六章 ~向けられた悪意 現れたもう一人~
◆
「よぉ、電柱女」
その声に振り返れば、そこには川村君がいた。ただし、今の彼は派手な私服姿で、右手には、黒光りするごつごつした何か。それが何なのかは、ここからでは分からなかった。
「ったく、態々人のいない道に入ってくれるなんてなぁ。こっちにとっては好都合だったが……馬鹿としか言いようがねえよなぁ?」
彼はゆっくり、一歩ずつこちらへ進んでくる。そして、右手に持った黒い物―――銃を、私に向けてきた。
「ほんとはあの野郎に使うつもりだったが、とりあえずお前で試運転だ」
トリガーが引かれ、小さい炸裂音と共に、私の頬を何かが掠めた。
「ちっ……命中は大したことないな」
それが、銃口から放たれた弾丸だと気づいたとき、私は体中の力が抜けていくのを感じていた。そのまま地面にへたり込み、遅れてやってきた恐怖に、無意識のうちに体を震わした。
「何だよ、もうギブアップか? もっと、楽しませろよっ!」
またも炸裂音。左腕に痛みが奔るものの、今の私に、それを気にする余裕はなかった。体中を駆け巡る、恐怖、怯え、その他形容しがたい何か。それらは全て、「怖い」という意味であることが共通していた。そして、私の体はそれに突き動かされて、意思とは関係なく後退りを始める。しかしそれも、すぐに止められてしまう。背後に壁みたいなものがあって、これ以上動けないのだ。
「ひぃっ……!」
そこでやっと、声にもならない悲鳴が漏れ出る。こんな声、一体何年振りに出したのだろうか。いや、ここまでの恐怖を覚えたのは、今回が初かもしれない。
「へっ、図体の割りに小心もんなんだな。まっ、それも仕方ないか」
川村君は、銃を向けたまま近づいてくる。とにかく彼から離れたかったが、距離を取るのは物理的に不可能で、その様子を黙って見ているしか出来ない。
「おら、もっと泣き喚けやっ!」
顔を寄せられ、銃をこめかみに突きつけられた。私は目を逸らすことも、声を出すことも、抵抗することも出来ない。眼前の顔が嗜虐的な笑みを浮かべ、そろそろ失禁しそうになったところで―――
「いい加減になさい」
恐怖の根源たる表情の、その向こう側から、女性のものと思しき声が聞こえてきた。
「あぁ?」
川村君が、その声のほうへ振り返り、そこでやっと、私にも声の主の姿が見えた。
「何だ、てめえかよ。態々出てきてくれたのか」
そこにいたのは、
「ええ。あんたがあまりにも酷いから、「出てきて」あげたの」
茶色の髪を揺らし、「銀色」の瞳を毅然と向けている、中田君だった。
「けっ、それなら話が早い」
川村君は手にした銃を中田君に向けると、
「別に、この距離でも当たるはずだからな」
その引き金を、何の躊躇いもなく引いた。
「……っ!」
放たれた弾丸は、あろうことか、中田君の左目に直撃した。
「はははっ! もう片目も潰されたくなかったら、大人しくするんだなぁ!」
勝ち誇ったような川村君の歓声。しかし中田君は、静かに言葉を紡いだ。
「モデルガンだと思ってたけど、ちゃんと撃てるのね」
そして、弾が当たって血塗れになった左目に、手を翳す。
「お陰で、しなくていい怪我、しちゃったじゃない」
そして、その手が離れると。
「はははははっ、は……?」
川村君の笑い声が止まった。それもそうだろう。私も、何が起こったのか分からない。思考も止まってしまう。何故なら、
「銃を持っただけで強くなった気になったのかしら? 残念ね。「私」は、そんなおもちゃだけじゃなくて、例え実銃でも平気よ」
中田君の左目には、「銀色」の瞳が、強い意志を持つかのように輝いていた。
「なっ……!」
硬直から絶句に変わる川村君。さっきまで血塗れだった、潰されていたはずの左目が、綺麗な状態に戻っている。こんなあり得ないことが、目の前で起こったのだ。
「普段なら軽くお仕置きなんだけど……今日はちょっとムカついてるから、思いっきり〆るわよ」
中田君が手を振ると、まだそこに残っていた血が、川村君の体に飛び散った。そしてそれらは、さながらうじ虫のようにうねると、彼の頭のほうへと這っていく。
「な、何なんだよこれ……!? や、やめろっ……!」
川村君はそれを払おうとするものの、指に触れた途端に液体に戻って、その後またうじ虫になって指を這っていく。それを繰り返すうちに、一匹が彼の耳に到達した。
「あ、う、うわぁーーーっ!」
必死に耳の穴に入ったうじ虫を掻き出そうとするものの、既に時遅し。
「冥土の土産に教えてあげる」
それを見ていた中田君が、とても愉快そうに言った。
「それはあなたの体内に侵入して、あなたの体を内から食い荒らすわ。そうなれば、あなたの体は滅茶苦茶よ。ああ、安心して。死にはしないわ。でも腹に、具体的には胃とか腸とかに穴がぽっかり開いた状態で生き続ける羽目になるけどね」
「や、やめてくれぇーーー!」
半ば錯乱している川村君。対して中田君は優越感たっぷりに微笑むと、
「なら、もうおいたはしないこと。もしまた同じことがあれば、手足の皮膚を剥いで骨だけにして、腸ぶちまけた状態で三十年くらい生かすから」
そんな、想像もつかないような脅迫と共に、中田君は彼を、数メートルほど蹴り上げたのだった。