――幕間、名前と役割を与えられる前の、少女
少女が生まれた村は、
帝国の地図の端に、かろうじて点として載る場所だった。
畑は痩せ、
冬は長く、
人はいつも足りなかった。
正確には――
生きていく余裕が、足りなかった。
だから村では、
人は「家族」より先に「数」として扱われる。
食べさせられる数。
働ける数。
捨ててもいい数。
少女は、最後のそれだった。
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彼女は、名前を呼ばれたことがない。
「おい」
「そこ」
「余ってるやつ」
それで十分だった。
名前を付けるということは、
覚えるということだ。
覚えるということは、
失ったときに痛むということだ。
この村に、
そんな余裕はなかった。
⸻
食事は一日一回あれば良い方。
冬になると、二日に一度。
寒い夜は納屋の隅で、
藁を抱えて眠った。
泣くことは、しなかった。
泣けば怒鳴られる。
怒鳴られれば殴られる。
殴られれば、
「役に立たない」と判断される。
だから彼女は、
感情を出さない方法を覚えた。
目立たず、
音を立てず、
そこにいないように生きる。
それが、彼女の生き方だった。
⸻
冬のある夜、
村を吹雪が襲った。
食料倉庫の扉が凍りつき、
誰も開けられなくなった。
中には、
村が生き延びるための配給がある。
だが大人たちは、
誰も扉に触れようとしなかった。
凍傷になれば、
働けなくなるからだ。
沈黙のあと、
誰かが言った。
「……余ってるのがいるだろ」
その言葉で、
少女は前に押し出された。
拒否する理由を、
彼女は持っていなかった。
⸻
凍った扉に手を伸ばした瞬間、
激しい痛みが走った。
指の感覚が、消えていく。
そのとき――
世界が、静かになった。
吹雪の音が遠のき、
人の声が整理され、
頭の中が澄んでいく。
「……?」
少女が、
無意識に「扉が開く形」を思い浮かべた。
次の瞬間、
氷が音を立てて割れた。
祈りはない。
願いもない。
ただ、
扉が開いた。
⸻
村はざわついた。
「偶然だ」
「たまたまだ」
そう言う声の中で、
帝国の巡回官だけが、少女を見ていた。
正確には、
少女の“周り”を見ていた。
空気が妙に整っている。
人の動きが、自然と噛み合っている。
「……報告案件だ」
それだけで、
彼女の行き先は決まった。
⸻
帝国は、彼女を救わなかった。
だが、捨てもしなかった。
連れて行き、
洗い、
測り、
記録した。
祈れとも、
信じろとも言われない。
代わりに言われたのは、
「ここに立て」
「動くな」
「何もするな」
という命令だけ。
不思議なことに、
それを守っているだけで、
周囲が落ち着いていった。
怪我人の出血が止まる。
兵の判断が早くなる。
小さな事故が起きなくなる。
少女は何もしていない。
ただ、そこにいるだけ。
それなのに、
人は彼女を必要とした。
⸻
ある日、
研究官が言った。
「この現象は、
聖女と呼ばれてきたものに近い」
少女は、
その言葉の意味をよく分かっていなかった。
ただ一つ、はっきり分かったことがある。
(……ここでは、
余らない)
役割がある。
必要とされる。
それだけで、
生きていい理由になった。
⸻
そしてある朝、
帝国の高官が彼女の前に立った。
「記録番号では不便だな」
そう言って、
彼は一枚の書類に何かを書き込む。
「今日から、お前には名前を与える」
少女は、少しだけ戸惑った。
名前は、
失われると痛いものだと、
どこかで知っていたから。
だが――
今は、逃げなかった。
「お前の名は――」
高官は、淡々と告げる。
「イリス」
「境界で世界を整える者、
その意味を持つ名だ」
少女――イリスは、
初めて自分を指す言葉を受け取った。
胸の奥で、
何かが静かに定まる。
彼女はまだ、
多くを知らない。
聖女という言葉の重さも、
自分が観測されている理由も。
ただ一つだけ、確かなことがある。
名前を持った瞬間から、
彼女は“帝国の一部”になった。
そして――
同じ異常が、
国境の向こうから近づいていることを、
彼女のスキルは、もう感じ取っていた。




