空の記憶
湿気を帯びた風が、汗ばんだ髪を掻き乱して行く。
ふと、何かが聞こえた気がして、空を見上げた。
何も見える筈のない目に映ったのは二匹の、小さな鬼。白い雲にちょこんと乗っかって、気持ちよさそうに飛んでいる。
ああ。こんなところに居たんだ。
そう思って手を伸ばした時、
「マイ」
だれかが、彼女を呼んだ。
マイコとカツミは、幼なじみ。尋常小学校に入学する前からずうっと一緒でした。
ふたりは歳も近く、何よりもふたりの両親がとても仲が良かったので。家の手伝いはしなければならなかったけれども、それ以外の時は遊ぶのも勉強も、いつも一緒。
神社の娘のマイコには不思議な力がありました。毎日の天気予報は外れたことはありません。失せ物探しの名人でもあります。どうやら、カツミには見えないものを見たり、聞こえない音を聞きとったりしていたのですが、カツミはそれを気持ち悪いと思った事はありませんでした。名主の息子のカツミに、気さくに話しかけてくれる友達は、マイコしかいなかったからかも知れません。
だから、川に魚を釣りに行くのも、山に山菜を摘みに行くのも、いつも一緒。
それは、ふたりそろって山に栗を拾いに行った時の事でした。
ふたりが生まれた山里では、このお山は「神様が棲む山」と呼ばれていて、山の中腹に、誰が作ったのかも解らない小さなほこらが建っています。山の恵みを持って帰る時には必ず祠にお供えをしなければいけないことは、里で育った子どもたちなら誰でも知っていました。
ふたりは拾った栗をイガから外し、大ぶりな実を五つ六つほこらにお供えし、手を合わせます。
「どうやって食べる? 煮る? 焼く?」
まん丸に太った実に、カツミが目を輝かせるのへ。
「そうね。境内で、焼いて食べよう。落ち葉掃きをして、その中に埋めて」
マイコは、その様子を想像します。まんまるに太った、栗。落ち葉の中に埋めて焼けば、香ばしい匂いが広がる筈。皮を剝けば、ふっくらとした黄色い実が顔を覗かせることでしょう。
「楽しみだね」
「うん。お父さんたちも喜んでくれるよ」
祠に背を向け、そんな話をしている時でした。
何かの気配を感じて、マイコが振り向くと、小さな人影が目に入りました。頭に一本角が生えた子鬼です。祠に手を伸ばし、栗を掴んでいます。
「あ、私たちのお供えが!」
マイコの声に驚いたように、子鬼な影はいちもくさんに逃げ出しました。慌ててカツミが後を追い、マイコも少し遅れて追いかけます。
「待て。お供えに手をつけると、バチが当たるぞ」
「そうよ。それは、山の神様にお供えしたものなのに!」
でも、子鬼はとてもすばしっこくて。カツミもマイコも、すぐに姿を見失ってしまいました。
「どうしようか。マイコ。せっかくのお供え、とられちゃったよ」
カツミの言葉に、マイコは少し考えます。すると、どこかから何かが聞こえて来たようですよ。
マイコは大きく頷き、樫の木の下まで進みました。
「ふんだ。隠れてもむだなんだから」
すうっと、大きく息を吸い込むと、
「出て来なさい。フウ!」
大きな声で叫びます。
どさりと、何かがマイコのすぐ近くに落ちてきました。
「いっててて」
お尻を押さえてうずくまっていた子鬼は、目に涙を浮かべながら、マイコを見上げます。
「何だよ、お前。なんだっておれの名前を知ってんだ?」
「山の神様が教えてくれたの。いたずら者の子鬼のフウ」
勝ち誇ったように、答える、マイコ。これには、さすがのカツミもびっくりしました。
「え? マイは神様とお話が出来るのか?」
「そうじゃないわ。でも、神様が教えてくれたの。名前も、どこに隠れているのかも。きっと……」
「すげえな、マイ。マイは本物の巫女さんだったんだ。ほんと、すげえ」
マイコの言葉を遮るように、喜んで「すごいすごい」と繰り返す、カツミ。
「すごくなんかないってば。かっちゃんまで……」
何かを言おうとして、マイコは黙ってしまいました。
カツミだけは、マイコを気持ち悪がらない。特別あつかいをしないのだって、ずっと思っていたのです。
「そんなことより、いたずらっこの子鬼さん。あなたも……」
まだ、座り込んだままの子鬼にマイコが手を差し伸べた時。
「人間のぶんざいで、生意気なやつ!」
まるで、雷鳴のような声が響き渡りました。
今度は、さすがのマイコもびっくりして飛びのいてしまい、カツミはきょろきょろと声の出所を探します。
「巫女か何だか知らないが、そいつに手を出すやつは、ただではおかない!」
空に雲がわきたち、山を暗く染めて行きます。
「待ってよ、ライ。悪戯をしたのは、おれの方なんだから」
慌てて叫んだのは、子鬼のフウ。すると、
「ば、ばか。おれの名前まで、呼ぶなよ」
声は、なんだか焦ったようです。
すぐそばまで来ていた雷雲が、すうっと引いて行きます。
「待って、ライ。私は、フウに何かをしようとしたわけじゃないわ。ただ、一緒に遊びたかっただけなの」
「え?」
マイコの言葉に、フウは驚いたようにマイコを振り返りました。マイコは真剣な顔で空を見つめています。
「さすが、マイだよな。やっぱすごいや」
その傍らでうんうんと頷いているのは、カツミ。
「降りておいでよ。ライ。一緒に遊ぼう」
「これだから、人間の子供はいやなんだ」
仕方なさそうに雲の上から飛び降りた子供の頭には、二本の角が生えていました。
ふたりと二匹はすぐに仲良くなり、一緒に栗を焼いて食べました。
残念ながら二匹の子鬼は山から下りて来てはくれませんでしたが、マイコたちが山に来ればいつでも遊べます。
ほら、今日も。
「マイコ! カツミ!」
一本角のフウが嬉しそうにマイコたちに駆け寄り、
「また来たのか。ずいぶん、ひまなんだな」
二本角のライはふんと笑います。
人なつこいフウと、ひねくれ者のライ。どちらも、マイコたちにとっては大切なお友達です。
「だって、フウとライに会いたいんだもん」
「鬼の子の友達なんて、他にいないもんな」
マイコが甘えるように、カツミが誇らしげに答えました。
「おまえら、本当に変わってるよな」
「そんなこと、どうでも良いじゃないか。今日は何して遊ぶんだ? かくれんぼか? 鬼ごっこでもいいぞ」
「今日はね、お話を聞きたいの。楽しいお話、聞かせて」
マイコが笑うと、フウも嬉しそうに笑います。
「いいよ。どんな話をする?」
「ふたりが、この山に来た時の事。どうやって来たんだ?」
マイコとフウの間に割って入るのは、カツミ。
「空を飛んで来たんでしょ? ちょっと前に、フウが言っていたよ」
「え? いつ、そんな話をしたんだよ。おれ、聞いてないぞ」
「え? そ、そうだったっけ?」
マイコと一緒にいると、いつも嬉しそうにしている、フウ。
そして、マイコとフウが話をしていると、すぐに割り込んで来る、カツミ。そんな二人の気持ちを、ライは解っているようです。面白そうに二人をかわるがわる、見てから言いました。
「おれも知らないな。おおかた、この間のかくれんぼの時だろ? カツミがオニだった時」
「えええ? そんな時に、そんな話を? ずるいぞ。マイ」
「かっちゃんが、じゃんけん弱いから悪いんでしょ」
あっかんべーをする、マイコ。
やがて、みんなで顔を見合わせて、笑い出します。
「空を、飛ぶんだ。雲に乗って」
うっとりと告げたのは、フウでした。
「こーんなに大きな山でも、海の上でも、雲に乗ったらひとっとび」
「すげーな」
フウの言葉に、カツミも空を見上げます。その両目はきらきらと輝いていました。
「こいつは、空を飛ぶのは得意だけど、ほら、この通りのお調子者だからさ。はしゃぎすぎて雲から落ちて、さあ大変、だ」
にやにやと笑いながら続ける、ライ。でも、何か嫌な事を思い出したのでしょうか、少し顔をしかめます。
「ライが伸ばしてくれた手につかまったら、今度はライまで転がり落ちてしまってさ」
「まったく、迷惑なことだ」
「二匹で、風に乗ってやっと、ここまで来たんだ。この山の神様の元で、のんびりと力をたくわえているんだ」
「力をたくわえるって?」
「人間を、こらしめる力」
「フウ!」
ふいに。
ライが叫びました。その声の勢いに、三人とも固まってしまいます。
「鉄の匂いが近づいている」
いまいましそうに、ライは呟きます。
「フウの手を掴んだ時、嗅いだのと同じ匂いだ。あの匂いが、この山にも近づいている」
「ライ、大丈夫? あの時のケガがまだ痛むの?」
おろおろと、フウが話しかけ、
「え? ケガ? ライ、ケガをしてるの?」
差し伸べた、マイコのては、ふり払われました。
立ち尽くしてしまう、マイコ。ライは、少しの後で申し訳なさそうに頭を下げます。
「ごめん、マイコ。お前ら、今日はもう帰れよ。雨が降りそうだぞ」
言われて、マイコはびっくりしました。
今日は、一日中お天気だと思っていたのに、いつのまにか頭上には雨雲が広がっています。
「うん。ごめんね、ライ。フウ、またね」
「え? マイは別に悪いことしてないだろ? 何で謝るんだよ?」
途中の話は聞いていなかったカツミが、割って入ります。
「今日は帰ろう。本当に雨が降りそうだよ」
「そっか。もっと聞きたかったな。空を飛ぶ話」
マイコに促されて、カツミは残念そうに手を振り、山を下ります。
それでも、その目はずっと空を追いかけていました。
月日が流れて。
カツミは、都会の士官学校に行ってしまい、マイコは神社の巫女になりました。
日に一度は、お供え物を持って祠に立ち寄るマイコですが、ライやフウの居るところまでは来ません。
「そろそろ、ここにも居られないな」
ある日、ライがぽつりとつぶやきました。
あんなにきれいだった空は、今では鉛色に曇っています。
戦争がこの国を巻き込んでから、既に数年が経っていました。
「空を越える力はない。でも、よその国に行くことぐらいは出来るだろ? フウ」
「でも、ここにはマイコやカツミがいる」
「でも、おれ達に出来ることなんか、もう残ってないさ。さあ、次の風が来たら、ここから去ろう。南に行くか、北が良いか」
「まってくれよ、ライ」
久しぶりに、フウの顔に嬉しげな笑みが浮かびました。
「マイコだ」
そう。山を上がって来るのは、すっかり成長してきれいな娘に育ったマイコでした。
「何をしに来た? マイコ」
マイコが「もう遊べない」と言いだしたのは、カツミが士官学校に行った時の事でした。
空を飛びたいと、航空機乗りになりたいと、カツミは言っていたそうです。
マイコは、真剣な目でライを、そしてフウを見ました。
「お願い、ライ、フウ。かっちゃんを助けて」
ライとフウは、目を見交わします。
「何があった?」
マイコが取り出したハガキは、大切な所が黒く塗りつぶされた、カツミからの手紙。
「かっちゃん、きっと南方に行ったんだわ。死んじゃうかも知れない」
ハガキを見ていたライが、はっと顔を上げます。
「お前、なぜ、そう思う? 神通力を使ったのか?」
言われたマイコは、ひどくおびえた顔をしていました。
「私は、知っているの。あなたたちは、ただの子鬼じゃない。神様だって。だから」
マイコには、昔から不思議な力がありました。
今では、二匹が子鬼ではない事を、知っています。だから、胸の前で手を合わせてマイコは頭を下げました。
「風神、雷神」
震える声で、マイコは言いました。
「お願い」
「お前は、巫女だろう? マイコ」
フウが、今まで聞いたことがないような、低い声で告げます。
「巫女は、自分の願いを言ってはならない」
ぴくんと、マイコの全身が震えます。
「願えば、神通力を失う」
「かまわない!」
おこりのように震えながら、マイコは叫びました。
「私が、どうなったって、かまわない。かっちゃんを助けて!」
かぜが、ごうごうと鳴ります。
どこからか、稲妻が近づいてきます。
「神通力をなくしても?」
「失せ物さがし? 天気予報? そんな力、いまさら」
「巫女が、自らの願いを神に願うか」
「人間なら、誰もが願う事だもの。私は、人間だもの!」
ライが、顔をしかめました。また、鉄の匂いが近づいて来たようです。
「そうか、お前も人間だったのか。マイコ」
マイコから顔をそむける、ライ。
「解った」
頷いたのは、フウでした。
「お前の願い、叶えよう」
フウ額の一本の角が伸び、マイコを貫いたように見えました。
ですが、マイコの身体からは血も出ていません。
激しい風が、渦巻きます。
「久しぶりに、力がみなぎる。おれは、風神。風を司るもの。巫女よ、望み通り、おれはカツミの元に行くぞ」
鉄の塊が、空を飛ぶ。
油と炎を巻き散らしながら。
「風に乗りたい。空を飛びたい」
いつか、マイコと一緒に。それは、カツミの小さな頃からの夢でした。
やっと、空を飛ぶ力を手に入れたのに。カツミが配属されたのは南方の激戦区。
作戦は、「片道分の燃料を積んで、敵に特攻せよ」というものでした。
痛い、痛い、痛い。
エンジントラブルを起こした、カツミの機体。その傍らで誰かが泣いています。
風が、痛いと。プロペラからの風が、痛いと。
「ごめん、フウ」
カツミには、解っていました。先ほどから、自らの機体を包む、風。いいえ、もっと前から、カツミの側に居て、いつも守ってくれている、存在。
それが、幼い頃からの友達。子鬼のフウだという事に。
「もう、いいから」
撃たれた右腕は、もうまともに動きません。右手に左手を添えて機体を固定し、風を捕まえている状態。
今、敵に会えばあっけなく吹き飛ばされてしまう事でしょう。
(諦めるな)
フウの声が聞こえます。
(諦めるな。まだ、お前を待っている者がいる)
でも、もう右腕が動きません。もう、意識だってぼんやりとしています。
「生きろ、マイコ」
カツミの乗る飛行機は、ゆっくりと海に向かって滑空して行きました。
街が、燃えています。
村も、山も。
何百という爆弾が、鉄と油の匂いを振りまきながら降り注ぎます。
人々の、祈りが、叫びが、悲鳴が、ライの心をゆさぶりました。
空は、ライが大嫌いな鉄の匂いで満ちていて、上手に飛ぶことができません。出来るなら、あのすべてに雷を落としてやりたいのに。
だったらせめて、逃げろと、ライは叫びます。でも、その声は誰にも届きません。
唯一、彼らを見て笑ってくれた少女は、選んでしまったから。
自分の一番大切な人を、選んでしまったから。
だから。
カミカゼは、もう吹かない。
風神は、去ってしまった。マイコの願いを叶える為に、最後の力を振り絞って。最後はつむじ風になって、消えてしまった。
風神がいない。だから、雷神ももう、遠くには飛べないのです。
迫りくる爆弾に、雷神は両手を広げます。
せめて、この大地を守る為に。
夏の日差しの中に、赤い花が咲きました。
一〇〇年は、草木も芽生えぬと言われた大地に。
鳴り渡る鐘に黙とうをしてから、ひとりの男の人が汽車に乗りました。その男の人は、右手のひじから先がありません。左足も、引きずっています。
見た事もない駅から出ると、やがて汽車は見慣れた景色を映し出します。
そう。なつかしい、山里。空は、いつか見た、きれいな水色を描いているのに、カツミは二度と空を飛べません。
南方で、エンジントラブルを起こしたカツミの機体は、風に流されて未開の地に降りました。そこで、怪我が原因で病気になって、何度も死にかけたか解りません。
その度に、カツミの耳元で声が聞こえたのです。
諦めるな。お前を待つものがいる、と。
そのカツミがこの懐かしい山里に戻れた時には、戦争が終わってから十年以上も経っていました。
汽車を降りたカツミは、足を引きずりながらゆっくりとゆっくりと、ふるさとに向かって歩きます。
何もかもがなつかしくて、何もかもが、違っていました。
神社の階段では、顔にひどいやけどを負った女の人が杖を片手に座っていました。
どうやら、近所のお爺さんと世間話をしていたようです。お爺さんがどこかに行くと、女の人は顔を上げ、空を見上げました。
「マイ?」
カツミが呼ぶと、女の人はこちらを振り返り、不思議そうに首をひねります。どうやら、目が見えていないようです。
「おれだよ。カツミ」
「え? かっちゃん? 本当に?」
カツミは足をひきずりながら、マイコは杖で地面を探りながら、ゆっくりと近づき、手を差し伸べます。
やがてふたりは手を取り合い、懐かしい家へと戻って行きました。
〈おしまい〉
読んで頂き、ありがとうございました。
この物語は、私がけっこう長い間温めていたものですが、どうしても筆力が足りなくて(苦笑)
童話なら書けるかと、「冬童話」出品作品としてまとめてみました。
でも、やっぱり書きたいシーンを書き切れなかった。難しいですね。でも、今の私にはこれが限界みたいです。
機会があれば、童話バージョンではない形で書いてみたいと思います。