――幕間、ハインリヒ=クローヴァーの過去
帝国管理部・聖性研究区。
夜の研究区は、昼よりも静かだった。
灯りは最低限。
無駄な影すら、ここでは許されない。
ハインリヒ=クローヴァーは、
一人、書類棚の前に立っていた。
古い記録。
紙媒体の、帝国初期の資料。
指先で、
一つの背表紙をなぞる。
――「第七次辺境紛争・聖女運用記録」
彼が、
まだ若かった頃のものだ。
⸻
あの頃、
ハインリヒは前線技術士官だった。
研究者ではない。
戦場で“数字”を見る役だ。
被害率。
回復効率。
祝福の消耗曲線。
すべてを、
冷静に分析する。
「聖女は、
後方に配置するべきです」
若いハインリヒは、
何度もそう進言した。
だが、
聞き入れられなかった。
「前に出せ」
「祝福は近い方が効率がいい」
「聖女は、
守られる存在だ」
そうして、
一人の聖女が配置された。
名前は、
エルシア。
年は、
まだ十五だった。
⸻
彼女は、
本当に優秀な聖女だった。
回復は早く、
支援は正確。
そして何より、
自分が傷つくことを恐れなかった。
「大丈夫です」
「私がいますから」
その言葉を、
彼女は何度も口にした。
ハインリヒは、
それが嫌だった。
「君が前に出すぎだ」
「もっと下がれ」
「守られる前提で、
動いてはいけない」
エルシアは、
困ったように笑った。
「でも、
それが聖女ですから」
その言葉が、
今でも胸に残っている。
⸻
戦況が、
一気に悪化した日がある。
魔王軍の奇襲。
指揮系統の崩壊。
撤退命令が、
間に合わなかった。
「聖女を、
下げろ!」
ハインリヒは叫んだ。
だが、
エルシアは前に出た。
「まだ、
間に合います!」
祝福が、
戦場を覆う。
兵士たちは、
生き延びた。
だが――
彼女だけが、残った。
魔王軍は、
聖女を殺さない。
だから、
連れていった。
⸻
その後の記録は、
簡素だった。
「聖女エルシア
戦場にて行方不明」
「推定、
敵軍により確保」
それだけ。
ハインリヒは、
その瞬間に理解した。
聖女は、
守られる存在ではない。
“利用される存在”だ。
それを、
誰も教えていなかった。
⸻
それからの彼は、
研究に移った。
聖女を前に出さないため。
聖女が奪われないため。
数字を集め、
理論を積み上げ、
感情を削ぎ落とした。
誰にも、
同じ過ちを繰り返させないために。
だから――
あの時。
男性の聖女を見た時、
彼は一瞬、息を止めた。
(……同じだ)
守られる前提で動く。
自分が奪われる想定をしない。
「弱い」
あの言葉は、
評価ではない。
警告だった。
関係があるか、
ないかではない。
「聖女である以上、
同じだ」
ハインリヒは、
記録を閉じる。
棚に戻す前に、
小さく呟いた。
「……今度は」
「奪われる前に、
気づけ」
研究区の灯りが、
静かに落ちる。
帝国の夜は、
冷たく、合理的だ。
だがその奥で、
一人の男は今も――
聖女を“失った側”として、
同じ未来を拒み続けていた。




