10・灯す
B
昨日、サイキが変身する様子をこの目で見た、ビルの三階。薄暗さから家の地下倉庫を思い出すけど、ここにはあそこのようなカビ臭さは無い。
「今日の実験内容は、俺の変身条件の再確認」
サイキが人差し指を立てる。
「そして、別個体への『羊飼い』の能力の応用です」
続けて、中指を立てた。
「羊飼い?」
「ジョニーさんの言葉を借りました。ユヅキちゃんが俺の意識を変身後も保ってくれる能力を、これからは『羊飼い』と呼ぶことにします」
「俺だったらやだな……こんな性格の悪い勝手気ままな羊飼うなんて」
「俺も、話を聞かないくせに態度が大きい羊を飼うなんて御免ですね」
にこやかに言い放つサイキの横顔に向けて、わたしは訊く。彼らの暴言の応酬には慣れた。
「再確認ってことは、またここで変身するの?」
「そうだね。たまたま昨日上手くいっただけかもしれないし。それと、『能力の応用』のときに必要になるからさ」
「?」
「まあ見ててよ」
サイキは静かに目を閉じ、直立不動の姿勢のまま動かなくなった。すると昨日と同じように、サイキの皮膚の裏側から影が染みだして来たかのように全身が黒くなった。突然の行動にわたしは驚き、二、三歩彼から離れる。
巨躯へと変貌し、黒く煌めく。金色の目がまばたきをし、怪物は大きく伸びをした。
「うん、なるほど。勝手が掴めてきたね」
高浪さんが呆れた様子で、「いきなり変身するなよ。上手くいかなかったらどうすんだ」
「ユヅキちゃんの力を信じてるからね」
と、羊顔のサイキは目を細くし、笑った。サイキは、普通の人なら言いよどむような恥ずかしいこともさらりと言う。わたしは熱を帯びた頬を気にせず、
「か、体を動かした感覚はどうなの?」
「そうだね。不自然な箇所はないよ。この怪物が羊に似た顔をしているからなのか、視野がすごく広い。それと薄暗いはずの周りがまるで昼間のように明るく感じられるよ。いや、正確には、暗さは残っているけど明度は高い、みたいな不思議な感覚。夜間に活動すべく出来てるんだろうね」
「わたしが見たとき、サイキはすごく高くジャンプしていた。パワーは筋肉量と比例しているか、それ以上だと考えていいと思う」
細かい検討が続く中、高浪さんは退屈そうにポケットを探る。煙草だった。
「火ぃ持ってね?」
わたしはもちろん持っていないし、サイキも持っていないだろう。そう思ったのに、
「持ってたけど……変身の時に消えましたね」
わたしと同い年ということは未成年で、持っている道理が無い。愕然としながらも恐る恐る、
「……サイキ、煙草吸うの?」
「違う違う」彼は鋭利な爪のある手を振った。「お酒と一緒に持ってれば、役に立つからだよ」
役に立つ……一体なにに?危険な道具のコンビに冷汗を流していると、サイキが急に、
「うっ」とうめき声を漏らす。
「鎮まれ……俺の右手!」
……意味の分からないことは調べるのが習慣になっている。昨夜聞いた『中二病』というワードが辞書に載っておらず、仕方なくインターネットで調べたことを総括すると、『しょうもないこと』らしい。よって、
「なにふざけてるの」
冷たくにらむ以外の処置はない。しかしサイキの小芝居は終わらず、ちょっと、と言いかけたところでサイキの手から小さいものがこぼれ、床に落ちて硬質な音を立てた。
「……ライター?」
「だな」
「……俺のポケットに入っていたものです」
拾い上げる。燃料の液が半分ほど入った、コンビニで買えるような百円ライターだ。
「そうか!わかったぞ!」サイキが思わずといったように叫ぶ。なにかと思えば、
「俺は今服を着ていない!」
そんなことを言われた日には、彼から目を逸らさざるを得ない。高浪さんもそう思ったらしく、視線が鉢合わせた。
「あの……冗談です。そんなふうにされると逆に恥ずかしくなるのでやめて」
そう言われても……。
「あんまりいじめてやるな。ユヅキが赤くなってるだろ?」
「な、ななななってないです」
「ともかくさ、着ているものの行方がいつも気になっていたんだ。体が拡縮しても破れた痕跡はないし。体に同化してると考えるのが一番自然だと思う」
「まあ、代わりにお前の髪の毛みたいなのが体に生えてるしな」
「誰の頭が羊毛ですか」
顔の温度状態が通常に復帰したわたしは、考えを口にする。
「だから、ポケットに入っていたライターが体から出てきたってこと?」
「この体は、変身するときに身に着けていたものを取り込める。そして、自由に排出ができるんだ。……これは使える」
「そうか……」新事実の発覚にも高浪さんは気のない感想を漏らすばかり。彼はライターを見ると、「お前の体から出てきたとなると、使うの抵抗あるな」
「……」
サイキがわたしの手からライターをつまみあげる。二本の爪の先に挟まれた小さなそれは、空中に放られた。
「じゃあこれは要りませんね」
四方を壁に囲まれた室内に、風が起こった。重力に従って再び床に落とされたライターは、『この時』は変わらない形を保っていた。
「なにしてんだよ」
高浪さんが軽く笑い、ライターを拾って火をつけようと親指をかけると、彼の指が滑った。
実際には、指に押されてライターの『上半分』が滑り、ぽろりと落ちたのだった。
「は?」燃料が切断面すれすれで零れない、残ったプラスチック部分が高浪さんの手に握りこまれている。
「斬りました。この爪でね」
サイキはわたしたちに見せるように右手の掌を開いた。「なかなかどうして、見た目負けしてない切れ味だね」
あっけにとられている高浪さんのくわえた煙草に、その爪の先が差し出される。きん、と金属がこすれる音に付随して、煙草に赤色が灯った。
「どうぞ。いやあ、やってみたかったんだよね。指パッチンで煙草に火を点けるの。――あれ、どうしました」
無邪気に笑うサイキとわたしたちの間に、沈黙と紫煙が流れた。
A
「器用にも限度があるんじゃ……」とユヅキちゃんにため息を疲れても、その意味は分からなかった。「どうしてさ」
「初めての体を動かして数日で使いこなすなんて、医学の観点を無視してると言っても過言じゃない」
どうやら俺は、およそ学問や常識と呼ばれるものに失礼な態度をとっているらしい。ユヅキちゃんの見解によれば、だけど。
「いいなー俺もやりてえなー指パッチン」
高浪さんが煙草の前で無駄に指を鳴らしてみたりしているが、
「高浪さんはできませんよ」
「なんでよ。変身してないからか?」
「そういうことじゃ……」教えてあげようと思ったが、もっといい方法があることに気づいた。人差し爪をぴしと突きつける。「案ずるより産むが易し、ですよ」
察しがいいのか、ユヅキちゃんが言った。
「能力の応用……高浪さんに変身してもらって、わたしの能力がサイキ以外にも適用されるか確かめるってこと?」
「ザッツライト」親指を立てる。いや、指ではないか。
「そうか……それが上手くいきゃあ、俺も眠いの我慢する必要が無くなんのか。よし、やろう!お休み」
あとは誰の指図も受けんとばかりに涅槃に入ろうとする。俺とユヅキちゃんの制止は同時だった。「待ってください!」
「なんだよ二人揃って」
譲り合いの精神を惜しまず発揮する。
「お先にどうぞ」「後でいい」「レディファーストで」「レディファーストの起源は男の人が危険から逃れるためって聞いたけど」「諸説ある内の一つさ。でもそれを知っているとは該博だね」
「誤魔化さないで」
「どっちでもいいから、早くしてくれ」
当事者から苦情を言われてしまった。さもなくば、コレに託すしかあるまい。
「じゃあ俺やるよ」挙手する。しかし、
「どうぞ」普通に譲られてしまった。
「……え?」
「え、だから、先に」
こんな躓き方をすると思わなかった。なんと殺生な。
「うわー、サイキ君スベったー」高浪さんから容赦のないヤジが飛ぶ。しかしわたくしは断じてスベってなどおりません。――オーストリッチ・クラブが通じないなんて!
「……ユヅキちゃん。もしかしてテレビはあまり見ないほう?」
彼女はなぜか照れた顔で、「ニュースは見る」と。誰だって見ます。
「ははあ、なるほど。芸能に興味はないタイプってことだね」
それを聞いたユヅキちゃんの表情が心なしか翳った。「悪い?」とぶっきらぼうに返されたので、つい慌てて笑顔を作る。知らず藪をつついてしまったか。
「いいや?俺も同じだよ」
「ん、そう」
まあ、誰にでも気分の良くない話題はある。追及は控えておこう。最近調子に乗り気味だし。
「で、なんだよ」
待ちかねた高浪さんが携帯灰皿にちびた煙草を放り込む。先にと言われたので、
「すぐ済む話です。高浪さんが暴走する可能性も考えて、ユヅキちゃんにはすぐ逃げられるようにしておいてほしいな、と」
「そういやそうだな。上手くいかなかったらあぶねえか」
「わたしもそのことで」とユヅキちゃんが腕を組む。
「わたしにはなにも出来ないし、もしそうなったら逃げることに異論はない」
そう言う彼女の端正な顔は悔しそうな表情を見せる。得体の知れない俺の後をつける勇気の持ち主であればこそ、いざ危険となったら尻尾を巻いて逃げるのは性に合わないのだろう。俺は敵前逃亡こそ生存の最善策だと信じているが。しかし怪物の脅威をその目で見たからこそ、適切な選択が受け入れられる。その判断力の高さがあれば、彼女の羊飼いとしての将来は有望だ。
などと偉くもないのに上から目線で彼女を評価していると、当人に見透かすように睨まれた。
「でも、サイキは残るつもりなんでしょ?」
うっ。
「ど、どうしてそう思うんだい」
「だってその体じゃ、ここからは出られないから」
困ったな。気づかれることもなく終われれば良かったんだけど。変身したままでは出口からは頭ぐらいしか出ないだろうし、彼女がその考えに至らないと思うほど侮っていたわけでもないけども。俺は開き直る。
「仕方ないじゃないか。暴走した高浪さんが滅茶苦茶に暴れて建物を壊さないとは限らないし、物理的に止める人員も必要なんだよ」
「自分が危なくなるとは思わないの?」
「俺には自己犠牲の精神はないけど、一応は人間なんだ。近くで知っている人が殺されるのは嫌なんだよ。それに」
やめようとは思った。言う必要のないことだと。だが、本音が口をついて出る。
「俺が怪我したって、誰も困らないさ」