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プロローグ.赤いワイン



 アリスは赤ワインを飲んだことがない。


 彼女がこの世に二度目の生を受け、生まれてこの方口にした液体は母の乳を除くと水のみであった。


 食事は極力両親と同じものを摂る。今夜の夕食はシェフが作りこんだコース料理である。メインディッシュに至るまでの前菜、副菜の全てに手を付け、噛み、飲み込む。この身体に生まれてから毎日のように豪奢な料理を口にするが、彼女には味が分からない。


 美味い、不味いではなく、味が分からない。何を食べても味覚は応じず、合わせて食感の反応も愚鈍であった。サラダは紙のようだし魚は石鹸のようだし肉は木の根のようであった。どれだけ見た目を凝らそうとどれだけ品数を揃えようと、アリスにとってそれは何の意味もなさない。それどころか美味しそうな見た目からの裏切り、そして噛み、飲み込むという工程を増やすだけという煩わしさに忌々しさを感じていた。


 さて、そんな中彼女に唯一味覚をもたらすものがやって来る。今夜のそれは、暴れ牛のソテーである。それが盛り付けられた皿には彩りを与える野菜が副えられ、赤ワインのソースをかけて仕上げられている。


 そう、赤ワインである。アリスは赤ワインを飲んだことがない。


 目の前に置かれたその皿を、感情を押し殺した眼で見下ろす。右手にナイフ、左手にフォークを持ち、アリスはソースのかかった肉を小さく切る。その手は微かに震えていた。父と母、そして皿を運んできた召使いやシェフがその様子を固唾をのんで見守る中、彼女はそれを持ち上げ口へと運ぶ。


「うっ、ぐ……」


 肉を口に入れた瞬間、口の中に広がる途轍もない異臭、不快感、嫌悪感!

 それらの忌避感を押し殺し、肉を噛もうとするが顎に力が入らず、舌が喉奥に引っかかり息が詰まる。


「お、おげぇええええ!」


 そしてやがて耐え切れない吐き気が胃を遡り、アリスは今まで食べたものごと、肉を吐瀉する。そうなることが分かっており、予め手元に壺を用意しておりその中に吐き出した為、テーブルの上に吐瀉物を巻き散らす粗相だけは防いだ。


「また、駄目だったか……」


 その様子を見て、父は宙に目をやり嘆息する。母はアリスのもとへ歩み寄り背をさすり、一人の召使いが沈痛な面持ちで汚れた壺を取り上げ部屋を出ていった。


「アリスちゃん、大丈夫?」

「はぁ……はぁ……か、母様、ごめんなさい……」


 アリスはこんな想いをさせている元凶である母を見上げ、苦しさに息を詰まらせながら謝罪した。ただ、元凶でこそあるがここで母を責めるのは否であり、アリスもそれは重々承知していた。いったいこの場で誰に最も責があるのか、それを問われれば自分のせいであるとアリスは知っていた。


 アリスは赤ワインを飲めたことがない。


 食事、飲み物、薬に至るまでほかのものであれば何でも口に出来る。彼女には味が分からないため好き嫌い(それ以前の問題であるが)はない。


 しかしそれが一度、赤ワインを使った料理や赤ワインそのものに関してとなると彼女の身体が受け付けない。口に入れた瞬間の嫌悪感に全身の血が凍え、毛が逆立つ。無理に飲み込もうとしても舌が喉に引っかかり咽頭まで行きつかない。そうして口の中で行き詰っていると吐き気が上ってきて吐き出してしまう。


 それが彼女の常であり、彼女にも赤ワイン料理が振る舞われる週初めの日の常であった。


「いいのよ、アリスちゃん。今日が駄目でも、また今度。今度が駄目でもいつか食べられるようになる日が来るわ」

「……はい、母様」


 ようやく嘔吐きの収まったアリスに母は宥めるように言い聞かす。いつかは赤ワインが大丈夫になると、彼女に信じさせそして自分にも信じ込ませる為に、ゆっくりと染み込ませる様に、優しい声音で。アリスはそれを聞いて頷く、その言葉を信じきれない自分を心の中で責めながら。


「代わりのお皿をお持ちしました」

「……うむ」


 シェフが赤いワインソース抜きのソテーを運んでくるのを見て、父はどことなく虚ろな表情で頷く。


「アリス、今は仕方がないかもしれん。だが、これに『いつまでも』は許されん。

 いつか―――それはお前が少なくとも12の齢になるまでには越えなければならない使命であり、本分だ。分かっているな?」

「……分かりました、父様」


 アリスは父の厳しい言葉にも頷く。彼女が赤ワインを拒否し続けることは、出来ない。彼女が12歳―――あと1年と半月を過ごした後に待っているのは赤ワインを飲んで吐き出すことが許されない世界である。それは彼女がどれだけ嘆こうと、ましてや両親がどれだけ嘆こうと変わらぬ事実である。


 それを知っているからこそ、母は父の厳しい言葉に睨むことこそすれ、非難の言葉は上げないのである。非難することによって解決することはなく、非難することによって追い込まれるのはアリスであり、そして非難出来るほど間違っていないのだ。


 そして再開される夕食。両親とアリスの間に会話は生まれず、アリスは黙々と目の前に出されたソースのかかっていない暴れ牛のソテー(ゴムの食感)を口へと運んで行った。


「ご馳走様でした……」


 そして全てを平らげた後、アリスは早足に部屋を出る。片づけはシェフや召使いがしてくれるし、自分が作ったあの気まずい雰囲気から早く抜け出したかったからだ。その後ろ姿を見送った両親は溜まっていたため息を軽く吐き、視線と言葉を交わす。


「今夜のはどこのものでしたの?」

「先のはヴィヴィーリが飼っている黒毛の雌の9年ものだ。臭みがなく飲みやすいものを―――と思ったが、アリスにはやはり合わなかったようだ」

「黒毛、雌、9年―――これ以上ないほど、口当たりの良いもののはずですわね」

「ああ、他にもクレッセンが黒毛の4年ものを抱えていたが―――まだ飲むほどの量も採れんと断られた」

「そうでしょうね。せっかくの黒毛もの。採ってしまって死んでしまっては勿体ないですものね」


 そう言って母はグラスを優雅に傾ける。中に入っているのはソースの材料に使われたものと同じワインである。


「……はぁ」


 赤ワインで唇を湿らせた母は、愉悦のため息とともにうっとりとした表情でグラスに余ったワインを眺める。はしたなくも、唇を舐める舌の傍に2本の鋭い歯を覗かせながら。


「ああ、アリスちゃん……何故あなたは、これを飲めないの?」


 母は赤ワインの不透明な濁りの向こうに、哀れな娘の行く末を想った。グラスの中のワインは空気に触れ、徐々にその色を赤黒く変え、やがてどろりと母の口の中へと流し込まれていった。


 アリスは『()()()()』が飲めない。


 そしてそれは吸血姫―――吸血王アーデルセンを父、吸血妃リリスフィーを母に持つ彼女には許されないことであった。








 アリスがこの世に2度目の生を受けたのは、10年前のことであり、『太陽が無い』を意味するナトラサを冠するこの町で彼女は吸血王と吸血妃の一人娘として生まれた。


 ナトラサはその由来の通り、太陽が決して昇ることのない街である。『大地の割れ目』と呼ばれる巨大な渓谷の地底深くにある洞穴を入り口にし、そこから更に地中深くに潜ったところにある大空洞。そんな人類未踏の地へ数百年前に築かれたのがナトラサであった。


 そんなナトラサの街であるが、住んでいるものの多くは所謂人間種ではなく、吸血鬼と名の付く魔族であった。


 彼らは大量の魔素を体内に宿し、人間種はおろか他種の魔族よりも強力な魔術、肉体強化スキルを使うことが出来た。また視線には洗脳の効果を、接吻には魅了の効果を付与することが出来た。更には爪は樹木も石も、金属の鎧でさえも切り裂く。それらの力を宿す肉体もまた人間種より遥かに強靭であった。


 肉体面においても魔術面においても他の追随を許さない、正真正銘最強の魔族である。それがどうしてこのような辺境の地で暮らしているのか。


 それは過去の戦争において人間種に負け、地上における覇権を彼らに握られてしまったからである。最強であったはずの吸血鬼が力で劣る人間種に負けたのは、彼ら人間種が新たに信仰し始めた神『ラー』の仕業であった。


 その神を信仰する宗教の名は『ラサ教』―――意訳すると『太陽教』である。


 ラサ教は吸血鬼が地上の覇権を我が物にせんと蔓延っていた時代に生まれた。その時代の吸血鬼は軍を作り、人間種のうち特に脅威と思われた3種族―――すなわち、武具の製造やスキルの扱いに長けたドワーフ族、魔術の行使に秀でたエルフ族、神術の執行が出来るエンター族の3種族を絶滅寸前にまで追いやり、残す障害は無駄に数だけ多いものの非力であるヒト族のみという状況まで追い込んでいた。


 ヒト族は吸血鬼にとって、絶好の獲物であった。その名の通り吸血鬼は血を吸って生きていくものである。だが、ドワーフの血は生臭くて飲めたものではなく、エルフの血は薄くて味がしない。エンター族の血に至っては飲むと吐き出してしまうほど不味かった。


 その点、ヒト族の血は美味く、繁殖能力も高いため狩り尽くす心配もそれほどしなくてよく、そして弱い。地上に残された敵―――最早獲物と言い換えられる障害はヒト族だけとなり、吸血鬼はじわじわとヒト族を狩り、ヒト族の生活圏を包囲し狭めていった。


 ……結論から言うと、ここでじわじわとヒト族を追い込んでいったことこそ吸血鬼の敗因となるのだが、それも彼らを狩りすぎると吸血鬼の獲物がなくなってしまう為、手加減しながらの進軍となってしまったのだから仕方がない。


 今や人間種の絶滅の危機となった時、吸血鬼の進軍の遅さを衝き、ヒト族は他の有力種族―――ドワーフ族、エルフ族、エンター族の数少ない生き残りをかき集め、新たな宗教を興したのである。そうしてドワーフ族により作られた祭壇、エルフ族により捧げられた魔素、エンター族により執り行われた神降ろしの儀、そして無駄に数の多いヒト族が一心に願った信仰心が集い、陽の神『ラー』がこの世に降りたのである。


 陽の神『ラー』は、呪い(人間種からは奇跡と言われている)によって吸血鬼の最強の身体を侵した。まず陽の神『ラー』は同体である太陽の光を浴びると砂になる呪いを吸血鬼にかけた。


 この呪いが発動した瞬間、この世から吸血鬼の8割が砂となって消えた。その砂は数百年経った今なお残る。アルガス大陸のラサ砂丘はこの天罰の時に吸血鬼の軍が砂となって出来たものであるのは人間種―――そして吸血鬼の間では有名な話である。


 そうして吸血鬼たちは日中の行動を恐ろしく制限されてしまったのである。しかし吸血鬼にとって挽回の機会は一日のうちに半分もある。そう、夜である。夜の間は陽の神『ラー』の呪いは利かず、吸血鬼は仲間を大量に虐殺したヒト族―――そして絶滅まで追い込まなかった他の人間種に対しても、報復の牙を剥いた。


 そして吸血鬼たちは、あえなく撃退された。人間種は陽の神の加護を受け、新たなる魔術の行使が可能となっていたのである。


輝ける陽光(マディラータ)』、そのたった一つの魔術によって吸血鬼の敗戦が決した。マディラータはどんな処、どんな時でも疑似的に小さな太陽を作り出す魔術であった。その陽光は吸血鬼を砂には出来なかったが、著しく戦闘力を下げる効果を持ち、数で圧倒的に不利であった吸血鬼軍は押し返され人間種に蹂躙されてしまった。


 そうして全盛期では十数万といた吸血鬼は、戦争が終われば数千にまで数を減らし、人間種に絶対に見つからない辺境の土地に隠れ里―――ナトラサを築いたのであった。







 そんな経緯のあるナトラサの街には、吸血鬼のほかにはほんの僅かに他種の魔族とヒト族が住んでいる。


 他種の魔族というのは戦闘力の無い、家畜の世話や雑用しかこなせないようなレッサーゴブリンとそれらを統べているホブゴブリンの商家が一軒あるのみである。ほかにいるヒト族はナトラサの街の外、渓谷の近くを夜中に通った際、外で行動していた吸血鬼たちにばったりと会ってしまった運の悪い者かこの街で生まれた者たちだ。


 彼らヒト族が太陽の昇らない街、ナトラサに一度連れてこられてしまえば残念ながら生きて帰れる術はない。彼らは吸血鬼の視線と接吻により洗脳と魅了を付与され、吸血鬼たちの晩酌となる『赤ワイン』を絞り出すためだけの家畜となり、老いで死ぬか吸血鬼の手元が狂って失血死させてしまうまで、喜々とした表情で『赤ワイン』を差し出し続けることになる。


 尚且つ吸血鬼たちはその家畜の繁殖にも精を出す。家畜同士を配合させて子を産ませ、そうして家畜の数を増やしていく。


 さて、人間種にとってはこの世の地獄とも言えるこのナトラサの街であるが、そこさえ目を瞑ってしまえば非常に秩序の保たれた良い街である。食材たる肉や野菜などは夜間、狩猟や採集を行えば良い。日中はその行動範囲を大きく制限されている吸血鬼であるが夜間ともなれば、その最強の肉体を駆使し人間種を遥かに凌駕する労働力を発揮するのだ。


 更に、人間種が絶対に入ってこれない山間部や谷底等で畜産、農耕までしていたりする。ナトラサ内で飼っているヒト族からはあくまで『赤ワイン』、つまり飲料しか摂れないのだからまともに食事をしようとすると収穫が不確かな狩猟採集という化石時代の生業形態だけに頼るのではなく、自分たちで生産コントロールが出来る形態も行うのは当然のことである。


 しかしここでそもそもの問題であるが、『吸血鬼たちに食事は必要なのか?』という疑問が生まれてくる。その生命力の根幹を解剖すると、体内に宿している魔素により成り立っている。


 魔素は日常生活をする上では消耗はしないが、魔術を行使すると消耗されていく。その消耗された分の魔素の補充は食事の経口摂取や儀式による快復措置等でも可能だが、最も効率の良い方法が飲血や吸血等、血を体内に摂取する方法である。その為、彼らはヒト族を飼い、血を採取し続けるのである。


 ―――つまり彼らにとって食事とは、決して生きる上で必要なことではないのだ。ただ彼らには前世の記憶があるが故に、精神に摺りこまれた当時の行動原理、『三大欲求』の真似事をしているに過ぎない。


 そう、彼ら吸血鬼は一度死んだ人間種の転生体―――生まれ変わりの者たちばかりであったのだ。




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