7・「ナイスショット!」
B
知らなかった。でも、意識の底では予想はしていたのかもしれない。あの時助けてくれた彼も、同じくらい救いを求めるほどに苦しんでいる、人間なのだと。
「明日からこの事務所に来てくれるかな。もちろん、毎日じゃなくていい。それに、ことが事だからね」
事務所を出て、階段の下。サイキは頼みごとを言うように途中で言いよどんだ。
「怪物について、俺たちはまだ無知だ。まだ実験が何度も必要になるけど、そのためには夜に君に居て貰わなくちゃならないんだけど……」
すべきことなどなにも抱えておらず、決して多忙などではない。
それに、夜の外出を咎める親も家にはいないのだ。わたしは控えめに笑った。
「大丈夫。いつでも呼んで」
わたしのこの言葉に、サイキは少し口を閉じた。どうかしたの、と訊こうとする前に彼の大きな目が笑う。
「ユヅキちゃんには仲間になってもらったとはいえ、それほど深く干渉することはしないよ。君には学校があるし、普通の日常がある。俺たちのことさえ隠してくれれば、君はこれまで通りに生きていてくれればいい」
これまで通り。その日常に、なんの価値があるだろう?世界を変える為にはたらく。それこそ、わたしの望んでいた立ち位置ではないか。
ふと気になった。「ねえ、サイキ」
「?」
彼は言った。怪物になってからはすべての交友から離れて、目的の為に身を隠していると。当たり前のように、……一般に言ってそれは、寂しいことではないか。
「サイキは、『日常』から離れることは、辛くなかったの?」
返ってきた答えは、以下のようなものだった。
「そうだね……辛いと思えるほどに未練の残る日常じゃなかったかな。それに、今のほうが生きているって気がするよ」
A
「いやあ、いい子でしたねえ」
あまり遅い時間まで付き合わせては悪い。すでに薄暗くなり始めていた空を背に、道中お気をつけてと笑顔で送り出した後、俺は満足げに呟く。
「実に素直で清らかな心の持ち主だ。誰かと違って」
「俺を見んな」
カップラーメンをすすりつつ高浪さんが抗議する。
「世界を変える、か……」
彼は先刻の俺の文句を繰り返し、
「ホントに出来んのかね」
「出来ますよ」
俺も箸を割り、黄色い麺をつまみあげる。「いとも簡単に、しかも『一か月もの間存在すら知られることなく人を殺せる力』をコントロールできるなら、『戦術』の幅も広がります」
男が二人、面を突き合わせて麺をつついている。人を殺す、なんて食事中にする話でもないが、お互いそんなことは気にしない質なので気も遣わない。
「これで俺たちの高望みは、手に届くものになりそうですね」
ふと、高浪さんの箸が止まる。
「……しかし、いいのか?」
「なにがでふか」
スープと麺を口内に詰め込んだ状態で問い返す。
「ユヅキのことだよ。あいつが俺たちを『抑えて』くれる能力を持ってんのは確かに大発見だがよ、それ以外は一般人だろ。巻き込んじゃ危険じゃねえか?」
「……」
きっちり十回咀嚼を数えて飲み込む。そして俺は至極真面目にこう言った。
「高浪さんって、気遣いってものを備えてたんですね」
「あん?」
睨まれるが、瞑目すれば気にならない。
「わかってます」
つい、ため息を漏らしたくなる。
「俺も鈍感じゃないですから。多少話をすれば相手がどんな人かわかります。ユヅキちゃんは、正しくていい人だ。数えるほどしかいない、本当の優しさを持ってる人」
「そうだな。で?」
……高浪さんも俺の言い回しには馴れたらしい。つまり、俺の自己評価が『鈍感』ではないが他のなにかだと言いたいことを理解している。それを、ゆっくりと口にする。
「俺は冷血漢ですから」
彼はなにも言わない。俺たちだって死とは無縁の一般人でしたよね、とはさすがに続けられず、代わりに皮肉気に笑って見せた。
「利用することに躊躇はありません。その責任は会社の代表として俺が全て取りますからご心配なく」
高浪さんは普段気の抜けたふうに構えているが、その実、弱者や女性に対する優しさはあるのだ。気を回して請け負って、頑張りすぎて脆くなったところを突かれたから、かつて心を病んでしまったのかもしれない。
俺にはそんな感情も、感傷も無い。よって平気で他人を利用していられる。たとえ、女の子でも。
なぜなら俺は性根の腐った悪人だから。
「……そか。ならお前に任せるよ。麺伸びんぞ、さっさと食え」
B
ベッドに入って目を閉じるけれど、妙に昂奮して眠れない。
人間が、恐ろしい怪物に変身するという非日常。それが、わたしの心を落ち着かなくさせているのだ。
平和のために活動する会社を名乗ったあの二人。彼らは『人間』だった。振る舞いに悲愴感は感じなかったけれど、もし自分があの立場だったら、と想像する。毎日毎日、人を殺している。まだ自分が怪物であることを知らない人はまだしも、それを自覚してしまったとしたら、どんな気持ちだろうか?
もし自責に苦しんでいるのなら。真実を知った以上、彼らの心痛を取り除きたいと思う。
わたしがいれば、彼らは人を殺さなくて済む。その上……未だに信じられないけど他にも増え続けているらしい、怪物になってしまった人も、救えるんじゃないか。
わたしにできること、苦しむ人に寄り添うこと。それを為すことは畢竟、わたし自身の存在意義になるのではないか。そう願わずにはいられない。
翌日の放課後、すぐに学校を出る。引き留める友人もいないし、留まる用事もない。いつもならそんなことを考えれば憂鬱になるところだけど、今日は学外に用事がある。気にはしない。
昨日、サイキに教えられた道をたどる。彼らの言う『事務所』は、高校からわたしの家までの帰路、その中間地点にあった。通学も徒歩で十分とかからないので、すぐに到着する。
……もしかすると昨日の出来事は夢で、あの場所もあの二人も実は存在しないんじゃないかという考えが頭をよぎる。そう思えるほど、浮世離れした出来事だった。なぜだか焦燥がこみ上げ、小走りになる。
どうやらそれは杞憂だったようだ。建設からの年数を感じさせる古ぼけたビル、ひっそりとあるバーの入り口の隣、そとに開いた屋内の階段を上っていく。入口の鍵も貰っていた。差し込む、適合する。深呼吸してドアを開けた。
「こんにちは」
「おー、来たか。早いな」
まるで日常的にそうしていたように、軽い調子でわたしを迎えてくれたのは、高浪さんだった。垂れ気味の目は、眠いからだろうか。彼は大きめの段ボールを抱えて運んでいた。
「それ、なんですか?」
「テレビだよ。ジョニーさんに譲ってもらったんだ」
昨日もその名前を聞いた気がする。しかし誰なのかはわからない。「ジョニーさん?」
「ああ、下のバーのマスター。後でサイキが紹介するっつってたぞ。そこにいるから、叩き起こしちまえ」
高浪さんが示したのは、来客用のソファだった。白いパーカーに眼鏡、色以外代わり映えのしない格好のサイキは、仰向けに寝転がって寝息を立てている。こう言うのも悪いけれど、初対面のわたしを臆面もなくからかった彼の生意気さは、目を閉じているとまるで感じられない。眼鏡のすぐ裏の睫毛は長く、幼くも見えるし凛々しくも見える。読んでいるうちに眠ってしまったのか、広げた新聞がお腹にかかっていて、その下に右手が隠れている。
彼らは夜には眠れない。ひとたび眠れば自らが人を殺す怪物に変貌すると知っているからだ。『「夜に」眠ると変身する』と何度か強調して言っていたことは気づいていた。昼は変身しないのかもしれない、と自分なりに推測している。ただ、人間の体は夜間の睡眠でないと完全に疲れが取れないようにできているので、やはり心身ともに疲労はあるだろう。この時間から眠ってしまうのもあり得るべきことかもしれない。
と静かに考えを巡らせていたとき、バリッ!という音とともに目の前の新聞が左右に破け、突然ヒトの前腕の骨が現れたら、驚かないはずがない。ちょうどサイキの隠れていた右腕の辺りから、救いを求めるようにぶるぶると震えながら天へ、すなわち彼を覗き込んでいたわたしの方へ伸びてくる。
「きゃあああああああああ‼」
これでもかというほどの悲鳴を上げて壁際まで後ずさる。「う、腕が……骨にっ……!」
途端、思わずといった笑い声が部屋に響く。サイキのものだった。
「まさか、ここまで驚くとは思わなかったな」
立ち上がったサイキの右手には、ヒトの肘から先のものと思われる骨が握られていた。
「な、な、な……」
馬鹿みたいに同じ音しか口から出ない。
「おもちゃだよ、これ。俺の骨かと思っちゃった?」
数秒立って気持ちが落ち着き、まずすべきこととして投擲可能な物を探した。幸い壁際の本棚の上にティッシュの箱があったので、迷わずオーバースローでサイキの顔面に投げつけた。
「あうっ!」
見事、箱の角が額に直撃する。
「ナイスショット!」と、いつの間にやら居た高浪さんが親指を立てるのが見えたけど、今はどうでもいい。
「……痛いよ、ユヅキちゃん!」
「自業自得でしょ!ば、馬鹿じゃないの?」
「ちょっとしたジョークのつもりだったんだけど」
「寝たふりするくらいなら、昼のうちに眠っておくほうが有意義じゃない?」
「無理だよ」
「? どうして」
「俺たちは、昼間は眠れないんだ。怪物化の副作用だろうね」
「そいつを知らなかったときは馬鹿みたいに睡眠薬飲みまくったなあ」
「飲みまくりましたねえ」
「そう、なんだ……」
つまり、完全に睡眠が出来ない体になってしまったということだ。かなりの苦痛では……。
サイキが大げさに額を押さえた。「でも少しひどいなあ。昨日怪我したばかりのところに当てるなんて」
そして前髪を持ち上げ、絆創膏の貼られた額をこれ見よがしに見せつけてくる。それを言われると急に申し訳なくなった。
「え、そ、それは」
思わず謝ろうとしたところで高浪さんが会話に割って入った。
「それだってサイキの自業自得じゃねえか」
……確かに、そうかもしれない。
A
確かにそうなのだ。それは昨晩のこと。
ユヅキちゃんが俺たちの仲間に加わってくれると表明してくれた後、ある疑問に行き当たったのだ。
「おっと、握手はできないんだったね」
ユヅキちゃんも手を出しかけていたが、「まあ、その手ではちょっと」と引いた。俺の指は現在、絶賛銃刀法違反中なのだ。
「そういや、そこからどうやって戻るんだ?」という高浪さんの疑問で思い当たったのだ。
体に慣れる為にしばらくそのまま動いてみたくもあったが、確かに普通に戻れるのか、と訝しんでもいたのだ。怪物の存在目的が殺人なら、人を最低でも一人殺さなければ変身は解けない、なんてノルマも無きにしも非ず、と考えていた頃だ。そんな因果があっては困る。
「さあ、わかりません」
「おい……」
「変身してみれば直感的にわかるものかと考えていたんですが……まだ実験と検証が必要ですね」
「今までは、どうやって戻っていたの?」
「うーん、怪物になるようになってからは、日の出と同時に目が覚めていたから、そこで自然に戻っていた、と考えるべきだろうけど」
「その理屈じゃ、朝まで待たないと戻れねえってことになるぞ」
「日光が関係あるのかな……」とユヅキちゃんが呟いた。
朝まで待つなど。俺は別に困りはしないが、朝までユヅキちゃんを付き合わせるわけにはいかない。しかし彼女だけ先に帰して、俺の『制御』が解けてしまったらまずい。そもそも俺を抑えるユヅキちゃんの能力の効果範囲がどれほどのものか知らないのだ。
「『戻れ!』って頭の中で念じてみたらどうだ?『くそ、眠れ……もう一人の俺!』的な」
「なんで中二病っぽいんですか。そんなに単純な……あ」
どうやら高浪さんの案で正解だったらしい。なんとなく『戻る』というワードを思い浮かべると、視界が暗くなり、意識が途切れる。
そして次に目に飛び込んで来たのは、迫り来るコンクリートの床だった。
この後どうなったかはお察しの通り。
よく考えれば当たり前のことだった。本来の俺は寝ている状態のはずだから、変身が解ければ寝起きであることも疑いようがない。なんの抵抗も出来ず顔から床にぶっ倒れて、それはもう強烈に打ちつけた。幸運にも額が少し割れる程度で済んだけども。
まあ、よく眼鏡が割れなかったよね。うん。次に戻るときは気を付けよう。
「さて、今日も実証……と行きたいところだけど、まだ日の入りには早いね」
「ジョニーさんとこ行くんじゃなかったか」
「あ、そうでしたね。ついてきて、ユヅキちゃん」
部屋を出るとき、壁掛け時計をちらりと見たが、まだ四時半だった。秋が深まるにつれて日没から日の出、つまり夜の時間は長くなっていく。つまり苦しい時間も伸びるのだ。それは快いことではない。見せる表情は笑顔に保ったまま、内心で深く嘆息する。




