑心を持つこと、誠に非礼を詫びながらもどうか! 今宵、皆の目が集うこの場において、その疑心を払拭して頂きたく!」
「―――先ほど、アリスは杯の血を飲んでおったが?」
「……杯の中身など、飲まなくても分かりますまい。血を飲んだというしかとした証を立てて頂きたく!」
「………………」
ライドン男爵の言葉に、アーデルセンは長らく押し黙った。
彼の心中では荒れ狂う怒りが波打っていた。娘を疑い、王の言葉に耳を傾けず、己の疑念を晴らすために祭事の場へ土足で踏み入る。許されざる暴挙である―――しかし、ライドン男爵の言うことは尤もであったし、そして現実に『それ』は間違っていないのだ。
彼の中で、王としてふさわしい選択をしなければならないという重責と、父として娘を守りたい気持ちが大きくうねる。この場において、どう対応するのが正しい選択なのか、切実に思考を巡らす―――そして長い沈黙の後、王は答えた。
「………、………っ、良かろう、ライドンよ。そなたの儀、承る」
「―――感謝致します、陛下」
アーデルセンは折れた。八方塞がりであった。ライドンは謝意を礼で表し、アリスに向かって再度グラスを差し出す。
「………ぅっ」
アリスは差し出されたグラスを受け取った。より強烈な異臭が迫り、呻き声をあげてしまう。
父を見る。そこには王として厳粛にあらんとする顔が―――感情の籠っていない目があった。どうすれば良いかの指示も助けもなく、ただ吸血王アーデルセンの目は冷酷に言っていた。
『血を飲め』と―――
王はアリスを見捨てた。カネルは憤慨し、それでも憎しみの方向を違えずその顔を真っ赤に染め、憎しみの形相にてライドン男爵とグラスを睨みつけた。
「………」
―――カネルは無言、そして気配を悟られないように一歩を踏み出した。そのグラスを破壊するために。
『金剛力』、彼はスキルを使用し、一瞬のうちにグラスを砕かんとする―――それが問題の解決にならないことを知っていたがそれでもこの場、この時にアリスを守るために出来ることは限られていた。
アリスを守る。何に変えても、今度こそ。その想いがカネルの思考を狂わせ、蛮行へと至らせる。カネルはもう一歩を踏み出し、アリスの持つグラスへ手を指し伸ばす。
「カネル、下がれ」
しかし、寸でのところで制止の声がかかり彼の手は止まる。この異例の儀の渦中へ更に入って来たのはカネルの父、グーネル公爵であった。
「ここに至ってはアリス姫ご自身の御力でしか話は纏まるまい。お前は下がっていろ」
「……くっ」
カネルはその言葉に、易々と手を下げれなかった。彼は知っているのだ、アリス自身ではどうしようもできないことを。血が飲めないのは真実であるから。それを父、グーネル公爵も知っているはずであった。それにも関わらずのこの物言い。カネルは父がアリスを切ると判断したことを知った。
この場において、アリスの味方が完全に自分ひとりになってしまったことをカネルは悟った。
これだけ注目されているのだ、アリスが血を飲めないかもしれないという疑心はこの場を煙に巻いても収まりはしない。
そして王や公爵から直々に血を飲むように指示を受けているのである、それを反故にすることは許されない。
何より吸血鬼が血を飲むというのは当然―――というよりも『存在意義』に等しい、それを飲めないというのは吸血鬼ではない、ということになる。
群衆からの関心、権力中枢からの指令、吸血鬼としての意義、全てにおいてアリスが血を飲まなければならない条件が揃っていた。
だがカネルはそれを拒絶しなければならなかった。何故か? ―――それはアリスが血を飲めないからだ。
思考は堂々巡りをし、解決策は見つからない。カネルの伸ばしかけた手はわなわなと震え、やがて策も見つからないままに拳は握られ―――
ゴッ!
「ぐっ、……アリ、ス……」
唐突に首筋へ衝撃を受け、カネルの意識は刈り取られる。暗く視界が塗りつぶされていく中、守るべき相手に対して手を伸ばすがそれは空を切る。
(ごめん……アリス……)
そして動揺に目を見開くアリスに向かって、心の中で詫びながらカネルは意識を失う―――それがカネルが見た、吸血姫アリスの最後の姿であった。
彼の誓いが果たされることは、なかったのである。
カネルの意識を奪ったグーネル公爵は彼の身体を地に降ろし、やがてアリスに向かって言い放った。
「アリス姫よ、御身の許嫁の父として発言をお許し願いたい。貴方が血を飲めることを我々は当然と考えている。何故ならば、我々は共に血を飲み生きる仲間―――吸血鬼であるからだ。しかし、もし貴方が血を飲めないとするならば―――この場を以って貴方を『異端』と認定する!」
ザワザワザワッ―――
グーネル公爵の言葉に、アーデルセンは目を見開き、再び群衆がざわめき立つ。
『異端』―――それは吸血鬼であって吸血鬼でないもの。一度『異端』認定された者は基本的には二度と仲間扱いされない。彼と話す者さえ『異端』とされてしまう仕来りにより強制的に共同生活の輪から弾かれる。そして何かの犯罪を犯した際、それが例え軽い罪であっても最大限に恥辱された後に死刑が執行される。
『異端』とはこのナトラサの街における、死の宣告に限りなく近いものであった。
この『異端』宣告はここ数十年来、一度も発生していなかった。以前にあったのは家畜であるヒト族を孕ませ、混血児を産ませた男であった。その者はすぐさま『異端』に認定され、孕んだヒトと混血児は殺処分された―――そしてその『異端』はひと月の後、自ら太陽の前に出て砂と消えた。
『異端』とはそこまで恐ろしい制度であり、認定を司るのは国政の中枢たるグーネル男爵であった。勿論、『異端』の認定に異議を立てられる者はおり、それは最高権力者たる王、もしくは民の半数以上の意見があれば『異端』認定は撤回できる。
そしてもし『異端』が撤回された場合、妥当性なく『異端』へ追いやったとして公爵の爵位を降格する決まりがある為、生半なことでは公爵も『異端』宣告をしない。
それだけ公爵はこの件に関して腹に据えかねる思いがあると表明したのである。姫を―――認定を取り消せる王の娘を『異端』宣告する、つまりそれは、この件で姫を守るのであれば謹んで爵位を返上するというグーネル公爵の身を切っての弾劾状であった。
しかも内容は『吸血鬼なのに血が飲めない者』の『異端』認定である。もし王が認定を退けることをすれば大衆は筋の通ったグーネル公爵の味方に付き、王政への反逆にも発展しかねない。
「………、好きにするが良い」
そしてそれを分からぬ王ではなかった。最早ここまで追い込まれた以上、アーデルセンにアリスを守る手段は存在しない。アリス一人を切り捨てるか、長年続いた王の血族もろとも沈むか、二者択一を迫られた時、王もアリスを切り捨てたのだった。
こうしてアリスは絶体絶命の危機に陥る。
「……、……、……!」
皆が断罪の目を持って動向を見張る中、アリスの全身は恐怖にすくみ、唇は恐怖に震え、頭は恐怖に凍ってしまっていた。細かく引き攣った息が続き、もともと白い顔が更に青白く染まっていた。そして―――
パリンッ―――
彼女の手に持たれていたグラスはぐらりと傾き、地へと落ちた。落ちたグラスは音を立て砕け、血は地面へと吸い込まれていく。
―――今この場で、新たなグラスを彼女に与え再度の機会をくれる者はいなかった。グラスを落とした彼女の顔が、それを落とす前から絶望に染まっているのを皆知っていたからだ。
こうしてアリスは『異端』を宣告されたのだった。