7.エピローグ
10月第2週。マジック1にして迎えた本拠地での一戦。
その日の朝、俺は目覚めた瞬間から心臓が高鳴っていた。窓の外は雲一つない秋晴れ。まるでこの日のために用意されたかのような、完璧な野球日和だった。
マンションの窓から見える名古屋の街は、いつもと違う空気に包まれていた。通勤する人々の足取りにも、どこか浮き立つものがある。アウルズのユニフォームを着た人が、普段より明らかに多い。街全体が、今日の試合を待ちわびているのが分かった。
朝食を取りながら、スマートフォンを確認する。熊野からのメッセージが届いていた。
『今日で決めよう。データは完璧だ。あとは、お前が捕るだけだ』
短い文章。だが、その言葉には重みがあった。
この1年間、熊野は毎日のように相手チームのデータを分析し、俺たちに提供してくれた。試合前のミーティングで配られる資料の分厚さは、他のどのチームよりも多かった。打者一人一人の癖、投手の球種別の投球割合、状況別の傾向。全てが数字とグラフで示され、そして的確だった。
『任せろ。今日で決める』
そう返信して、俺は球場へと向かった。
本拠地のドームに着くと、すでに大勢のファンが詰めかけていた。開門前だというのに、入り口には長蛇の列。みんな、アウルズのユニフォームやタオルを身につけている。
「三井! 今日、頼むぞ!」
「絶対優勝だ!」
車で乗り込む俺に対してファンからの声援が飛ぶ。俺は手を振って応え、選手入り口へと向かった。
ロッカールームに入ると、すでに何人かの選手が到着していた。いつもより早い時間だというのに、誰もが落ち着かない様子で準備をしている。
「おはよう、三井」
隣のロッカーを使う桐生が、声をかけてきた。今季防御率1.98を誇るクローザー。今日も、彼に試合を締めてもらうことになるだろう。
「おはようございます。今日、お願いしますね」
「ああ。絶対に抑える」
桐生の目には、静かな闘志が宿っていた。
やがて野上監督が入ってきて、全員を集めた。
「いいか、みんな。今日勝てば優勝だ。だが、いつも通りやればいい。特別なことをする必要はない。俺たちは、この一年間、積み重ねてきたことを出すだけだ」
監督の言葉は、いつも通り簡潔だった。だが、その短い言葉に、全ての思いが込められていた。
「行くぞ、名古屋アウルズ!」
「おー!」
選手全員の声が、ロッカールームに響き渡った。
試合前、スタッフルームに立ち寄った。そこには、熊野がノートパソコンに向かっていた。
「熊野」
「三井。来たか」
熊野は、画面から目を離さずに言った。画面には、今日の対戦相手、大阪タイタンズのデータが表示されている。
「最終確認だ。聞いてくれ」
熊野が、いつも以上に真剣な表情で話し始めた。
「今日の先発は、大阪の武田。右のオーバースロー。ストレートとドロップが主体だが、決め球はフォーク。特に、ツーストライクからのフォークは空振り率が高い」
「ああ」
「だが、武田には癖がある。フォークを投げる時、必ず一度グローブの中で握り直す。その動作が入ったら、フォークだと思っていい」
「なるほど」
「それと、4番の南だが...」
熊野は、別の資料を開いた。そこには、南の打席データが細かく記載されている。
「南は、カウントが追い込まれると、無意識に体重を前に掛ける癖がある。バランスが前に崩れるから、外の変化球に弱くなる。特に、スライダーには手が出せない」
「2ストライクからは、外のスライダーで勝負、か」
「ああ。ただし、南は学習能力が高い。同じ攻め方を続けると、対応してくる。だから、初めの打席は内角で攻めて、追い込んでから外。二打席目以降は、配球を変えていく必要がある」
熊野の分析は、いつも通り緻密だった。この1年間、俺は熊野のデータを信じて、リードを組み立ててきた。そして、その判断が間違っていたことは一度もなかった。
「任せろ。今日も、お前のデータ通りにやる」
「頼んだぞ、三井」
熊野は、初めて画面から目を離して、俺を見た。その目には、期待と、そして少しの不安が混ざっていた。
「絶対に勝つ。お前と、この優勝を分かち合いたいんだ」
俺の言葉に、熊野は小さく頷いた。
「...ああ。俺も、お前と優勝したい」
その言葉を最後に、俺はスタッフルームを出た。
試合開始まで、あと1時間。
9回裏、2アウト。カウントは2ストライク、3ボール。
スコアボードには「名古屋アウルズ 4-3 大阪タイタンズ」の文字が光っている。
ここまでの道のりは、決して平坦ではなかった。
初回、俺たちは先制点を奪った。一死一塁から、俺の打席。熊野が教えてくれた武田の癖を見抜き、フォークをレフトスタンドへと運んだ。2ランホームラン。完璧なタイミングだった。
だが、3回裏、大阪が反撃してきた。先頭打者にフォアボールを与え、続く南にタイムリーヒットを許す。さらに、5番打者にもヒットを打たれ、2点を返された。
4回裏、さらに1点を追加され、逆転された。
ベンチの空気が、重くなった。このままリードを広げられば、今日での優勝は遠のく。場合によっては、最終戦までもつれ込む可能性もある。
5回表、俺は再びバッターボックスに立った。2ストライク2ボールの平行カウントから、武田が投げたフォーク。だが、その球は少し浮いていた。俺は振り抜いた。バットの芯を捉えた感触。打球は、センターの頭上を越えていく。
ツーベースヒット。
続く6番打者がタイムリーを放ち、同点に追いついた。さらに、七番打者の犠牲フライで追加点。4-3と勝ち越しを決めた。
6回、7回、8回と、俺たちの投手陣は踏ん張った。相手の反撃を許さず、1点リードを守り続ける。
そして9回。クローザーの桐生がマウンドに上がった。
先頭打者を三振。2番打者をセカンドゴロ。
そして、3番打者。
カウントは2-3。フルカウント。
俺はマスク越しに桐生を見つめた。彼の呼吸が、18.44メートル離れたここからでも分かるような気がした。額には汗が光り、ユニフォームは泥で汚れている。だが、その目には、まだ闘志が燃えていた。
観客席からの声援が、ドーム全体を揺らしている。
「アウルズ! アウルズ! アウルズ!」
何万人ものファンが、同じリズムで手を叩き、叫んでいる。その音圧が、グラウンドにいる俺たちの体を震わせる。
一度ここでタイムを取り、マウンドへと向かう。
「桐生さん、最後の一球です」
「ああ」
「どう行きます?」
「...お前に任せる」
桐生の言葉は、シンプルだった。だが、その言葉には信頼が込められていた。
俺は頷き、ホームベースへと戻った。
打者は、大阪の代打、ベテランの有田。今季、代打で打率.320を誇る好打者だ。ピンチヒッターとしてはこれ以上ない厄介なバッターだ。
サインを出す。私の選択はインコース低め、スライダー。
桐生が頷く。
深呼吸。
時間が、ゆっくりと流れ始めた。
振りかぶる動作の一つ一つが、スローモーションのように見える。
桐生の右腕が、後方へと引かれる。体重が左足に乗る。そして、腕が前へと振り出される。
ボールが、桐生の手から離れた瞬間、俺はその軌道を目で追った。
回転。スライダーの横回転が、空気を切り裂いている。
打者が振った。
バットが、ボールの軌道を追う。だが、スライダーは打者の予想よりも大きく曲がった。
空を切る音。
ボールが、俺のミットに吸い込まれる。
「ストライク、バッターアウト! ゲームセット!!」
球審の声が、ドーム全体に響き渡った。
その瞬間、俺の視界が歪んだ。涙なのか、喜びなのか、分からなかった。
時間が、一気に加速した。
「やった...やったぞ!!」
俺は叫びながら、マウンドへと駆け出した。マスクを投げ捨て、プロテクターを外しながら。桐生が両手を上げ、ガッツポーズを作る。その胸に、俺は全力で飛び込んだ。
「桐生さん! 最高です!」
「三井! お前のリードが最高だったよ!」
桐生の腕が、俺の背中を強く叩く。その力強さに、実感が湧いてくる。
勝った。
優勝した。
俺たちは、リーグの頂点に立ったのだ。
次々と選手たちがマウンドに集まってくる。内野手、外野手、ベンチから飛び出してきた控え選手たち。コーチ陣も、トレーナーも、全員が。
「やったぞ!」
「優勝だ!」
選手たちの叫び声が、重なり合う。抱き合い、肩を組み、涙を流す者もいる。
観客席は、総立ちだった。拍手と歓声が、まるで大きな波のように押し寄せてくる。青色のアウルズカラーで埋め尽くされたスタンドが、揺れている。
「アウルズ! アウルズ! アウルズ!」
アウルズを称えるコールが鳴りやまない。
そして、スタッフも。
人の波の中に、黒いウィンドブレーカーを着た熊野の姿が見えた。
熊野は、少し離れたところで立ち止まり、こちらを見ていた。その目には、涙が光っていた。口元は笑っているが、目からは涙がこぼれている。喜びと、そして何か別の感情が、その表情に混ざり合っていた。
選手たちの歓喜の輪。その中心で、熊野は1人、距離を置いていた。スタッフという立場。選手たちと同じように喜ぶことへの、遠慮のようなもの。
俺は人混みを掻き分け、熊野のもとへと走った。
「熊野! 熊野!!」
叫びながら、熊野の肩を掴む。
熊野は、静かに笑った。涙で濡れた顔で、それでも笑っていた。
「おめでとう、三井。お前たちは...やったな」
「違う! 俺たちだ! お前も、俺たちの一員だろ!」
俺は、熊野を無理やり選手の輪の中へと引っ張り込んだ。
「ちょっと、三井...!」
「いいから来い!」
選手たちが、俺たちに気づいた。
「おお、熊野さん!」
「熊野さんのデータ、最高でした!」
若手の選手たちが、口々に声をかける。
「あの南の攻略法、完璧でしたよ!」
「今日の配球アドバイス、全部当たってましたね!」
熊野は、戸惑いながらも、少しずつ笑顔を見せ始めた。
「お前ら...」
「熊野さんがいなきゃ、この優勝はなかったですよ!」
そう言って、若手投手の一人が熊野を抱きしめた。
次々と、選手たちが熊野に駆け寄ってくる。背中を叩き、肩を組み、涙を流す。
熊野の目から、大粒の涙がさらに溢れ出した。
「みんな...ありがとう...」
その言葉は、震えていた。
選手とスタッフの境界線が、その瞬間、消えた。
俺たちは、同じチームの仲間だ。
選手も、コーチも、スタッフも。全員が、この優勝のために戦ってきたのだ。
ロッカールーム。
優勝を決めた直後、報道陣が一斉に押し寄せた。カメラのフラッシュが瞬き、テレビカメラの赤いランプが光る。普段は選手たちだけの聖域であるロッカールームが、今日ばかりは開放されている。
選手たちは、まだ興奮が冷めやらぬ様子で、互いに肩を叩き合い、抱き合っていた。泣いている者、笑っている者、ただ呆然としている者。それぞれが、それぞれの方法で喜びを表現していた。
俺も、まだ心臓の鼓動が落ち着かない。試合が終わってから30分以上経つというのに、アドレナリンが体中を駆け巡っている感覚が消えない。
そして、ビールケースが運び込まれる。
何十ケースもの缶ビールとシャンパンが、ロッカールームの中央に積み上げられていく。その光景を見て、選手たちの興奮が再び高まった。
「よーし! ビールかけ、始めるぞ!!」
野上監督の声が響く。
選手たちが一斉に歓声を上げた。
瓶の蓋が次々と開けられる。プシュ、プシュという音が連続して響き、泡が溢れ、床が濡れていく。開けた瞬間から、すでにビールが飛び交い始めていた。
「監督! 行きますよ!」
俺は、ビール瓶を掲げて野上監督に向けた。
「来い、三井!」
監督が笑いながら両手を広げる。まるで子供のような、無邪気な笑顔だった。普段は厳しい監督の、この表情を見られるのは、優勝した時だけだ。
シャンパンとビールが、監督の頭上から降り注ぐ。監督が顔をしかめながらも、満面の笑みを浮かべている。眼鏡が泡で曇り、ユニフォームがびしょ濡れになっていく。
「三井! お前が一番の立役者だ!」
「いえ、みんなのおかげです!」
ロッカールームは一瞬で戦場と化した。ビールが飛び交い、選手たちが笑い、叫び、泣いていた。床は完全にビールの海。空気中にも、ビールの香りが充満している。
投手陣が固まって、互いにビールをかけ合っている。野手陣も、同じように騒いでいる。コーチ陣も、選手たちに混ざって、ビールまみれになっていた。
その混沌の中で、俺はふと熊野の姿を探した。
隅の方で、熊野は少し遠慮がちに立っていた。スタッフという立場上、選手たちの輪に入り込めないでいるようだった。手にはビール瓶を持っているが、それを開ける様子もない。ただ、選手たちの喜ぶ姿を、静かに見守っていた。
「おい、熊野!」
俺は、ビール瓶を二本掴んで熊野のもとへと向かった。床が濡れていて滑りそうになりながら、何とか辿り着く。
「三井...?」
「何やってんだよ。お前も優勝の立役者だろ」
俺は、ビール瓶の一本を熊野に渡した。
「でも、俺は選手じゃ...」
「関係ねえよ。お前がいなきゃ、この優勝はなかった」
それは、本心だった。社交辞令でも、お世辞でもない。
今シーズン、熊野はスコアラーとして、相手チームの詳細なデータ分析を行い、俺たちに的確な配球アドバイスを与え続けた。試合前のミーティングで提示される、相手打者の癖、投手の傾向、チーム全体の戦術。それらは全て、熊野の緻密な分析の結果だった。
シーズン序盤、俺たちは苦戦していた。投手陣の防御率は高く、打線も沈黙しがちだった。五月の時点で、借金が5まで膨らんでいた。だが、6月に入ってから、チームは変わった。
熊野のデータ分析が、本格的に機能し始めたのだ。
相手投手の配球パターン、打者の苦手コース、守備位置の最適化。全てが数字で示され、それが的中した。
六月は15勝8敗。七月は18勝5敗。八月は16勝7敗。
気づけば、俺たちは首位を走っていた。
特に、今日の試合。大阪タイタンズの4番打者、リーグ本塁打王の南に対する配球は、熊野のアドバイスが決定打だった。
「南は、カウントが追い込まれると、無意識に体重を前に掛ける癖がある。そこに外のスライダーを投げれば、必ず空振りする」
その言葉通り、俺は南から三度三振を奪った。南は今季、俺たち相手に打率.380を記録していた強打者だ。だが、今日は完全に抑え込めた。
「俺一人じゃ、南は打ち取れなかった。お前のデータがあったから、勝てたんだ」
熊野は、俺の言葉を聞いて、ゆっくりと頷いた。
そして、ビール瓶の蓋を開けた。
「...ありがとう、三井」
「礼なんていいんだよ。さあ、行くぞ!」
俺は、熊野に向けてビールを振りかけた。
熊野も、俺に向けてビールを浴びせる。
2人で笑いながら、ビールまみれになった。冷たいビールが顔にかかり、目に入り、口に入る。だが、それすらも心地よかった。
「熊野、お前と優勝できて良かった!」
「ああ! 俺も、お前と優勝できて...最高だ!」
熊野の声が、震えていた。笑っているのか、泣いているのか、もうわからない。
周りの選手たちも、俺たちに気づいて、ビールをかけてくる。
「熊野さん! 最高です!」
「今年のデータ、マジで神でした!」
再び若手たちが熊野に集まり、次々と熊野にビールを浴びせる。
熊野は、もう遠慮することなく、笑っていた。純粋な、子供のような笑顔で。
ビールかけが一段落したところで、テレビ局のアナウンサーが俺のもとへとやってきた。
「名古屋アウルズ、三井選手! 今、お時間よろしいでしょうか!」
若い女性アナウンサーが、マイクを向けてくる。カメラマンも、すぐ後ろに控えている。赤いランプが点灯し、撮影が始まっている合図だ。
「はい、大丈夫です」
俺は、まだビールで濡れたユニフォームのまま、カメラの前に立った。髪の毛も顔も、ビールでべとべとだ。だが、そんなことは気にならなかった。
「優勝、おめでとうございます! 今のお気持ちを聞かせてください!」
アナウンサーの声は、興奮で少し上擦っていた。
「ありがとうございます。まだ実感が湧かないですが...とにかく嬉しいです。チームのみんな、コーチ陣、スタッフの皆さん、そしてファンの皆さんのおかげです」
ありきたりな言葉かもしれない。だが、それが本心だった。
「三井選手は今シーズン、打率.289、ホームラン34本、打点92という素晴らしい成績を残されています。正捕手として、チームを引っ張り続けた一年だったと思いますが、今季を振り返っていかがですか?」
「そうですね...去年以上に、捕手としての責任を感じた一年でした。投手陣をどうリードするか、どう相手打線を抑えるか。毎試合、毎打席が勝負でした。でも、それを支えてくれたのが、うちのスコアラー陣です」
そう言って、俺は熊野の方を向いた。
熊野は、ロッカールームの隅で、こちらを見ていた。少し驚いた表情で。
「特に、今年から加入した熊野というスコアラーがいるんですが...彼のデータ分析は本当に的確で。今日の試合でも、相手の四番を三三振に抑えられたのは、彼のアドバイスがあったからです」
アナウンサーが、興味深そうに尋ねる。マイクを俺の方へと向け直し、カメラマンも少し寄ってきた。
「熊野さん、ですか。どのような方なんですか?」
俺は、一瞬言葉に詰まった。何から話せばいいのか。どこまで話していいのか。
だが、今日だからこそ、話すべきだと思った。
「彼は、元々社会人野球の選手でした。去年の都市対抗で久慈賞を取るほどの実力者で...俺の親友でもあります」
俺の言葉に、ロッカールーム内が少し静かになった。選手たちが、こちらを見ている。ビールをかけ合う手が止まり、会話が途切れる。
「彼は、プロの選手になる夢を持っていました。でも、ドラフトで指名されなかった。それでも野球を諦めず、スコアラーとしてこのチームに加わってくれた。俺は...彼に、この優勝を捧げたいです」
その言葉を口にした瞬間、俺の目から涙が溢れ出した。
嬉しさ、感謝、そして、少しの罪悪感。色々な感情が混ざり合った涙だった。
熊野は選手になりたかった。マウンドに立ちたかった。プロの舞台で投げたかった。
だが、その夢は叶わなかった。
俺は、その夢を掴んだ。恵まれた才能と、運に恵まれて。
そして今、優勝という栄光を手にした。
だが、熊野は裏方として。スタッフとして。選手たちの陰で。
「熊野、お前がいてくれたから、俺はここまで来れた。本当に、ありがとう」
カメラ越しに、熊野へと言葉を送る。
ロッカールーム全体が、静まり返った。ビールかけの騒ぎが、完全に止まっている。全員が、俺と熊野を見ている。
熊野は、目を真っ赤にして、小さく頷いていた。口を開こうとするが、言葉が出ない様子だった。ただ、涙が頬を伝って落ちていく。
「三井選手...素晴らしいお言葉、ありがとうございました」
アナウンサーの声も、少し震えていた。
熊野は、目を真っ赤にして、小さく頷いていた。唇を噛みしめ、涙を堪えようとしている。だが、涙は止まらない。頬を伝い、顎から滴り落ちる。
周りの選手たちが、パラパラと拍手を始めた。その拍手は、次第に大きくなり、ロッカールーム全体に広がっていく。
熊野に向けた、敬意と感謝の拍手。
熊野は、深く頭を下げた。何度も、何度も。
インタビューが終わり、再びビールかけの余韻に浸る選手たち。
だが、先ほどまでの騒ぎとは、少し雰囲気が変わっていた。より深い、静かな喜びが、ロッカールームを満たしていた。
選手たちは、改めて熊野に声をかけていた。
「熊野さん、今シーズン、本当にありがとうございました」
「あのデータがなかったら、俺たち、ここまで来れなかったです」
熊野は、一人一人に丁寧に答えていた。照れくさそうに、だが嬉しそうに。
俺は、少し離れたところから、その光景を見守っていた。
ようやく、熊野の居場所ができたのだと思った。
選手としてではなく、スタッフとして。だが、確かにこのチームの一員として。
しばらくして、ロッカールームの喧騒が落ち着き始めた。選手たちは、シャワーを浴びたり、着替えたり、思い思いに過ごしている。
俺は、熊野の隣に座った。
ベンチに腰を下ろし、並んで座る。高校時代、練習後によくこうやって座っていた。グラウンドの隅で、疲れた体を休めながら、他愛もない話をした日々。
「なんか、恥ずかしいこと言っちまったな」
俺は、頭を掻きながら言った。
「...いや。嬉しかったよ」
熊野は、静かに笑った。その笑顔は、穏やかで、満ち足りた表情だった。
「俺、思ってたんだ。選手になれなかった自分は、もう野球の世界にいる資格がないんじゃないかって。お前たちの邪魔になってるんじゃないかって」
熊野の声は、低く、少し震えていた。
「毎朝、球場に来るたびに思ってた。選手たちが練習する姿を見るたびに、自分もあそこに立ちたかったって。マウンドで投げたかったって。でも、それは叶わない夢で...」
「熊野...」
「だから、自分にできることを、精一杯やろうと思った。データ分析を徹底的にやって、少しでもチームの役に立とうって。でも、それでも時々、自分がここにいる意味があるのかって、わからなくなる時があった」
熊野は、天井を見上げた。蛍光灯の光が、涙に濡れた目を照らしている。
「特に、負けた試合の後は辛かった。自分のデータが間違っていたんじゃないか。もっと違う分析をすべきだったんじゃないか。選手だった頃なら、マウンドで自分の力で勝負できたのに...」
その言葉に、俺は胸が締め付けられた。
熊野は、そんな思いを抱えながら、この1年間を過ごしてきたのか。
「そんなわけないだろ」
俺は、強く言った。
「お前のデータは、いつも完璧だった。負けた試合だって、お前のせいじゃない。俺たちが打てなかったり、投手が抑えられなかったりしただけだ」
「でも...」
「お前がいなかったら、俺たちはもっと早く負けていた。それは間違いない。データを信じて、配球を組み立てることで、俺は自信を持ってリードできた。お前は、俺たちの目であり、頭脳だったんだ」
熊野は、俺の方を向いた。
「でも、お前の今の言葉で...救われた。俺も、この優勝に少しは貢献できたんだって。そう思えた」
熊野の目には、また涙が光っていた。だが、それは悲しみの涙ではなかった。安堵と、喜びの涙だった。
「少しじゃねえよ。お前の貢献は、計り知れない」
「三井...」
「俺たちの夢は、形を変えた。でも、同じ場所にたどり着いた。それで、良かったんだと思う」
俺は、熊野の肩に手を置いた。
春のキャンプで再会した時、俺たちは新しい約束をした。
選手と裏方として、同じ優勝という目標に向かって戦おうと。
そして今、その約束を果たした。
「ああ。これからも、一緒に戦おうぜ」
「...ああ」
二人で、ビール瓶を掲げる。
カチン、と小さな音が響いた。
その音は、新しい誓いの始まりを告げる鐘のようだった。
「まだ日本シリーズがある」
俺は言った。
「リーグ優勝だけじゃ、満足できない。日本一になろうぜ」
「ああ。絶対に日本一になろう」
熊野の目に、闘志が宿った。
その目は、選手時代と何も変わっていなかった。
野球への情熱。勝利への渇望。
それは、立場が変わっても、消えることはなかった。
「お前のデータで、俺たちを日本一に導いてくれ」
「任せろ。来年は、もっと精度を上げる。別リーグのチームも、徹底的に分析する」
熊野の言葉には、力があった。
もう迷いはない。自分の役割を、完全に受け入れている。
選手としてではなく、スコアラーとして。だが、その熱意は変わらない。
明け方になっても名古屋の街は祝賀ムードに包まれていた。
球場を出ると、すでに空が白み始めていた。長い一日だった。試合、優勝セレモニー、ビールかけ、インタビュー、ファンへの挨拶。全てが終わった時には、日付が変わっていた。
それでも、街には人があふれていた。
ファンたちが街頭に繰り出し、アウルズのユニフォームを着て、歌い、踊っていた。駅前の広場は、青色の波で埋め尽くされている。「名古屋! 名古屋!」というチャントが、夜明けの街に響いている。
ビールを浴びてしまったため、タクシーでマンションへと向かう。その途中、その光景を窓から眺めていた。
信号待ちで停車すると、横断歩道を渡る人々が、タクシーの中の俺に気づいた。
「あっ! 三井だ!」
「三井! 優勝おめでとう!」
窓を叩く音。手を振る人々。笑顔、笑顔、笑顔。
俺も窓を開けて、手を振り返した。
「ありがとうございます! みんなのおかげです!」
その言葉に、さらに大きな歓声が上がった。
タクシーが発進しても、後方から聞こえてくる歓声。それは、次第に遠ざかっていき、やがて聞こえなくなった。
マンションに着いたのは、午前5時を過ぎていた。
部屋に入り、シャワーを浴びる。ビールの匂いと、汗の匂いを洗い流す。温かいお湯が、疲れた体を癒していく。
シャワーを浴びながら、今日一日を思い返した。
試合の緊張感。最後の一球。ゲームセットの瞬間。マウンドでの抱擁。ビールかけの狂騒。インタビューでの涙。そして、熊野との会話。全てが、夢のようだった。
シャワーから上がり、タオルで体を拭きながら、リビングへと向かう。
窓の外は、すでに明るくなり始めていた。東の空が、オレンジ色に染まっている。新しい一日の始まり。
マンションの窓から、その光景を眺めながら、俺は思った。
この景色を、熊野にも見せてやりたかった。選手として、マウンドから。
プロの投手として、勝利を掴み取った後の景色。スタンドを埋め尽くすファンの歓声を、自分に向けられたものとして感じる喜び。
だが、それは叶わなかった夢だ。
熊野は、選手にはなれなかった。マウンドに立つことは、もうない。
それでも、熊野は今、俺たちと同じチームにいる。同じ優勝の喜びを分かち合っている。
それだけで、十分だ。
いや、十分以上だ。
今の熊野は、確かに輝いている。
スコアラーとして、自分の価値を認められている。選手たちから感謝されている。チームに必要とされている。
それは、選手として成功することと、同じくらい価値があることなのかもしれない。
ソファに座り、深くため息をついた。
疲れが、どっと押し寄せてくる。アドレナリンが切れ、体中の筋肉が悲鳴を上げている。
だが、心地よい疲れだった。
スマホが震えた。
画面を見ると、熊野からのメッセージだった。
『三井、今日は本当にありがとう。お前と一緒に、優勝できて良かった。来年も、絶対に勝とう』
その短い文章を、何度も読み返した。
「お前と一緒に、優勝できて良かった」
その言葉が、胸に響く。
熊野も、同じことを思ってくれていたのだ。
選手としてではなく、スタッフとして。だが、確かに一緒に戦い、一緒に勝利を掴んだ。
俺は、すぐに返信した。
『ああ。来年も、その次も。ずっと一緒に戦おうぜ、熊野』
メッセージを送信し、俺は窓の外を見上げた。
名古屋の夜空には、まだいくつかの星が瞬いていた。朝日に消されていく星々。だが、それらは確かに輝いていた。
カコンと何かが投函された小気味よい音が、静かなこの部屋に響く。
俺は、うとうとしかけていた意識を、その音で呼び覚まされた。
ソファで、いつの間にか眠りかけていたらしい。時計を見ると、午前6時を少し過ぎたところだった。
玄関まで歩いて確認すると、それは今日の朝刊であった。
新聞を手に取り、リビングへと戻る。まだ体は重いが、興奮が完全には冷めていない。
一面を開くと、大きな見出しが目に飛び込んできた。
『名古屋アウルズ、8年ぶりのリーグ優勝! 三井、涙の感謝 "親友のスコアラーに捧ぐ"』
その文字を見た瞬間、昨日の全てが、現実だったのだと改めて実感した。
記事には、ビールまみれで笑う俺と、その隣で静かに微笑む熊野の写真が掲載されていた。
写真の中の俺は、満面の笑みを浮かべている。両手を上げ、ビール瓶を掲げている。
そして、その隣の熊野。
熊野の表情は、少し控えめだった。だが、確かに笑っていた。目尻に皺を寄せて、心から喜んでいる表情。
その写真を見ていると、胸が熱くなった。
記事を読み進める。
試合の経過、選手たちのコメント、監督のインタビュー。そして、俺のインタビューの内容も、詳しく書かれていた。
『三井捕手は、インタビューで涙ながらに語った。「今年から加入したスコアラーの熊野のおかげで、この優勝がある。彼は元社会人野球の選手で、都市対抗で久慈賞を受賞するほどの実力者だった。だが、ドラフトで指名されず、それでもスコアラーとしてチームに加わってくれた。彼に、この優勝を捧げたい」と』
その文章を読んで、昨日の自分の言葉を思い出した。
あの瞬間、俺は何を思って、あんな言葉を口にしたのだろう。
計算ではなかった。台本でもなかった。
ただ、本心から溢れ出た言葉だった。
熊野への感謝。そして、少しの罪悪感。
俺は選手として優勝を味わっている。だが、熊野は選手になれなかった。
その事実が、喜びの中にも、小さな棘のように刺さっていた。
記事は続く。
『そして記事は「安濃津旋風は形を変えてこの名古屋の地で再び吹き荒れた」と記されていた。』
記事を読み終え、新聞を閉じた。
この一面を見て、俺は改めて思った。
夢は、終わらない。
形を変えて、続いていくのだ。
熊野の選手としての夢は、確かに終わった。だが、野球への情熱は終わっていない。
スコアラーとして、新しい夢を追いかけている。
そして、その夢は、俺の夢と重なっている。
俺たちの野球は、まだ終わらないのだと。
窓の外では、朝日が名古屋の街を照らし始めていた。
新しい一日の始まり。
そして、新しい目標への、スタートだった。
リーグ優勝は、ゴールではない。
日本シリーズがある。日本一という、さらに高い頂がある。
来年も、その先も。
俺たちは、勝ち続ける。
熊野と一緒に。
新聞を丁寧に畳み、テーブルの上に置いた。
この新聞は、大切に保管しよう。
いつか、俺たちが日本一になった時。
あるいは、俺たちが引退した時。
この日のことを思い出すために。
ソファに深く身を沈め、目を閉じた。
体は疲れているが、心は満たされていた。
これ以上ない、充実感。
そして、これからへの期待。
俺たちの物語は、まだ始まったばかりだ。
選手とスコアラー。
投手と捕手ではなく、捕手と分析官として。
それでも、俺たちは同じ夢を見る。
頂点を目指し、勝利を掴み取る。
何度でも。
これからもずっと。
意識が、ゆっくりと遠のいていく。
心地よい疲労に包まれながら、俺は眠りに落ちた。




