弟と妹の慰め合い
日立真美に再会したのは、兄の葬式が行われている最中だった。
まだ兄が亡くなったことを受け止め切れていなかった僕はずっと呆然としていたから、葬式の中盤に差し掛かった頃にようやくその姿を認識した。
日立真美は喪服を着ていると、前に会った時よりも大人びて見えた。
目元だけが痛々しいほどに赤く、泣き腫らしたのだろうと想像がついた。
僕もきっと同じような顔をしている。
「東野さん」
出棺までの時間に、そう日立真美に声をかけられた時、実のところとても驚いた。
無視されるかと思っていた。僕はそうしたい気分だったのに、この人は違うのだろうか。
日立真美の目が僕を見つめた後に揺れた。途方もない暗い悲しみがその目には宿っている。
好きな人を亡くした者はみんな、こんな目をするのだろうか。僕もそうなのだろうか。
えっと、と日立真美が発した後、あ、と小さく声が漏れた。何かに思い当たったらしかった。
「私のこと、覚えてる?」
僕の口が歪な形になったのがわかった。こんな時でもなければ笑っていたはずだ。
忘れるわけがないだろう。
「……日立さん」
僕がそう呼ぶと、日立真美はひとまず安心したようだった。本気で忘れられていると思っていたのか? そんなはずないだろう。
日立真美はちらちらと周りを気にしているようで、なんだか僕の方が居た堪れなかった。
別に僕がそんなことをしてやらなければいけない道理はないのだけど、少し端に寄って悪目立ちしないようにしてから話に付き合ってあげようと思った。
きっと何か僕に言いたいことがあるのだろう。それが兄に向けて発したかった恨み言だったとしても、この際構わないと思った。
「この度は、ご愁傷様でした」
日立真美は真っ先にそう言って、深く頭を下げた。まさかそうくるとは思わなかった。
葬式の場では馴染み深いその言葉は僕らの間ではひどく浮いている。それでも何も言わないわけにもいかない。
「そちらも」
これだけではあまりに短過ぎると、口にしてすぐ思った。
「ご愁傷様です」
なんとかそう続けた。体裁は保てたのではないだろうか。日立真美相手に何を、という気がしないでもないけれど。
日立真美はそれからまた何を言おうかと必死に考えているようで、その仕草さえもなんだか大人びて見えるのはどうしてだろう。
けれどそれも当然なのかもしれない。僕らが前に会ったのはまだ高校生の頃で、今はもう大学生だ。多少大人びるのは当然のことだ。
特に今は大切な人を亡くしたばかりであることだし。悲しみは人を大人に見せる。良くも悪くも。
「東野さん、怒ってる?」
日立真美の質問に僕は上手く答えられる気がしなかった。
乾いた口の中で唾を飲み込み、けれどすぐに乾く口を持て余しながら必死に言葉を探した。
「何に怒るっていうの」
「うちのお姉ちゃんが誘った店に行く途中で、東野さんのお兄さんが事故にあったから」
淡々と語られた事実に微かに吐き気を覚えた。けれど、目の前の人に当たり散らしても仕方がない。いくら怒っても兄は帰って来ない。
「そんなの、誰のせいでもないよ」
良い人の見本のような回答が自分の口から出るのは滑稽に思える。でもそう言う以外に思いつかなかった。
「そもそも、日立さんのお姉さんだって、亡くなってるじゃない」
僕の兄と日立真美の姉は恋人同士だった。とても仲が良く、中学生の頃から付き合っていた。ずっと仲が良くて別れることもなく、結婚も視野に入れていたらしかった。憎たらしいことに。
「そうだよね、そうなんだよね。恋人同士が二人、出かけて事故にあって、死んで……そんなの妹の私が謝ることでもないんだけど、でも」
日立真美の言いたいことが僕には何故かわかった。
「私にはそれしかないから」
悲しい笑みをしている。綺麗な笑い方だと、他人事のように思う。こんな顔をあの人は見たことがあるのだろうか。
僕の兄の恋人。この人の姉。日立真美の大切な人。
こんな顔を見たことがあったとして、それでもなお、妹だったか。そんなことは至極当然なのに、僕らにはひどく苦しい。
「わかるでしょう」
「……なにが」
「東野さんならわかるでしょ」
わからないふりをするのは不可能だった。
「私達、あの人たちの、妹であること、弟であること、それしか、それしか自信を持って胸を張れることがないから」
ああ、本当にそれ以外に何もなくて、なんにもなくて、それでもそれがあるから、誰に蹴落とされる心配もなく葬式では家族として参列できて誰にも後ろ指を刺されることなく追い出されることもなくのうのうと息をしていられるのにそれしか肩書きのない僕らは本当は水の中にいるように息が苦しく仕方ない。
「こういうのも、失恋っていうのかな」
溺れている僕に空気の詰まった泡ぶくが落ちてきた気がした。
失恋、という世間から見れば悲しく響くこの言葉が、僕らにはむしろ救いにすら見える。恋だと肯定されることが生きている証のようだ。
「そうなんじゃない」
だから、僕は肯定した。こんな場だというのに、誰に聞かれてるかもわからないのに、日立真美の言葉に同意した。
僕らは多分、世界中の誰よりもお互いを理解していて、理解しなければ幸せだった人たちだ。
「普通に失恋するのと、どっちがマシかな」
こんな会話、隠さなくていい恋の話。人生で初めてだった。
「軽蔑されずに、良い妹と弟のまま、失った方がマシなんじゃないかな。わかんないけど」
日立真美は笑った。その笑顔になんの意味が込められているのか、僕にはわからなかった。
当たり前といえば、当たり前のことだった。僕らの共通点はたったひとつ。
僕は兄に恋をし、日立真美は姉に恋をした。
きょうだいを好きになったということしかないのだから。
ああ、こんなにも無ければよかったと思う共通点があるだろうか。
そしてこんなにも一人でなくてよかったと安堵する共通点があるだろうか。
「お姉ちゃんのお葬式、来る?」
日立真美の姉は即死だった僕の兄とは違い、事故に遭っても少しの間意識不明の重体だった後に亡くなったから、葬式は明日行われる。
「行くよ」
本当は行くつもりなんてなかったのに。僕の両親だけが行く予定だったのに、僕はそう答えていた。
何故だかはわからないけれど、日立真美の顔を見ていたら、そうしなければいけない気がしたのだ。
好きだった人の好きだった人のお葬式というのは、どういう心持ちで行くべき場所なのだろうと、答えのないことを考えた。
日立真美と初めて会ったのは、兄に連れられて行った大学の学園祭だった。向こうも姉に連れて来られたらしかった。
つまり僕らは全く同じタイミングで好きな人の恋人とその家族を見せつけられたということだ。全くこんなにも虚しいことがあるだろうか。
僕と日立真美は親しく話をしたわけではない。けれど、その目を見た瞬間、悲しいほどに理解した。この人も僕と同じなのだと。
どうしてわかったのか、理屈なんてない。ただわかったのだ。僕らどうしようもない恋をしている、と。自分と同じ立場の人間に初めて会い、その驚きを兄に気づかれないように隠した。
日立真美は姉の葬式場でも気丈に立っていたが、けれども決して乗り越えることなど望まない深い悲しみの真っ只中にいた。
喪服に身を包んだ日立真美は親族だから僕と話をする時間はあまりなかったけど、それでも僕に何か言いたいことが昨日と変わらずあるようだった。
「心中お察しします」
「え?」
「って、こんなに私達に似合う言葉ないよね」
笑っちゃうよね、なんて言われて上手く笑えるはずもない。
「東野さん、お葬式終わるまで、私を待っててくれる?」
どうしてそんなことを言われたのか僕にはわからなくて、別にわかりたくもなくて、でも突き放すこともできない。
「どうかな」
曖昧な返答をしながら思う。日立真美の方が僕が待っていることを忘れればいい。
僕が夜になるまで待っていて、やっぱり来なかったと思える方がきっといい。その方がいい。
もう僕らは会わない方がいいのだ。日立真美の方から断ち切ってくれればいい。
僕らはとても近い存在だけど、言葉を交わせば交わすほど境目が曖昧になるのが怖い。
そうわかっているのに、僕は待ってしまった。葬式が終わるのを。日立真美が好きな人と過ごす最後の時が終わるその時を。
そして日立真美は僕の前に現れた。来なければいいのにと本当に願っていたのに、僕が待っている時点できっと負けだ。
「東野さん、セックスってしたことある?」
日立真美は僕の顔を見た途端、悲しそうに笑ってそう言った。
誰もいなかったから言ったのだろうか。それとも、もうどうにでもなれと、誰がいようと言っただろうか。
「ないよ」
「じゃあ、お兄さんとセックスするのを、想像したことある?」
言葉に詰まった。なんと答えていいのかわからなくて。
「私はあるよ。何回も。何十回も何百回も、お姉ちゃんとのセックスを想像して、自分に触れたことがあるよ」
日立真美は両手を広げて、まるで今から何処かへ落ちるような仕草をしながら言った。
「東野さんは?」
「……ある」
「もう、二度と叶わないね」
こんなにも軽やかで、こんなにも重い言葉があるだろうか。
「元から、叶わないことだったから、一緒だよ」
「一緒じゃないよ」
日立真美は僕の言葉を容易く否定した。
「一緒じゃない、わかってるくせに」
この人は兄の恋人に似ているな、と不意に思った。僕に、恋人の弟に、親しげに話しかけようとして、隠し切れない緊張の滲む顔をしていたあの人に似ている。姉妹なのだから当たり前だけど。
「もう叶わないなら、誰としたって同じだよね?」
同意を求めるようなそれに頷くことはできない。
「できる気がしない」
「なんで?」
「だって」
その先の言葉を言うことに少し躊躇ったけど、日立真美相手に何を躊躇うことがあるのか。
「もし、してる時に、兄ちゃん、なんて呼んだらどうするんだよ」
「そうか、それもそうだね。私もお姉ちゃんって言っちゃうかも」
日立真美は幼い瞬きを繰り返した。
「それを言っても許してくれる人としか、できないね」
「いるかな」
「いるよ」
日立真美の屈託ない笑みは、きっとこの場には似合わない。
「私は気にしないもん」
「……僕も気にしない、ね」
その返事がきっと合図だったのだろう。
「ホテルでもいい?」
「うん」
日立真美の言葉に僕はあっさりと頷いていた。こんな風に頷くと一体どこで決めていたのだろう。
この自暴自棄さを日立真美以外に誰がわかってくれるだろう。きっと誰も彼も僕が兄を亡くしたから悲しんでいると思うのだから。それだけではないと想像してくれる人が日立真美以外にいない。
人はどうして人を求めるのだろう。僕は日立真美が少しも好きではないが、寂しさを埋めるには日立真美以外は考えられない。
「お母さん、私が帰ってないこと、気づくかなぁ」
ホテルに向かう途中、日立真美は独り言のようにそんなことを言った。
「ああ、美亜は気づくかも。あの子、鋭いの。なに考えてるのって言われちゃうかな」
そういえば三姉妹だった、と思い出した。お姉ちゃん、と泣いていたまだ制服を着た幼い日立真美の妹の姿をぼんやり思い出した。
ああ、そうか。と思った。僕も家族に気づかれるだろうか。どうでもいいな、と思う。兄に恋人ができたのではと勘違いをされて悲しむことが二度とないのなら、もうどうでもいい。
「私ね、美亜がずっと羨ましかったんだ。だってあの子は私のこともお姉ちゃんのことも姉としてしか慕ってないんだもの」
「……それが当たり前なんだろうけど」
「ね、羨ましい。なんの罪悪感もなく、お姉ちゃんの遺体に縋れるのが羨ましい。なんて、意地悪だね」
日立真美はそう言って笑い、僕と逆の方を向いてそっと涙を拭っていた。僕はただ見てみぬふりをした。
それ以降僕らの間に言葉はなかった。必要なかったからだ。
一度も来たことがなかった猥雑なホテルの並ぶ場所に僕らは身体一つ寄せず、心は誰よりも冷たく近いまま訪れた。
ホテルの馬鹿みたいにデカくて不必要に派手なベッドの上で僕らはぎこちなく手を伸ばし合っていた。
あたかもすぐにでも出来ると大人ぶった僕らのメッキがぼろぼろと剥がれた。
セックスをしようとする頭も体もあるのに、心がついていかない。
「上手く、できない」
僕が掠れた声で言うと、僕の下にいた日立真美が小さく頷いた。僕は体を離し、急速に冷える何もかもを無視して隣に寝転んだ。
「ごめん」
「謝ることじゃなくない?」
日立真美はこんな時だというのに笑っていた。
「私も、上手くできないや」
心がついていかないのは何も相手が好きな人ではないからというだけではないだろう。セックスは好きな相手以外ともできる。そんなことは知っている。
でもそれだけじゃなくて、頭に僕らの好きな人がちらついて、それが興奮に繋がらない今がつらいのだ。高揚よりも先に悲しみが体を満たすから。
「私でよかったね。気まずくならないでしょ」
「気まずいよ」
「他の人よりマシだよ」
日立真美はしばらくシーツの上に手を泳がせ、僕を見ないままに口を開いた。
「ねえ、世の中の娯楽にさ、好きな人がきょうだいでした〜っていうの、あるじゃない?」
「ああ、たまに流行るね」
「私も一回漫画で読んだんだけど、吐いちゃった。だって結局、血の繋がったきょうだいじゃなかったんだよ。この世界の娯楽のどれくらいがその結末で終わるかなんて私は知らないけどさ、血の繋がりは無かったんだねじゃあきょうだいじゃない良かったねなんて簡単に片付けて、じゃあ、私は、どうしたらいいのって」
震える肩を抱いてやりたいとは思わないけど、他にどうしていいかもわからず、僕は指を少しだけ絡めて、汗で湿ったその指の感覚にしばらく囚われた。
「ねえ、お兄さんに触れたかった? 触れられたかった?」
その質問に僕はもう躊躇わなかった。
「どっちもしたかった」
「そう」
「だけど」
大きく呼吸をして、生まれて初めて打ち明けた。
「抱かれたかった」
「うん」
「そっちは?」
日立真美はいつのまにか涙を流していた。多分、僕もそうだ。
「触れたかったし、触れられたかったけど。そうだね、抱きたかった」
「うん」
「あの人を私の手で抱いて、全てを見せてもらいたかった」
もう叶わない夢は終わることなどあるのだろうか。断ち切れるならどれだけ楽だろう。
「なら、そうしてみる?」
僕は自然とそう口にした。日立真美が目を見開く。
「代わりだっていうなら、多分、そっちの方が合ってる」
「でも、それって」
日立真美が困惑したように首を振った。僕は今、この人と出会って一番、この人を人間らしいとも他人らしいとも思った。
「そんなのって」
「性別で決めるの? 僕たち、そんなこと言える立場じゃないでしょ」
僕の言葉を日立真美は反芻するように口を何度か動かし、ふっと笑った。
「そうだね」
日立真美が僕の上に乗り、頬に触れた瞬間、火花が飛んだ錯覚に襲われた。
兄に触れられた気がしたのだ。どうしてかはわからないけれど。
日立真美もそうだったのかもしれない。姉に触れた気がしたのかもしれない。
その夜、僕は抱かれ、日立真美は抱き、慰めあった。
人生に一度くらいこんなことがあっても許されるだろうと、まぶたの裏に愛しい兄の姿を思い浮かべ、その名を呼びながら思った。
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