2・ナイト エンカウント
B
何の期待もなく入ってみた本屋が、大当たりだった。店構えは立派でこそないものの、店主のこだわりが窺える商品のラインナップ。新刊はもちろん、古書の買い取りと販売もしていて、興味のそそられるままに奥へ奥へと進んで棚をあさり、二十一時の閉店を知らされるまで夢中になっていてまるで時間を忘れていた。本は、昔からよく読むのだ。
すっかり夜の帳は降り、街灯と周りの家から漏れる光を頼りに、自宅を目指して住宅街を歩いていく。
子供が出歩くには少し遅い時間だけど、言うほど子供というわけでもないし、門限を気にする必要はない。なぜなら、両親は仕事でほぼ家に帰らず、帰るとしたら必ずその旨の連絡があるからだ。一か月ほど前から両親とは電話越しでしか話をしていない。
ふと、放課後にした級友との会話を思い出した。わたしはいつも忙しいようなことと思っているような口振りだった。そんなことはないのに。理由の見当も、悲しいながらについてしまう。母の指導により、わたしの学校の成績は上位と言っていい域を保つことができている。試験の順位も校内に貼り出されるし、何かと注目は集めてしまうのだ。塾に通っているからだと思われているらしいけれど、事実無根である。わたしは今、学校以外に学習の場を持っていないのだ。
それに、これは被害妄想かもしれないけど、芸能人が見られる、という誘い文句を断ってしまうと、『そりゃ、家で芸能人なんて見飽きてるんだろ』と思われてしまわないだろうか。実際は母にはあまり会わない。でも家庭の内情なんて向こうに伝わりようもない。遊びの誘いを断るわたしの態度を、皮肉と受け取られないだろうか。
……後から悩むなら行け、という話だけど。
でもわたしは、いつからか人と関わりを持つのが怖くなってしまった。
お互いを深く知っていくうちに、『お前はこんなにも中身のない人間だ』というのを看破されるのではないか。
そう思うと、とても勇気など出なかった。
「駄目だな、わたし……」
過ぎたことを悔やんでも何も生まれない。今を見なくては。
風が一瞬強く吹いて、後ろから髪の束を揺らした。なんとなく後ろを見ても、薄暗い道路が見えるばかり。わたしは急にぞくりとした。
夜間に発生する、連続殺人事件。
走り出すまではしない。けれど、歩調を早める。朝のニュースが脳裏をよぎる。現状を見ても怖くなるなんて、滑稽だ。笑えないくらいに。
大丈夫。もうすぐ見慣れた門が見えてくる。そう思えるまでに家には近づいていた。
その時、進行方向で人影が動いた。必要以上に疑心暗鬼になってしまっていたので、跳び上がりそうになったけれど、幸い三メートル向こうの街灯が照らす光のサークルには、知った顔が浮かんだ。
道路をはさんで向かい、正確には右斜め向かいに住む婦人、照橋さん。一人暮らしなのは知っていて、下の名前は知らない。近所で挨拶を交わすぐらいの仲だ。ともかく、安心した。わたしを視認していないのか、下を見ながら歩いている。
ふいに、前触れもなく、その歩みが止まった。
「え」
どん、と重いものを壁に叩きつけたような音とともに、照橋さんの姿が消える。
「え?」
そして、その認識が間違いだとすぐに知る。
消えたのは、婦人の左胸から右脇腹にかけての上半身のみ。
刀に薙がれた竹のように綺麗に両断された残りの部分は、まだその場所に。
「嘘……!」
残った下半身から『ヒトの中身』が零れたのを、まばたきも出来ず目撃してしまう。けれど、靄がかかったようにぼやけて、夜の闇も手伝って、鮮明には見えなかった、気がする。
その時、夜の空が動いたように見えて、理不尽で直視しがたいものから逃れる意味もあって、そちらを見た。
信じられない現実が、そこに立っていた。屋根ほどもありそうな背丈の、大きな黒い怪物。闇に溶けそうなくらいの漆黒のそれは、人の形はしていたけれど、直感的に人ではないことがわかる。その怪物の全身からプレッシャーのようなものが、ずしりと頭に響いてきた。
鈍く光る金色の目がわたしを射すくめた。ゴシュー、という獣の唸り声のような呼吸音が、すぐそこのアスファルトに立つ怪物から聞こえてきた。両手の平に冷たい感触があると思ったら、いつの間にか道路にへたり込んでしまっていたらしい。全身のふるえが何よりも雄弁に恐怖を自覚させた。
「い、嫌……」
照橋さんはこの生き物に殺されてしまったのだ。何のために?そして次は、わたしの番?
火を見るよりも明らかだろう。遅まきながらに、件の連続殺人事件の犯人は、この怪物だと頭の中でつながった。
そして次の犯行を重ねようとわたしに一歩踏み出した、その時。
もう一つの黒い影が、怪物を吹き飛ばした。
A
ぬるいとしか言えない温度の海の中を漂っている。水質は体にまとわりつくようで、心地よさと気味の悪さがないまぜになったような感覚だ。
目は開いているが、光は見えない。ただ力を抜いて、黒い海を漂うに身を任せている。一生こうしているしかないのだろう。俺は無力で、誰にも知られず沈んで消えていくしかない。
しかし、その光明は唐突に水中に射した。温かで、優しい光。眩しさに目を細めるも、憧憬と切望の念を抑えることができなかった。
あの源へたどり着けば、助かるかもしれない。ままならない腕を大きくかいて、水面へと泳ぎ始める。上に行くごとに光は強くなっていく。
水の重さが、急に浮遊感へと置換されたものだから、驚かずにはいられなかった。自分が空気のある地上を飛んでいる……飛んで?
赤い瓦が接近してくる。声にならない悲鳴を上げながら着地、慣性の法則に逆らわずジャンプする。
悪夢から目覚めたとき、嫌な汗がじっとりと流れていることがある。それに近い感覚。次に跳び移った屋根に今度は柔らかく着地する。
「はぁっ!……は……はっ」
荒くなった呼吸を落ち着ける。
俺は住宅街の家々、その屋根から屋根へ、無自覚のうちに飛び回っていたのだ。見覚えのあるビルが遠くに見え、近所の中学校の校舎も見渡せる。
夢を見ているのか?その可能性はある。なぜならば、俺はさっき、睡魔に負けて眠りに落ちてしまったからだ。しかし。
……夜なのに、こんなに視界が明るいはずがない。いくら夢にしても。夢ならば逆に、夜の暗いイメージが強調され、もっと、その、怖いはずだ。そして俺に、屋根の上をフリーランニングできるほどの身体能力は備わっていない。何より、さっきから物が普段より小さく感じるのだ。
俺の推測が正しければ、――俺はあの羊の怪物になっている。なぜ人格を保っていられるかは不明だが、ともかく今、俺は俺のまま、巨大な怪物の体になっている。
電信柱の頂を蹴り、また高く跳躍する。巨体の重量に見合う負担がかかったはずなのに、みしりとも音を立てなかった。
唐突とも言える状況の変化の中、俺はすこぶる冷静だった。こんなことは今までになかった。当てもなく跳び回りながら考えるか、と思ったとき、視界に動く影を捉えた。
おそらく俺と『同種』である巨大な羊面の生き物。そして、その前に座り込む、ポニーテールの女の子。どう見繕っても、化け物が人に襲い掛かっているようにしか見えない。
助けに入るべきか、とその少女を注視した刹那、
俺の体は燃えた。
「⁉」
思わずその黒い体を見下ろしたが、それは錯覚だったと考え直す。決して燃焼運動など起こってはいない。ではこの感覚は?彼女を見たとき発現した、闘志とも言うべき衝動は?
助けなければ、と体が動いた。自分を含めた全てのモーションがスローになり、目標の位置をしっかりと定める。怪物が彼女の方へ動きを見せたところに、人生初の高速飛び蹴りをかました。
ずん、と重い反動を、膝を曲げて吸収する。間一髪だった。怪物は、六歩ほど後ろにたたらを踏んでよろめき、止まったところで俺を正面から鋭くにらんだ。どうやら、向こうの方が体重は重く、派手には飛ばせなかったようだ。
足下で、恐怖に目を見開いている女の子に俺は叫んだ。
「隠れて!早く!」
大変物わかりがいいようで、すぐに俺の言葉を理解し、立ち上がって俺の後方へ移動した。普通なら、同じく化け物な俺を見たら怯えると思うが、状況判断の速度から言って、なんとも強いメンタルを持った人間だと感心する。
しかしなにより、俺も気になっていることを少女は代弁してくれた。
「喋った……?」
そう、俺は日本語を発した。思った通りに指示が出せるほど明瞭に。この体に人間に似た発声器官が備わっているのか?
なんの気なしに女の子の無事を確認するつもりで振り返ったら、目が合った。
その一瞬は、どんな言葉でも表現することのできない、不思議な時間だった。俺と、もう一人の怪物の登場に混乱していながらも、まっすぐに人を見据える目。視線に顔の方向を縫い止められてしまったように、俺はしばらくその子から目を離せずにいた。
唸り声で、現実に引き戻される。顔を前に無理やり戻すと、俺より一回りは大きい怪物が、肩をいからせ威嚇していた。よく観察してみると、確かに羊だ。頭の横に角が渦を巻いていて、背面は羊らしい巻き縮れた黒い毛で覆われているのが見て取れる。振るだけで人の命など簡単にもぎ取ってしまいそうな太い四肢を見るに、「俺よりぜったいに強そうだ」という間抜けな感想しか浮かんでこなかった。
どうする。彼……もしくは彼女を撃退するにはどうすればいい。俺が人語を話す様子を見ても、コミュニケーションを取ろうとはしてこない。それどころか獲物を横取りされた猛獣のように息を荒くするこの怪物からは、野性の気が窺える。
こいつには、知性が無いのか?彼もしくは彼女も、元を正せば人間であることに疑う余地は無いのだが。
戦って勝てるのか。喧嘩などしたことがない。先ほどの自身の屋根から屋根への跳躍力を見るに、筋力は格段についていることがわかる。問題は運動神経だ。
「ガアァア‼」
雄叫びをあげ相手が突っ込んでくる。走る勢いのまま、黒い右拳が顔めがけて飛んできた。驚愕すべきことに、その拳の動きは捉えられた。上半身のひねりで右にかわす。これが殺人を存在目的とする怪物の動体視力か。
勝手に感心していたのが悪かった。続いた左拳の第二撃をみぞおちにまともにもらってしまう。
「ぐっ‼」
当てずっぽうの反撃で、右脚のローキックを敵の膝に当てる。手応えはあったが、少し距離を取られただけだった。
横目で女の子の様子を見る。逃げ出していないのが幸いだ。俺から離れられて、そこを怪物に襲われたら大変だ。俺もこれ以上、後退することはできないだろう。ずっとここで騒いでいても、近隣の皆々様を起こしかねない。わらわらと玄関からギャラリーに出てこられたらアウトだ。怪物の性向を鑑みれば、目撃者の虐殺劇が始まる。
どうする……?あの怪物の手ならば、人間の頭ですら握りつぶす力がありそうだ。ヒトと同じ五本の指で。
俺の手もそうなのか、と両手を見下ろして、目を疑った。敵とは違う、刃物のような黒い爪がついている。これは武器なのか?細かく動かしてみたが、指と同等に扱える。しかし神経は通っていないようだ。生物の器官としてはとても歪で、禍々しい狂気すら伝わってくる。
……閃いた。これを使えば。あつらえ向きに車一台分の狭い道路で、周りは家が邪魔をして相手も派手には動けない。いける、外さない。深呼吸をする。
「行くよ」
今度はこっちから、だ。姿勢は低く、素早く距離を詰める。丸太にも劣らない太い左腕のラリアットを、再び右に、かがんで避ける。敵の懐には入らず、外側から!
左目に突き立てるように黒爪を振る。狙い通り敵の目を傷つけ、小さく血飛沫が散った。低い悲鳴を漏らして怪物が左目を押さえる。視覚を半分奪ったのだ。いくら体格があっても、劣勢だとは思わないかい?と口には出さずに無言で語りかける。この怪物に見立て通りの判断力があるならば……。
そして、羊の怪物は踵を返し、二階建ての家を軽々とジャンプして夜の闇に消えていった。知らない間に緊張で体は固くなっていて、安堵のため息と共にそれがほどけたのを感じた。
……さて、どうなってる?なぜ、今夜この時だけ『俺としての意識』が怪物に変身した今でも残っている?いつもなら、一度眠ってしまえば日の出の時間、自己嫌悪と罪悪感に苛まれるのは免れないことなのに。何かスイッチがあったのか?いつもと違う――。
「……まさか」
後ろを振り返り、まだ不安げな顔で俺を見つめている制服姿の女の子を見下ろす。
「おい、なんだあれ!」
男の声が思考に割り込んできた。さすがにやかましくしすぎたのか、家でくつろいでいた近所の人が異変に気づいて外に出てきたのだ。続々と玄関や窓が開き、住民たちが顔を出す。
「化け物だ!」「あれ……あそこに倒れてるの、人?血が出てるんじゃ……」「警察呼べ、早く」「やべええ」「なにかの撮影?」
次々と上がる声。状況を客観視すれば俺の立場はあまり良くない。真っ二つになった人の死体、俺の傍には一人の少女。俺が犯人にしか見えない。
……冤罪だ。ずるいぞ逃げるなんて、と撃退した本人は気の抜けた不満しか漏らせなかった。本来逼迫した状況のはずだが、やはりどこか冷めていて、他人事のように感じていた。人が死んでいるのに自分の無実の罪を気にするあたり、セコさが窺える。
ここは俺も逃げなくては。再び彼女に視線を向けた後、俺も怪物と同じように、しかし方角は反対に跳躍した。