8・双眼鏡とグラス
B
連れて来られたと言っても、すぐそこだった。木製らしきブラウンのドアには、白いプレートがつけられていて、流麗な筆記体で『binoculars』と印字されている。店名だろうか。
「わあ、もうすっかりお店っぽくなってますね」
店に入るなりサイキが話しかけた相手は、背の高い男性だった。天井から差す光の源は、花弁のような装飾が施された照明。淡いオレンジ色の光が、中世の洋風酒場を思わせる店内の雰囲気をより粋で洒落たものに誘う。男性は、白いシャツにグレーのベスト、いかにもバーテンダーらしい出で立ち。オールバックにした黒髪の所々に、メッシュを入れたような白髪が混じっている。目尻のしわは穏やかな顔立ちを強調するが、高い鼻や体つきには精悍さもある。よって年齢の予測がつかない。
「言ってくれれば少しは手伝えたのに」
「サイキ君のほうも会社の手続きでお忙しいかと……。それにこれまでもお世話になっているので」
「いえいえ、こちらこそ」
親しげに言葉を交わす様子からして、知り合いという単純な関係ではなさそうだ。サイキが世間を賑わす怪物だという事情も共有しているのだろうか。
「それで、サイキ君。そちらの方が?」
男性がわたしを見て、サイキが目で促す。自己紹介をして、と言いたいのだろう。
「米原優月です。この度は」
とまで言ったところで、サイキたちの会社の名前をまだ知らないことに気づいて、
「……か、彼らの、会社?に新しく加わりました。よろしくお願いします」
「ジョニーといいます。そう固くならずに。どうぞ座ってください」
勧められるままにカウンター前の椅子に座った。椅子は背が高くて足は床に届かない。隣のサイキがジョニーさんに笑いかける。
「どうです、お店の方は」
彼は背中側の棚からなにやら飲み物の瓶を取り出す。他にもそこにはワインなどが収蔵されているのが見えた。
「準備を終えたばかりですので。実は、お二人が最初のお客様です。……どうぞ」
カウンターの上に出されたのは、脚のあるグラスが二つ。逆三角形の空間部分を満たしているのは炭酸と思しき半透明の液体だった。
「お酒じゃありませんよ」
出してもらったのに見るだけというのも悪いので、口をつける。薄甘いけれどさっぱりとした口当たりで、柑橘類の香りが後を追うように嗅覚をくすぐった。
「俺はお酒でもいいんですけどね」と言ったサイキにジョニーさんは、
「未成年者飲酒禁止法違反ですよ」と苦笑する。
「あなたが遵法を語りますか。ついこの前までもっとアウトローな仕事してたのに」
「?……なにをされてたんですか?」
わたしが訊くと、「いやあ……」と言いよどむ彼を待たずサイキが嬉々として、
「看板にも出てますよね、ジョニーさん?」
看板というと、店の前に出ていた、わたしが店名だと考えた物だろうか。店名であることは間違いないのだろうけど。
「『binoculars』……『双眼鏡』、ですか?」
「ある筋じゃあ、『その男の双眸に映ったら最後、全てが筒抜けになる』とまで囁かれたほどの密偵だよ」
「あ、ある筋?」
ジョニーさんはミステリアスに目を細めて、よく通るテノールで、
「『や』のつく自由業です」と微笑んだ。
「……」
要するに、危ない現場に潜って情報を盗む仕事だと後でサイキに教えられた。そんな仕事があるのかと思ったけど、子供のわたしには考えの及びもつかない需要は存在するのだろう。
「名前と言えば、サイキ君たちの会社の名前は決まったのですか?」
サイキは、「それが、実はまだ……」と頭を掻く。
「サーフェイスは重要ですよ。名前一つを取っても、周囲を偽り欺く道具になる」
「偽り欺く、ね。俺にぴったりの言葉だなあ」
と、なぜかしみじみと言ってサイキはグラスを干す。わたしは他に気になることがあり、
「あの、ジョニーさん。サイキとはどこで知り合ったんですか?」
彼がそういった裏の仕事をしていたとしたら、仮にもわたしと同い年のサイキが如何にして関わりを持ったのだろう。すると、ジョニーさんはサイキに、「お話ししても?」と許可を求めた。それに答えて、「お構いなく」と言ってサイキは両目を閉じた。
「そうですね、一か月ほど前のことです。僕はまだ以前の仕事として、ある組織に潜入していました。そこに組織の事務所に『取引先』として出入りしていたのがサイキ君です」
……。……? 意味が分からなかった。
「取引って、なんの」
しかしここで二人は示し合わせたように、右手の人差し指をそれぞれの唇の前に持って行く。
そして同時に「秘密」とおっしゃった。……危険なにおいに、追及は諦めることにする。
「そこで抗争に巻き込まれかけたところを、サイキ君に助けていただいてからの付き合いです」
「そんな大げさな!このビルと事務所を提供して頂いている恩は返し切ってません。お互い様ですよ」
「いえいえ」「ははは」……なにを見せられているんだろう。この二人の会話のどこまでが本気なのか。軽いようで底が見えない、そんな感じ。
「とまあ、ジョニーさんには色々と協力してもらっているんだ。もちろん、怪物のことも知ってるよ」
「お話は聞いています。羊の行動を操れる能力がお持ちだとか」
「……能力、というほどのものなんでしょうか」
わたしの発言に二人の注目が集まった。ついこぼしてしまったけれど、言ってしまった以上は本音を知っていてもらいたい、と思った。
「正直、よくわからないんです。自分にそんなことができると知っても、あまりに急で理解が追いつかなくて……」
知らず知らずのうちにうつむいてしまう。二人はなにも言わない。待ってくれているのだ。
「……でも、苦しむ人を助けるために動いている人がいるなら、わたしも協力したいと思って、その」
うまく言葉が続かない。わたしがなんなのかを知りたい、それを言いたいのに。
「こういった表現がお気に召すかはわかりませんが」
ジョニーさんが、静かな口調でおもむろに話し始めた。わたしは顔を上げる。
「ユヅキさんは、さながら『羊飼い』のような存在ではないでしょうか」
「羊飼い?」
「サイキ君や高浪さんにとっての、心の支えです。導き、守る。僕は、怪物になる被害に遭われた方々のお気持ちは必ずしも分かりませんが、少なくともあなたは彼らにとって、希望であるはずですよ」
A
「……よろしいのですか」
ユヅキちゃんには先に事務所に戻ってもらった。恐らく貼ったばかりの壁紙の真新しい茶色を指先でなぞっていると、ジョニーさんが訊いてきた。目だけを動かしてさりげなく様子を窺うと、彼は言葉を発したことすらなかったことのように洗い物をしていた。
「なんのことです?」
今更のようにとぼけてみるが、彼の言わんとすることは重々承知している。
「彼女のことですよ。サイキ君の『作ろうとしている世界』には、純朴に過ぎる気がしますが」
「高浪さんにも同じようなことを言われましたよ」
しかし、譲れない。手の収まりが悪いような気がして、ポケットに突っ込んだ。
「彼女は必要です。それに、どれだけ俺が汚いことをしようがすべて俺の問題ですから」
誰にも気づかれず悪事を働ける自信が俺にはある。奸策を弄することにおいて俺がしくじるようなことは無いはずだ。生まれ持った狡猾さが俺の唯一の武器。
ジョニーさんはそれ以上たしなめるようなことはせず、ただ「ほどほどに」とだけ言って、USBメモリを差し出してくれた。
「どうも」
頼んでおいたのは、これからの活動にかかわる資料。こんなにも早期に手に入るとは思っていなかったが、プロの仕事を疑ったわけでもない。すべて順調にことが運んでいる。そのはずだが、気分がなぜだか重い。この胸やけがするような感覚は、きっと、寝不足のせいだろう。