第51話 乗り越えて
〜レオ視点〜
その日も、いつも通りに始まった。
いつも通りに同じベッドで目覚め、おはようの挨拶をして、寝間着を脱いで身体を清めてから普段着に着替えた。
それから俺は本の配達に向かい、ミリーは朝ごはんの準備を始めた。
一時間ほどで俺が帰ってくると、いつも通り健康に気を使ってくれている美味しそうな料理のにおいが、鼻をくすぐった。
いつも通りに食器を並べてから、二人で向かい合ってテーブルに座り朝食を食べ始めた。
ジャックは、いつも通り、まだ専用の寝床にいる。
「ジャック、なかなか起きませんね」
「そうだね。 もうほとんどの時間を寝て過ごしてるからね」
王都から帰ってきてから数日。 ジャックは一日の大半を寝た状態で過ごしている。
起きているのは一日に数時間だけという感じで、朝ごはんと夕ご飯の時間あたりに起きてご飯を食べて、少しだけミリーや俺と遊んでから疲れて眠ってしまう。
ご飯を食べていたり、遊んだりしているときにたまに息苦しそうにしているときがあり、かなり病気が進行しているのだろうということは察することができた。
残念ながら、俺には動物の病気に関する知識がない。 いや、そもそも人間の病気に対する対処法だって対したものはない。
転生したからと言っても、前世の技術の全てを把握していたわけではないのだ。 これが大学時代に獣医学や医学を専攻していたら、もう少しは違ったのかもしれないけれど。
「少し様子を見てきますね」
「ん、わかった」
ミリーが苦笑い気味に立ち上がる姿を目で追いかける。
笑顔を作っているものの、少し無理をしているのだということは誰の目から見ても明らかだった。
「ジャック〜? もう朝ですよ。 ご飯にしましょう?」
「もう、ジャック?」
「…………ぁ、れ?」
ジャックの身体を抱き上げたミリーが、喉から漏れ出すようなか細い声を上げる。
その様子に、なにか嫌な予感がした。
「レオ、様。 少し、よろしいでしょうか」
「……………ん」
ミリーの声に応えて、ゆっくりと立ち上がり、ミリーの方へ向かう。
「あの、ジャックの体が冷たいように感じるのですが……私の気のせいですよね?」
何かを誤魔化すようにミリーは笑顔で尋ねてくる。
この笑顔はもしかしたら、自分自身を誤魔化すための笑顔なのかもしれない。
何てことはない自分の勘違いだと。
しかし俺は、そのミリーの様子から予感が確信へと変わってしまった。 そして、視線をミリーの腕に抱かれたジャックに向けたとき、現実のものとして受け入れざるを得なかった。
俺が黙ったままなのを見て、ミリーが再び口を開いた。
「胸の上下が少ないのも、体が硬いのも。 きっと、病気で弱っているから。 ですよ、ね?」
本人はもう、わかっているのだろう。
胸の上下は少ないのではない、もうどう見たってしていない。 体が硬いのだって、硬直が始まってしまっているからだろう。
動物を飼ったことのないミリーだって、生き物が死んだときの変化がどのようなものか知識としては知っているはずだ。
呼吸をしないということも。
体が硬直し始めるということも。
体温がなくなっていくということも。
ミリーは、わかっているのだろう。
ジャックが死んでしまったということが。
しかし、受け入れられない。
受け入れたくないのだ。
俺だって、もう頭の中がぐちゃぐちゃだ。
飼っていたペットが死んでしまった経験は、前世でもなかったわけじゃない。 ジャックと暮らした時間は短かったし、それほどたくさんの思い出があるわけでもない。
だからって、ジャックが死んでしまったことが悲しくないわけがない。
けれど、俺がここで泣いていてはダメだ。
俺は呼吸が震えるのを抑えながら、首を横に振った。
「────ぇ……?」
「たぶん、夜の間に息を引き取ったんだね。 もしかしたら、夕べ俺たちが見たときからそのまま、だったのかもしれない」
「どう、して……」
目を見開いて、焦点の定まらない目を向けてくるミリー。
少しでも冷静でいようとする俺だけれど、その目にはどのように見えているだろうか。
醜く泣き崩れていないだろうか。
「なんで……? だって、え? はは、わかんない。 なんで?」
「ミリー……」
ミリーは片手を自分の目に当てて、現実を拒むように首を振る。
その目からは涙が零れ、ジャックの身体を濡らす。
しかし、既に感情が制御できていないのか、彼女の意に反して口元はつり上がってしまっている。
「レオ様。 なんで、この子は、ジャックは……」
「病気だったから、だよ。 ミリーも覚悟はしてたでしょう?」
ミリーの求めている答えが、これではないということぐらいわかっている。 いや、そもそもミリーの問いかけは答えなど求めていない。
彼女のそれは、現実を拒んでいることの現れ。
現実からの逃避。
「ジャックは一生懸命に生きていたじゃないですか。 なのに……」
身を乗り出して、ミリーの身体をそっと抱きしめる。
「命って、そういう脆いものなんじゃないかな。 たぶん、俺たちが思っているよりも、命は簡単になくなっちゃう」
一度、命を失ったからこそわかる。
命の脆さ、儚さ。
そして────
「でも、だからこそ尊いんだと思う」
────尊さ。
今になって考えれば、前世の俺はただなんとなく生きていた。
ほとんどなにも考えないで周りに流されて高校、大学に進んで、そのまま就職。 機械的に目の前に現れる仕事をこなすだけの日々。
夢がなかったわけじゃない。
生きることに疲れていたわけでもない。
けど、今世ほどに一生懸命に生きてはいなかったと思う。
命の尊さを知ったからこそ、ジャックのことをしっかりと送ってあげないといけないと思う。
「これから、庭に埋めてあげよう? ジャックがちゃんと旅立てるように」
「……はい。 でも、その前に……。 もう少しだけ、胸をお借りしていても、いい、ですか?」
「いいよ」
ジャックをその腕に抱えたまま、ミリーは俺の腕の中で目一杯泣いた。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
家の裏側。 庭と呼ぶには少し狭い、けれど日の当たる場所にジャックを埋葬した。
埋める前にソフィリアさんにも話して、彼女も一緒にジャックを見送ってくれた。
「レオ様」
「ん?」
「ジャックは、幸せだったのでしょうか……?」
「俺には……わからないよ。 ジャックの気持ちはジャックにしかわからないんだから。 だけどさ、ミリーにはどう見えた?」
「………とても、幸せそうでした」
「なら、きっと幸せだったと思うよ」
「はい」
そう返事をするミリーを、俺は今までにも増して美しいと思った。
拒絶しながらも最後にはジャックの死をしっかりと受け止めて、前に進もうとするミリーの姿が俺には輝いて見えた。
そして俺は、より一層、ミリーを失いたくないとそう思った。




