4.アピール
8月下旬。高層ビルひしめく東京は燦燦と太陽が照り付けていた。アスファルトから立ち上る陽炎が、遠くの景色を歪ませている。ビルの谷間を吹き抜ける風も、熱を帯びて肌にまとわりついてくる。
「名古屋アウルズ・三井要!今日もチームの"要"となる活躍!」
そんな文字が躍る新聞をホテルのロビーにある共有の新聞コーナーから手に取る。インクの匂いがかすかに鼻をついた。
私は思わず笑みを浮かべた。三井の顔写真が一面を飾っている。引き締まった顔立ち、鋭い眼光。力強い表情からは、野球に対する情熱が溢れ出ているようだった。あの冬、東亜製鉄四日市のグラウンドでよろめきながら走り、膝に手をついて息を切らせていた姿とは別人だ。虚ろだった目は消え、生気に満ちた輝きを取り戻している。
記事には三井の現時点での成績が詳細に記されていた。打率.276、本塁打15本、打点62。数字だけ見れば派手ではないかもしれないが、プロ7年目にしてようやく一軍で確固たる地位を築いたその意味は、誰よりも私が理解していた。二年目のジンクスどころか、入団以来ずっと2軍暮らしを続けていた男が、ついに正捕手の座をつかんだのだ。
それも、ただのレギュラーではない。チームの主軸打者として、クリーンアップを任されるまでになっていた。守備面でも投手陣からの信頼は厚く、配球のセンスと強肩が高く評価されているという。記事にはそう書かれていた。
期待されていたドラフト1位が遅くなったもののモノになったこと、そして地元出身選手の活躍であることに在名メディアは騒ぎ立てた。スポーツ紙だけでなく、地方紙の一面にまで三井の名が躍った。そして、いくつかのメディアは独占インタビューを三井に仕掛けた。
それらのどのインタビューでも三井の口から飛び出たのは「ルーキー」という言葉であった。
「俺はもう一度ルーキーになった」
「ルーキーの気持ちで一球一球に向き合う」
「プロで挫折して、もう一度ルーキーとして再出発することの大切さを学んだ」
そう答える三井の表情はどれも生き生きしていたように私の目には映る。それに胸が熱くなった。三井は忘れていなかった。あの冬の日々を、東亜製鉄四日市での練習を、そしてルーキーとして再出発することの意味を。あの日グラウンドで交わした言葉を、私たちと過ごした時間を。
ある記事では、三井が東亜製鉄四日市で練習していたことにも触れられていた。
『オフシーズン、三井は社会人野球チーム・東亜製鉄四日市で自主トレを行っていた。「あそこで野球の原点を思い出した」と三井は語る。午前中は製鉄所で働き、午後にグラウンドに立つ選手たち。限られた環境の中で、一球一球に全力を注ぐ姿勢が、三井の心に火をつけた』
記事を読み進めるうちに、あの冬の記憶が鮮明に蘇ってくる。真っ赤なスポーツカーから降りてきた三井の太った体。最初のキャッチボールで暴投気味になったボール。素振りでのキレを欠いたスイング。そして、フリーバッティングで私の球を空振りした時の悔しそうな表情。
だが同時に思い出すのは、三井の変化していく姿だった。毎朝誰よりも早くグラウンドに来て、黙々とストレッチとジョギングを続けた日々。練習後も一人残って素振りを繰り返す背中。食事を見直し、夜の暴飲暴食をやめ、早く寝るようになったと語っていた時の真剣な表情。
そして、4週間目に入った頃には別人のようになっていた三井の姿。ランニングでは中位集団についていけるようになり、スイングは以前の鋭さを取り戻しつつあった。何より、虚ろだった目が生き生きとした輝きを取り戻していた。
「熊野、ありがとうな」
ある日の練習後、三井が私に声をかけてきた時のことを思い出す。
「こんな俺を受け入れてくれて。正直、最初は断られると思ってた。プロで失敗した奴なんて、どこも欲しがらないだろうって」
「それは違うよ。お前には才能がある。それは今でも変わってない」
「才能か……でも、才能だけじゃダメなんだよな。それを、ここに来てようやく理解できた」
その時の三井の言葉には、確かな手応えが感じられた。こいつは本当の意味で野球と向き合い始めている。そう確信した瞬間だった。
新聞を丁寧にたたみ、私はロビーのソファに深く腰を下ろした。窓の外では、都会の喧騒が途切れることなく続いている。車のクラクション、人々の話し声、電車の音。東京の音だ。
三井もこの数か月、激動の時を過ごしてきたが、私も同様に激動の波にもまれた期間でもあった。いや、むしろ私の方が、運命の分かれ道に立たされていたのかもしれない。
都市対抗野球大会。8月下旬から9月上旬にかけて行われる、全国の社会人チームがトーナメントで争うこの大会はいわば社会人野球の甲子園だ。対となる日本選手権はドラフトの終わった11月上旬に開催されるため、プロへの試金石はこの都市対抗となる。
社会人からプロに行く選手は必ずと言っていいほど、この舞台で成績を残し、スカウト陣のお眼鏡にかなう。プロの舞台で活躍する名だたる選手たちが、この舞台で輝きを放ち、プロへの切符を手にしてきた。逆を言えば、この舞台で成績を残さなければプロに行ける確率はグンと下がる。いや、ほぼゼロに等しいと言っても過言ではない。
東亜製鉄四日市は東京ドームで行われる本選へ乗り込むため、予選に乗り込んだが、ラストの1枠を争う第6トーナメントまで残ってしまった。東海地方は6枠も出場枠が確保されているが、全国レベルの強豪がしのぎを削り合っている激戦区だ。プロ選手を数多く輩出してきた名門ばかりだ。
そんな競合相手にここ最近パッとしない中堅がそうやすやすと勝ちを拾えるわけがなかった。だが、そう簡単に負けるわけにはならなかった。今年でプロへ行けなければ、野球をすることを辞めるとあの冬の喫茶店で決心したのだ。その時の三井の顔が、今でも鮮明に思い出される。震える声で私の発言が本当なのか聞き返してきた三井。その声には親友として本気で心配しているのがうかがえた。
ラストの1枠を争う第6トーナメント、私は死力を尽くした。
私の奮闘の甲斐あってか決勝の舞台へ幸運にも駒を進めることができた。しかし、決勝の舞台で待ち構えていたのは古豪・鳴海自動車であった。
鳴海自動車はここ最近は一次予選敗退もそう珍しくないが、一昔前までは打ち勝つ野球で他を圧倒し、都市対抗の優勝常連チームであり、数々のスラッガーをプロの舞台へ送り出している。往年のプロ野球ファンなら誰もが知る名選手たち。彼らはみな、鳴海自動車のユニフォームを着て、この都市対抗で輝きを放っていた。
現在も強力打線は鳴りを潜めずに猛打を繰り広げるが、リリーフ層の薄さや乱守で勝ちを取りこぼしている。それでも打線の破壊力は健在で、一度火がつけば10点、15点と取る試合も珍しくない。
とはいえ、名門VS中堅の戦い。鳴海自動車が持ち前の打棒で試合を優勢に進め、そのまま勝ちを手にするだろうというのが大方の見方であったであろう。スポーツ紙の端に小さく掲載された予想でも、鳴海自動車の勝利確率は80パーセント以上とされていた。だが、蓋を開ければ、そんな予想から外れる試合内容となった。
試合当日の朝、私は緊張で目が覚めた。時計を見ると、まだ午前5時だった。窓の外はまだ薄暗く、街も静まり返っている。だが、もう眠れそうになかった。
ベッドから起き上がり、窓辺に立つ。遠くに見える球場の照明塔が、朝靄の中にぼんやりと浮かび上がっている。あそこで、今日、私の運命が決まる。プロへの道が開かれるか、それとも完全に閉ざされるか。
あの冬、三井と約束したことが頭をよぎる。
「いつか、プロの舞台で、お前と組みたい」
三井の言葉が、耳に蘇る。その約束を果たすためには、今日の試合で結果を残すしかない。絶対に、プロのスカウトの目に留まる投球をしなければならない。
前試合で先発登板していた私はベンチで待機していた。東亜製鉄四日市のユニフォームに袖を通し、ベンチから試合の行方を見守る。周りのチームメイトたちも、緊張した面持ちで試合開始を待っていた。
試合は初回から鳴海自動車が押し気味に進めていた。先頭打者が初球をレフト前へ運ぶと、次の打者も続いてヒット。あっという間に無死一、三塁のピンチを招いた。
味方の先発投手は必死に踏ん張ったが、4番打者に犠牲フライを打たれて先制点を許す。さらに5番打者にもタイムリーを打たれ、初回で2点のビハインドを背負った。
2回、3回も鳴海自動車のペースが続いた。味方打線は相手エースの緩急を使った投球に翻弄され、チャンスらしいチャンスを作れない。守備陣も固さが目立ち、本来なら捕れるはずのゴロをエラーする場面もあった。
3回終了時点で0-2。鳴海自動車がこのままの勢いで勝ちを拾うだろうというムードが球場を包んでいくのが否が応でも実感した。観客席からも、諦めにも似た空気が伝わってくる。ベンチの選手たちの表情も、徐々に暗くなっていった。
だが、その勢いを食い止めたのは他ならぬ私だった。
3回裏、坂田が私を呼んだ。
「熊野、行けるか?」
「はい」
即答した。今日のために、この瞬間のために、私は野球を続けてきたのだ。
疲労がたまっている体に鞭を打って、4回からマウンドに上がった。マウンドに立つと、不思議と緊張が消えた。代わりに、冷静な集中力が全身を満たしていく。
アンダースローの構えから、私は丁寧にコースを突いた。鳴海自動車の打者たちは、それまでオーバースローの投手と対戦していたため、私の独特な軌道に戸惑っているのが見て取れた。
初球、アウトローのシンカー。打者はタイミングを外され、空振り三振。
次の打者には、インハイのストレートとアウトローのスライダーを織り交ぜ、最後はアウトコースいっぱいのムービングファストで内野ゴロに打ち取った。
3番打者は、私のリリースポイントを見極めようとじっくり見てきたが、カウントを整えた後、アウトコースのシンカーで見逃し三振に仕留めた。
4回表、三者凡退。ベンチに戻ると、チームメイトたちの表情が変わっていた。諦めかけていた目に、再び闘志の炎が灯っている。
「ナイスピッチ!」
「熊野、お前が流れを変えた!」
声をかけられながら、私はベンチに座った。タオルで汗を拭いながら、味方打線の攻撃を見守る。
5回、6回、7回と、私は鳴海自動車の強打者たちのタイミングを外し続けた。アンダースロー特有の揺れる軌道を活かし、同じフォームから多彩な変化球を投げ分ける。四球でランナーを背負っても慌てず、内野ゴロとフライで要所を締める。三井との練習で培った配球理論を駆使し、打者の裏をかき続けた。
気付けば8回まで投げ切り、失点はわずかゼロ。強力打線相手にしては出来すぎの内容だった。球場がざわめき始めた。スタンドの一角には、スーツ姿の男たちがメモを取りながら私の投球を注視していた。スカウトたちだ。
私が登板している間に相手の拙い守備につけこんだ味方打線がなんと5点をもぎ取ることに成功していた。
勝ち投手の権利を持ったまま8回のマウンドを降り、ベンチに戻ると、チームメイトたちが口々に声をかけてくる。
「ナイスピッチ!」
「熊野さん、マジでエースや!」
「このまま逃げ切るぞ!」
その顔はどれも満面の笑みで、私も自然と笑って応えた。あの冬積み重ねてきた努力が、ようやく形になりつつある。三井との約束に、一歩近づいている。そんな実感がじんわりと胸を満たしていった。
だが、今振り返れば、この瞬間こそが落とし穴だった。
わずかなリードを手にし、強豪相手に善戦している。9回のみを抑えれば勝利が転がり込んでくる。そして、この試合での好投が認められれば、プロへの道が開かれるかもしれない。そんな余裕に似た感情が、ベンチ全体に知らず知らずのうちに漂い始めていたのだ。
その気の緩みは、残酷に結果へと表れた。
9回表。私の後を継いだ若手投手がマウンドに上がった。経験の浅い投手だったが、ここまでの試合で好投を見せており、坂田監督も信頼を寄せていた。
「大丈夫だ。3点差ある。普通に投げれば抑えられる」
監督の言葉に、若手投手は緊張した表情で頷いた。
だが、鳴海自動車の強打線に、そんな甘い考えは通用しなかった。
先頭打者が初球をレフト前へ運ぶと、次の打者も続いてヒット。無死一、二塁。ベンチに緊張が走る。
最初のヒットが出たときは、まだ落ち着いていた。「大丈夫だ」「ここから抑えればいい」という声がベンチから飛ぶ。だが、次の打者が初球を思い切り振り抜くと、打球はライト線を破る長打となった。一塁走者がホームに生還し、5対3。
そのあたりから空気が変わり始めた。ベンチの声が小さくなり、守備陣の動きにも焦りが見える。マウンドの若手投手の表情は強張り、呼吸が荒くなっている。
さらに四球で満塁。そして、4番打者に外角の甘く入った球を捉えられ、センター前へタイムリー。2点が還り、同点に追いつかれた。
坂田監督が慌ててタイムを取り、マウンドへ向かう。だが、投手の目はもう虚ろだった。完全に気持ちが折れている。
タイムが明けた後、次の打者が初球を強振。打球は高々と舞い上がり、そのままレフトスタンドへ吸い込まれていった。3ランホームラン。
8対5。一気に3点を奪われた。
4番手がマウンドに上がった時には、もう流れは完全に相手に傾いていた。必死に食い止めようとしたが、次の打者にもタイムリーを打たれ、さらに失点。9対5。
その後、何とか2アウトを取ったが、最後の打者にも痛打を浴びせられた。レフト線を破る二塁打で、さらに2点が加わった。11対5。
気付けば、スコアボードには無情にも「11」の数字が刻まれ、私たちの得点は「5」のままだった。
11-5。完敗だった。
試合後、ロッカールームは静まり返っていた。誰もが下を向き、言葉を失っている。悔しさ、怒り、虚しさ、責任感。それらが混ざり合い、誰ひとりとして言葉を発しようとしなかった。
窓の外からは、次の試合の歓声が聞こえてくる。私たちの時間は、もう終わってしまったのだ。
もう私の野球生命は終わりを告げたのだ。
そんな絶望的な思いが、胸を締め付ける。プロの舞台で活躍する社卒選手たちは都市対抗で大活躍を収める、もしくはプロのスカウトが頻繁に来るような強豪チームに所属している。決して名門でもないチームに所属している私にとって、都市対抗に行けないことはプロ野球選手への道を絶たれたことを意味した。
8回までの好投も、もう意味がない。結果的にチームは負けたのだから。スカウトたちは、勝利に貢献できない投手など評価しない。そう思うと、やりきれない思いが込み上げてくる。
三井とバッテリーを組むことを約束したあの冬の日が鮮明によみがえってくる。
交わした言葉が、今は遠い夢のように思える。自分の長らくの夢が水の泡になるのを改めて実感すると涙が流れてきた。悔しさで拳を握りしめる。爪が掌に食い込み、痛みが走るが、それでも力を緩めることができなかった。
けれど私は、その沈黙が逆に心を奮い立たせた。
ふと、三井の姿が頭に浮かんだ。あの冬、よろめきながら走り、空振りを繰り返し、それでも諦めずに練習を続けた三井。プロで失敗し、どん底まで落ちながらも、そこから這い上がった三井。
あいつができたんだ。なら、俺にできないはずがない。
あの冬に決めた覚悟を、こんなところで裏切るわけにはいかない。三井は今、プロの舞台で輝いている。なら、俺も追いつかなければならない。諦めるわけにはいかないのだ。
翌日から、悔しさを発散するかのように私は練習にこれまで以上に打ち込んだ。朝は誰よりも早くグラウンドに来て、ランニングとストレッチから始める。午前中の製鉄所での仕事を終えた後は、すぐにグラウンドへ直行し、投球練習に没頭した。
暑さに体力を奪われても、腕が上がらなくなっても、泥のように疲れた夜でも、決して弱音を吐かなかった。チームメイトたちも、同じ思いだった。悔しさをバネに、全員が必死に練習に取り組んだ。
たまに来るスカウトへ熱烈にアピールをし、少しでもプロ入りのチャンスをつかむのに必死になった。ここで折れるわけにはいかなかったのだ。三井との約束を、自分自身の夢を、諦めるわけにはいかない。
そんな中だった。
8月も終わりに差し掛かったある日、練習を終えてロッカールームで着替えていると、坂田監督に呼び出された。
「熊野、ちょっといいか」
「はい」
監督の表情は、いつもより真剣だった。何か重大な話があるのだろうか。そう思いながら、私は監督について行った。
監督室に入ると、坂田監督は椅子に座るよう促した。私が座ると、監督は深く息を吸い込み、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「鳴海自動車から連絡があった」
「……はい」
「お前を、補強選手として都市対抗に連れて行きたいと」
その言葉が、最初は理解できなかった。補強選手?私を?
「……俺が、ですか?」
信じられず聞き返すと、坂田監督は静かに頷いた。
「ああ。あの試合でのお前の投球を、鳴海自動車のスカウトが高く評価していたそうだ。結果的には負けたが、8回までの好投は本物だった。それに、アンダースローで変化球を巧みに使う投手は珍しい。先発投手として計算できると判断したらしい」
都市対抗では、本大会に出場するチームが不足ポジションを他チームから"補強選手"として迎え入れる制度がある。いわば、他チームから助っ人を借りる仕組みだ。その選手には、実力が高く評価されている証にもなる。
うれしくないはずがなかった。悔しさで沈んでいた心を、光が貫いたような感覚が走った。これは、プロへの道が完全に閉ざされたわけではないという証だ。
だが同時に胸が痛んだ。
自分だけが選ばれたという事実が、まるでチームを置き去りにするようで。
その夜、急遽開かれた打ち上げで、私はその胸中を吐き出すことができずにいた。だが。
「熊野、お前が選ばれて嬉しいよ」
「うちからプロ行くなら、お前しかいないと思ってたわ」
「鳴海行っても、東亜製鉄四日市の名を広めてこい!」
悔しさを隠せず、複雑な表情を浮かべながらも、仲間たちは祝福の言葉を投げかけてくれた。
その言葉のひとつひとつが胸に刺さった。
彼らの気持ちを無駄にしてはいけない。都市対抗の瞬間だけは鳴海自動車の一員であったとしても、俺は東亜製鉄四日市の代表だ。
あの冬、三井がルーキーとしてやり直したように、俺もここで賭けるしかない。
このチームの名を背負って、そしてプロのスカウトの目に必ず留まるために。
そう私は静かに、固く、心に誓った。
そんな経緯あって私は鳴海自動車の一員として、鳴海自動車御用達の東京のホテルに宿泊している。初戦・二回戦はロングリリーフとして登板して、準々決勝はベンチから試合を見守った。今日は準々決勝当日であり、今日の鳴海自動車の予告先発には熊野光太郎の名前が刻まれている。
今日の相手は新進気鋭のチームとして快進撃を続けている九州SDSだ。鳴海自動車同様、強打が売りのチームで準々決勝は15-5とワンサイドゲームを繰り広げた。
私は新聞を脇に置き、窓の外を見つめた。かすかではあるが東京ドームが見える。あそこで、今日、私は投げる。プロのスカウトたちが見守る中、自分の全てを出し切る。
時計を見ると、まだ午前7時を少し回ったところだった。試合開始は午後1時。6時間も時間を持て余していた。だが、ホテルにいても落ち着かない。
部屋に戻った後シャワーを浴び、練習着に着替える。ホテルのレストランで軽く朝食を取った後、私は球場へ向かうことにした。誰よりも早く、誰よりも長く、マウンドの感触を確かめたかった。
東京ドームに着くと、まだ観客の姿はほとんどなかった。関係者用の入口を通り、ロッカールームへ向かう。すでに何人かの選手が到着していて、黙々と準備を進めていた。
「熊野、早いな」
鳴海自動車の主将が声をかけてくる。
「はい。少し早めに来て、調整したくて」
「気合い入ってるな。今日は頼むぞ」
その言葉に、私は力強く頷いた。
グラウンドに出ると、空調の効いたドームの中は心地よい温度に保たれていた。人工芝の上を歩きながら、マウンドへ向かう。まだ誰も使っていないマウンド。そこに立つと、不思議と心が落ち着いた。
キャッチボールから始め、徐々に体を温めていく。肩の状態は悪くない。むしろ、これまでで一番いいかもしれない。ボールを握る手に力が入る。
ブルペンに入り、本格的に投球練習を始めた。シンカー、スライダー、ムービングファスト。一球一球、丁寧にコースを確認する。三井との練習で培った配球理論を、頭の中で反芻する。
「いい球投げてるな」
ブルペンキャッチャーが声をかけてくる。
「ありがとうございます」
「今日は任せたぞ。お前なら、九州SDSの強打線も抑えられる」
その言葉に、私は深く頷いた。
練習を終えてベンチに戻ると、他の選手たちも続々と到着していた。ロッカールームには緊張感が漂っている。準決勝。ここを勝てば、決勝進出だ。
「よし、集合」
監督の声がかかり、選手たちが円陣を組む。
「今日の相手は九州SDS。強打が売りのチームだ。だが、俺たちも負けてない。打って打って打ちまくれ。そして、投手陣は一球一球、確実にアウトを取れ」
監督の言葉に、選手たちが力強く応える。
「熊野」
監督が私を見た。
「お前が今日の鍵だ。アンダースローの独特な軌道で、相手打線のタイミングを外せ。お前なら、できる」
「はい」
即答した。今日のために、この瞬間のために、私は野球を続けてきたのだ。
試合開始が近づき、観客席が徐々に埋まっていく。スタンドの一角には、スーツ姿の男たちが陣取っている。プロのスカウトたちだ。彼らは手にメモとストップウォッチ、スピードガンを持ち、真剣な表情でグラウンドを見つめている。
私は深呼吸をした。緊張はある。だが、それ以上に、闘志が燃え上がっているのを感じる。
あの冬、三井と交わした約束。プロの舞台でバッテリーを組む。その約束を果たすために、今日、ここで、私は投げる。
午後1時。試合開始のアナウンスが流れた。
私は鳴海自動車のユニフォームに袖を通し、マウンドへ向かった。観客席からは歓声が上がる。スタンドを見上げると、無数の視線が私に注がれているのが分かった。
プレーボール。
初回表、私はマウンドに立った。九州SDSの先頭打者がバッターボックスに入る。俊足巧打が売りの1番打者だ。
私は深呼吸をし、構えた。アンダースローの独特なフォーム。そこから繰り出される多彩な変化球。三井との練習で磨き上げた配球理論。全てを、ここで出し切る。
初球、アウトローのシンカー。
打者はタイミングを外され、バットが空を切った。ストライク。
二球目、インハイのストレート。
打者は見送り、ボール。
三球目、再びアウトローのシンカー。
打者が振り抜くが、ボールは微妙に変化し、バットの芯を外す。内野ゴロ。一塁でアウト。
次の打者は小柄だが、巧みなバットコントロールが持ち味の2番打者。
私は慎重に攻めた。外角のスライダーとインコースのムービングファストを織り交ぜ、カウントを整える。そして、追い込んだ後、アウトコースいっぱいのシンカーで見逃し三振に仕留めた。
3番打者は、チームの主軸。パワーヒッターとして知られる選手で、今大会もホームラン王争いを演じる1人だ。
私は内角を厳しく攻めた。インハイのストレートで詰まらせ、最後はアウトローのスライダーでゴロに打ち取った。
初回表、三者凡退。
ベンチに戻ると、チームメイトたちが口々に声をかけてくる。
「ナイスピッチ!」
「その調子だ!」
私は静かに頷いた。まだ初回だ。気を緩めるわけにはいかない。
試合は投手戦の様相を呈していった。私は九州SDSの強打線を、丁寧なコントロールと多彩な変化球で翻弄し続けた。同じフォームから繰り出される球種は読みづらく、打者たちは徐々に焦りを見せ始めたようだ。
2回、3回、4回と、私は無失点で抑え続けた。九州SDSの監督がベンチで腕を組み、苦々しい表情を浮かべているのが見えた。
一方、味方打線も相手投手を攻めあぐねていた。3回までは両チーム無得点。緊迫した試合展開が続く。
4回裏、ついに均衡が破れた。
先頭打者がセンター前ヒットで出塁すると、次の打者が送りバントで二塁へ進める。そして、4番打者が外角の甘く入った球を捉え、ライト線を破る二塁打。一塁走者がホームに生還し、1対0。鳴海自動車が先制した。
さらに5番打者がタイムリーを放ち、2対0。ようやく得点が入り、ベンチの空気が一気に明るくなった。
「よし!この調子だ!」
「追加点取るぞ!」
だが、私は浮かれなかった。まだ5回だ。九州SDSの打線は強力だ。油断すれば、一気に逆転される可能性がある。
5回表、マウンドに立つ。ここからが正念場だ。
先頭打者は、九州SDSの6番。全試合マルチヒットを見せている好打者で、脚があるので、塁に出すと厄介だ。
この打者の出塁がターニングポイントになるとにらんだ私は慎重に攻めた。外角のスライダーとシンカーを織り交ぜ、内角には怖がらずストレートを投げ込む。カウントは2-2。ここからが勝負だ。
次の一球、私はアウトコースいっぱいのムービングファストを投げた。打者が振り抜くが、ボールは微妙に外へ逃げる。バットの芯を外し、レフトフライ。
私はガッツポーズを浮かべた。はたから見れば、単なる1アウトであるが、私の中では大きな意味を持つ1アウトだ。
次の打者には、インハイのストレートで詰まらせ、内野ゴロ。
そして3人目は、カウントを整えた後、アウトローのシンカーで三振に仕留めた。
5回表も三者凡退。
ベンチに戻ると、監督が私に声をかけてきた。
「いいぞ、熊野。その調子で行け」
「はい」
6回、7回と、私は九州SDSの打線を抑え続けた。相手打者たちは徐々に焦りを見せ始め、無理な攻めが目立つようになった。それが、さらに私の投球を楽にした。
一方、味方打線は6回に追加点を挙げ、3対0。7回にもタイムリーが出て、4対0。リードを広げていく。
8回表、私は再びマウンドに立った。ここまで投げて、疲労が溜まっているのは確かだ。だが、まだ投げられる。あと2イニング。ここまで来たら、完投するしかない。
8回も、私は丁寧に投げ続けた。四球でランナーを背負ったが、後続を断ち、無失点で切り抜けた。
そして、9回表。
マウンドに立つと、観客席から大きな歓声が上がった。スタンドのスカウトたちも、真剣な表情で私を見つめている。
ここだ。ここで抑えれば、完封勝利。そして、決勝進出。
先頭打者はピンチヒッターだった。代打の切り札として送り込まれた強打者だ。
私は外角を丁寧に攻めた。シンカーとスライダーを織り交ぜ、カウントを整える。そして、追い込んだ後、アウトコースいっぱいのムービングファストで空振り三振。
2人目も、同じように外角を攻め、最後はシンカーで内野ゴロ。
そして、最後の打者。
九州SDSの4番打者が、再びバッターボックスに入った。ここまで2打数無安打。完全に私の球を攻略できていない。だが、最後の意地を見せようと、鋭い目つきで私を睨んでいた。
私は深呼吸をした。最後の一球。ここで決める。
初球、外角のスライダー。打者は見送り、ボール。
二球目、インハイのストレート。打者が振るが、ファウル。
三球目、再び外角のスライダー。打者は見送り、ストライク。
カウントは1-2。追い込んだ。
私は捕手のサインに頷いた。最後はシンカーだ。
私はゆっくりとワインドアップに入り、腕を振り下ろした。ボールはアウトコースいっぱいに食い込んでいく。打者が振り抜くが、ボールは微妙に変化し、バットの芯を外す。
打球はセカンドゴロ。セカンドがこれを捕球し、一塁へ送球。
アウト。
ゲームセット。
その瞬間、ベンチから選手たちが飛び出してきた。マウンド上の私に駆け寄り、口々に祝福の言葉を投げかける。
「完封勝利だ!」
「ナイスピッチ!」
「最高のピッチングだ!」
その言葉のひとつひとつが、胸に染み入ってくる。私は静かに笑った。
やった。4安打完封勝利。そして、決勝進出。
スタンドを見上げると、スカウトたちが立ち上がり、拍手を送っているのが見えた。彼らの手元には、びっしりとメモが書き込まれている。
これで、プロへの道が開けるかもしれない。
三井、見てるか。俺は、お前との約束に向かって、一歩前進したぞ。
その夜、ホテルの部屋に戻ると、携帯電話が鳴った。画面を見ると、見慣れた名前が表示されていた。
三井だ。
私は電話に出た。
「もしもし」
「熊野!見たぞ!お前の完封勝利!」
三井の興奮した声が、電話口から飛び込んでくる。
「ああ……何とか抑えられた」
「何とかじゃない!完璧だった!アンダースローの独特な軌道、多彩な変化球、そして理詰めの配球。全部が噛み合ってた!」
三井の言葉に、私は笑った。
「お前が見てくれてたのか」
「当たり前だ!お前の試合、ずっと気にしてたんだぞ。ニュースで結果を知って、すぐに電話した」
「ありがとう」
「いや、礼を言うのは俺の方だ。お前、すごかったぞ。プロのスカウトも絶対に注目してる。このまま行けば、ドラフトで指名される」
その言葉に、私の胸が熱くなった。
「まだ、決勝が残ってる」
「ああ、分かってる。でも、お前なら大丈夫だ。絶対に抑えられる」
三井の声には、確信が込められていた。
「三井、お前も頑張ってるな。新聞で見たぞ。チームの主軸として活躍してるって」
「ああ……お前のおかげだ。あの冬、お前がいなかったら、俺は今ここにいない」
「そんなことない。変わったのは、お前自身の力だ」
「いや、お前がいたから変われたんだ」
三井の声が少し震えた。
「熊野、俺は待ってる。お前がプロに来るのを。そして、もう一度バッテリーを組むのを」
「ああ、分かってる」
私は力強く答えた。
「必ず、プロに行く。そして、お前とバッテリーを組む。それが、俺たちの約束だ」
「ああ、約束だ」
電話を切った後、私は窓辺に立った。夜の東京の街が、無数の光で輝いている。
決勝まであと3日。
最後の舞台で、私は全てを出し切る。
三井との約束を果たすために。
そして、プロの扉を叩くために。




